『バンコクの屋台は微笑まない』~人生を変えた一本のとうがらし!
EP2. 運河沿いのグリーンハウス

1. 緑のトタン屋根
一九九二年、三月某日。
向井健司にとって、タイ支社オフィスへの初出社の日がやってきた。
午前八時三十分。
オフィスは外界の混沌が嘘のように静まり返り、冷房が肌寒いくらいに効いている。
自動ドア一枚を隔てた向こう側にある、スチームサウナのような湿気と熱気は、ここには一切届かない。
向井は出発前に、日本橋の三越本店で新調したばかりの、チャコールグレーのスーツにエルメスのネクタイを当時の流行である完璧なディンプルで締めていた。
昨夜のソムタムによる腹痛は、早朝から正露丸を四粒飲むことで無理やりねじ伏せている。
―おそるべし、日本の“正露丸”の威力だ。
そこへ、社長の竹本が寝癖を残したまま、だるそうに「ふぅー」と吐息を漏らして入ってきた。
昨夜の接待か、あるいは歓楽街のホステスにうつつを抜かしたままのような、生々しい“夜の残り香”を漂わせている。
社長室の立派な応接セットには、事務所開設の際の贈答品だろうか、色鮮やかなベンジャロン焼の壺が鎮座していた。
向井がその用途も意味も分からずしげしげと見つめていると、その傍らには一房のバナナが無造作に置かれているのが目に入った。
高級な伝統工芸品と、剥き出しの熱帯の果実。
その調和を欠いた光景に向井は、説明しがたい不思議な感覚に包まれながら社長を待っていた。
「おはようございます!研修生の向井、向井健司です。本日よりお世話になります!」
直立不動の挨拶に対し、ゴルフ焼けした竹本は「ああ、君が向井君か、ま、死なない程度に頑張れよ!」と、バブル期の高揚感を隠そうともしない大雑把な激励を飛ばした。
社長が席に着くと同時に、秘書のパワナーが淹れたての熱い珈琲と灰皿を持って入ってきた。
彼女はタイ語、英語、日本語を完璧に操るという。
向井が丁寧な挨拶をすると、彼女は氷のような微笑を浮かべ、事務的に向井の名刺の箱を向井に「あなたの名刺です、どうぞ」と一言だけ言って手渡した。
その所作の一つひとつに、他人を寄せ付けない気品と、華麗にも冷たい響きがあった。
社長室を出ると、教育係となる佐藤が煙草を吸いながら向井の机に座っていた。
佐藤は五つ上の先輩駐在員だ。
肌はゴルフ焼けなのか浅黒く、ネクタイの結び目もどこか緩い。
「お前、その格好で一日もたねぇぞ……」と意味深に笑う。
隣の彼のデスクには、システム手帳が広げられ、四角いフロッピーディスクが散らばって、古
いPCのスクリーン上に緑色の文字が点滅している。
「ここ、お前の席だから……」
佐藤は向井の机に置いた灰皿で煙草を消して、立ち上がった。
(この無神経な男から、一体何を学べというのか……)
向井は、自身の嫌悪感を押し殺し、「はい、ありがとうございます」と言って席に着いた。
2. ウィチャイ部長の「ニホンゴ…ワカラナイ」
オフィスの実質的な支配者は、タイ人部長のウィチャイだった。
五十歳手前、色黒の二重まぶたの大きな眼、突き出た腹という黒い出目金の様な体躯の男。
それでも会社創立以来、勤続二十年のベテランだ。
向井は彼の前に立ち、日本式にお辞儀をし、胸の前で手を合わせる「ワイ」を添えて日本語で挨拶した。
「向井健司です。一日も早く現地の仕事に慣れ、この会社に貢献したいと考えています。宜しくお願いします!」
ウィチャイはその大きな眼を細くして、ニコニコ顔で返答した。
「I'm sorry, I don't understand Japanese. Too difficult...」
(日本語はわかりません。難しい……)
横で佐藤が苦笑いする。
向井は確信した。
この出目金、自分の日本語を完璧に理解している。
向井は得体の知れない煙に巻かれたような、言いようのない戸惑いを感じていた。
3. 運河沿いのグリーンハウス
正午。
タイ人スタッフたちは、十二時きっかりに席を立ち、連れ立ってオフィスを出ていく。
「ああ、もう昼か。向井、悪い、近くで昼飯でもいいか?」
タイ支社の英文の会社案内をめくっていた向井に話しかけて来た。
歓迎会を兼ねた清潔なレストランを期待していた向井だったが、佐藤が向かったのはオフィスの隣、建設現場の裏手を流れる悪臭を放つ、墨色のような運河の橋の袂だった。
南国の正午、照りつける太陽がアスファルトの熱をスーツの裾から吸い上げる。
徒歩三分。
橋の下に、緑色のトタンと木材で組まれた怪しげな構造物が見えた。
通称「グリーンハウス」というらしい。
向井は何処が”緑の家”なのか想像もできず、単に煤けた緑色のトタンで囲まれたメシ屋であって、恐らく佐藤あたりが適当に名付けたのだろうと思った。
