鏡花水月
寝る前に水を飲もうとして一階に降りると、ソファに座ってパソコンを眺めている平八を見つけた。
「まだ起きてたの?」
​私の声に、彼はキーを打つ手を止めずに「ああ」と短く応じる。
「ああ。やらなきゃいけないことがあったからな」
声をかけると、彼は画面から目を離さないまま返事した。
時計の針はすっかり深い時間を指している。こんな夜更けに一体何をしているんだろう。
興味をそそられた私は、手に持っていたコップをテーブルの置き、足音を立てないように背後からそっと画面を覗き込んだ。
「……何これ?」
画面には見覚えのある建物がいくつも並んでいる。
軍部の厳重な施設、総督府の本庁舎、そして先日ニュースの画面越しに見た魔都周辺の関連施設。
画面の脇には、時間や場所を分単位で記した細かな行動記録がずらりと並んでいた。
「見てもお前にはつまらねぇだろ」
「……」
図星だった。整然と並ぶ難解な暗号や数字の羅列が意味する内容なんて、私に分かるはずもない。
重治なら、一目で読み解いてしまうのかもしれないけれど。
「これ……ずっと調べてるの?」
「まあな」
「行方不明になった人達のこと?」
「それもある」
「それも?」
問い詰める私に答えることなく、平八は慣れた手つきで画面を下にスクロールしていく。
画面いっぱいに現れたのは、軍部や総督府に所属する人達のリストだった。
名前、現在の所属、過去の役職。そして、その横に赤字で強調された不自然なほど巨額のお金の流れを示すデータ。
「ねぇ、平八。魔都の事件は自分の仕業って前言ってたじゃん」
「ああ」
「行方不明の人達の居場所って知ってるの?」
「知ってどうする」
平八の手が止まる。低く、感情の籠もらない声が返ってきた。
「え?」
「居場所を知って、お前はどうするつもりだ」
「それは……助けに行く」
​反射的にそう答えた瞬間、カタカタと鳴っていたキーボードの音がぴたりと途絶えた。静寂が部屋全体を支配する。
「軍部からの依頼か?」
「え?」
​思いがけない鋭い問いかけに、私は思わず息を飲み、目を瞬かせた。
「お前らが魔都の事件を追っているのは、軍部に頼まれたからか?」
「……違うよ」
冷たい視線を受け止めながら、私は強く首を横に振った。
「正式な依頼は断ったよ」
「じゃあ、何で調べてる?」
​こちらを振り返った彼の冷たい視線を受け止めながら、私は強く首を横に振る。
「……平八が、犯人だと思ったから……」
「クククッ……良かったなぁ、お前らの予想が当たって」
嘲笑うような低い笑い声。
私は胸を押し潰されるような痛みを覚えながら、彼の袖をつかむ勢いで一歩踏み出した。
「平八……もうこんなことやめよう?みんなも復讐なんか望んでないよ」
私の言葉を聞いた平八は、しばらくの間、言葉もなく私を見つめていた。やがて彼はフッと自虐的な息を吐き出すと、どこか虚ろな目で呟いた。
​「紫乃。お前は、俺達と共に戦った盟友達を覚えているか?」
「……うん」
​忘れるはずがない。
あの血と泥に塗れた地獄のような戦場で、何度も背中を預け合った人達。くだらない雑談で笑い合い、わずかな食料を奪い合って、怒鳴り合って……それでも次の日には何事もなかったかのように頼もしく隣に立っていた仲間達。
​『記憶は声から忘れていく』なんて誰かが言っていたけれど、そんなのは絶対に嘘だ。
彼らの名前も、顔も、泥の匂いの混じった声すらも、昨日のことのように鮮明に思い出せる。
「俺が率いていた隊の奴らは、俺の亡骸を片付けてくれるはずだったのに先に鬼籍(きせき)に入っちまった」
平八はそう言って、乾いた笑いを漏らした。
「あんな戦場に身を投じなければ、大義の為に人を殺さず、温かい飯を食って恋人でも作って、ただ幸せに生を終えられたはずだったのにな……」
そこで言葉を一旦切り、何処か遠くを見つめる。
「……あいつらには、その資格があったのに」
絞り出すようなその声には、深い悔恨と絶望が滲んでいた。
私は言葉を失い、何も言い返すことができなくなってしまう。
どうしたら、どうしたら平八を止められる?
十秒、いや五秒あれば平八を納得させることができる完璧な回答を用意できるはずだった。
しかし、私は三十秒経っても口を開けなかった。
喉の奥がカラカラに乾き、胸の奥が焼き切れるように熱い。頭の中ではいくつもの言葉が浮かんでは消えていく。
「……ごめん」
けれど、すぐに思いつくような安易ば言葉は、たとえ嘘じゃなくても平八にはきっと届かない。
「何だか重い雰囲気だな」
背後の方から声がした。振り返ると、重治が階段を下りてくるところだった。
「少し平八(お前)と話がしたいと思ってな。電気がついていたからここかと思ったんだが……紫乃もいたのか」
「昔話をしていただけだ」
平八はそう言うと、メモ帳に何かを書き込むとパソコンの電源を切ってしまう。
​「こんな夜更けに昔話とは感傷的だな。どれ、俺も混ぜてもらおう」
「なんでだよ」
「お前らと黒歴史暴露大会がしたいだけだ」
「はぁ……?」
​平八の口から、心底信じられないといった様子の間の抜けた声が漏れた。
さっきまでの、過去の重圧に押し潰されそうになっていた暗いオーラが、重治の予想外すぎる一言で跡形もなく吹き飛んでしまう。
​「お前、夜更けにおかしくなったのか。誰がテメェの黒歴史なんて聞きたいんだよ」
「俺の黒歴史ではない。お前らの黒歴史を掘り起こして楽しむと言っているんだ」
「悪趣味!」
私が呆気に取られながらツッコミを入れると、二階から「なになにー!?誰の黒歴史バラすって?」と、ドタバタと騒がしい足音が降ってきた。
案の定、騒ぎを聞きつけた桃李だった。
「寝てたんじゃねぇのかよ」
「なんか面白いことが起きてる気がして起きた」
​「よし、桃李も来たな。では手始めに、平八が初陣の時に緊張しすぎて前夜に―――」
「おい黙れ!てめぇ、それ以上言ったらマジで斬るぞ」
​平八が血相を変えて立ち上がり、近くに置いてあった刀に手をかける。
「まぁ落ち着け。十四年も生きていたら黒歴史のひとつやふたつくらいあるというもの。例えばそうだな.......あぁ、確か崖から―――」
「黙れつったのが聞こえなかったか?」
平八の声が低く響く。
刀の柄に置かれた手には、明らかに力が入っている。
「何だ。随分と必死ではないか」
「当たり前だろうが!なんで夜中に昔の恥を掘り返されなきゃならねぇんだ!」
「崖から落ちそうになって、一晩中木の枝にしがみついていた話か?」
​重治が表情一つ変えずに言葉を継ぐと、平八の動きがピタリと止まった。
​それを良いことに重治は言葉を続ける。
「忘れもしない。あの時のお前の顔は実に見ものだった」
「マジで!?平八、崖から落ちかけて木にしがみついてたの!?うわー、俺その時別の隊率いてたから見れなかったの悔し〜」
​桃李が腹を抱えて爆笑し、そのまま床に転がり込む。
​「重治、てめぇマジで許さねぇ!表出ろ!」
「待て平八、事実を述べたまでだ。ちなみに桃李と紫乃は見張りをしていた平八に上手く作戦を伝えられていなくて三人で喧嘩していたところを敵に見つかり、本来隠密奇襲作成だったが結局暴れて押し通してきたことも、よぉく覚えているぞ」
​突きつけられた唐突な道連れに、私と桃李の動きが同時に固まる。
「「「あの時は本当にすんませんでした!!」」」
三人の声がぴったり揃って一緒に重治に頭を下げた。
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