天井は低く、後付けの換気孔からは逃げ場のない熱気が籠もる。
唯一、墨のように濁った運河の水面を渡ってくる風だけが頼りだった。
メシ屋の主人は猫背で強面、髭面のイスラム系中年男性。
店内は周辺ビルで働く従業員と、数人の日本人駐在員が既に注文を終えていた。
ステンレスのガタつくテーブル脇では、工事現場用のような巨大な首振り扇風機が唸りを上げているだが、熱風をかき回すだけだ。
スーツの脇には汗が滲み、ネクタイが首を締め上げる。
“アジアの食卓”ここにあり……か。
仄かな希望と衛生感覚が麻痺するほどのカオスの中にこそ、駐在員たちが愛してやまない本物の「味」があるのだと、向井は自分に言い聞かせた。
4. 黄金の牛タン、背徳の美味
「センレック(米粉の中細麺)、大盛り二つ。コーラ一本、コップは二つ」
佐藤が座るなり、流暢なタイ語で注文する。
主人は無言で頷く。
阿吽の呼吸だ。
数分と経たずに、分厚い牛タンが乗ったクィッティオ(タイ式ラーメン)が運ばれてきた。
向井は目の前の一杯に意識を集中させた。
煮込んだ大根と空心菜の間に埋もれるように鎮座し、そこに中細麺のセンレックが微妙に絡みついている。
スープは、日本の赤みそのような赤茶色をしているが、ところどころに牛脂が停滞している。
一口啜れば、八角とシナモンの香りが、煮込まれた牛骨の重厚な旨味を抱きしめている。
そして主役の牛タン。
箸で持ち上げれば自重で繊維がほどけるほど柔らかい。
口に含めば、弾力という言葉を忘れた肉塊が、舌の上で脂の甘みを爆発させて溶けていく。
“これが、このカオスな屋台で出される味なのか!”
日本の焼肉屋で食べてきた整然とした「タン塩」が霞んで見える。
この野蛮で緻密な肉の塊は、向井の正しい"牛タンの定義”を音を立てて破壊した。
「美味いだろ?本当のタイの食文化はこういうところにあるんだよ」
佐藤はクスクスと笑いながら、向井の“陥落”を楽しんでいた。
向井は必死にメニューの名前をメモしようとしたが、持ってきたノートは既に汗でふやけていた。
5. パワナーという名の地雷
佐藤は、出所不明の氷が入ったコップにコーラを注ぎ、声を潜めた。
「あのな、向井。秘書のパワナー。彼女には絶対に手を出すなよ…」
「美しい方ですが……何かあるんですか?」
「美しいなんてレベルじゃない。これまで何人もの駐在員が彼女を口説こうとして、再起不能なまでに“玉砕”している。彼女は華僑の資産家の娘だ。暇つぶしでここにいるだけで、俺たちの給料なんて彼女にとっては端金なんだよ」
向井の脳裏に、あの色白で華奢な妖精のようなパワナーの姿が浮かぶ。
「気に入られれば仕事はスムーズだが、一歩間違えればお前のキャリアは終わる。それからな……」
佐藤は最後の一口をかき込み、クシャクシャの二十バーツ札を置いた。
「え、まだあるんですか?」
向井は息継ぎをするように、出所不明の氷が入った、タイ仕様の毒々しく甘いコーラに初めて口をつけた。
「実はうちの社長、彼女を虎視眈々と狙ってるんだ」
向井は危うく、口に含んだコーラを噴き出しそうになった。
「あの社長がですか? それは大問題に……」
「ああ、本気らしい。だが彼女の逆鱗に触れてみろ、この支店ごと吹き飛ぶぞ。お前は絶対に巻き込まれるな」
6. 名刺の肩書
オフィスに戻ると、冷房の乾燥した空気が再び向井を包んだ。
デスクの先に座るパワナーは、長い黒髪を弄びながら高価そうな計算機を叩いている。
向井は佐藤から渡された書類を持って、緊張で声を上擦らせながら彼女のデスクへ歩み寄った。
「……パワナーさん、この書類のタイ語訳をお願いします」
パワナーはゆっくりと顔を上げた。
その黒く濡れた瞳は、向井が隠そうとしている動揺のすべてを見透かしているようだった。
彼女は書類を受け取ると、向井のエルメスのネクタイを冷ややかに見つめ、不意に完璧な日本語で呟いた。
「牛タンの脂、ネクタイに飛んでますよ。向井さん」
向井は、完全に自分の底を見透かされたような底寒い恐怖に絶句した。
高級ネクタイに染み付いた脂の匂いとともに、向井の混迷は深まっていく。
席に戻った向井は、彼女から渡された名刺を手に取った。
“Sales Manager" ―営業マネジャー
日本では肩書きすらない、新人の自分に対し、ここでは「マネジャー」という肩書が名刺に印刷されている。
タイの格差社会の圧倒的な権力誇示の風潮を、向井は痛烈に肌で感じるのだった。
赴任前に新調したエルメスのネクタイに付いた、牛タン麺の脂のシミを見つめながら、朝の誓いをもう一度自分自身に言い聞かせた。
「二度と、あんなものは食わない……」
(つづく)


