ORANGE×BOY
大嫌いなヤンキーのはずだった。
関わっては人生で大切な何かを失うような、別世界の生き物のはずだった。
それなのに、彼の屈託のない笑顔を思い出すたびに、胸の奥の、自分でも名前のつけられない場所がどうしても熱くなってしまう。
それは、咲良がこれまで頑なに信じ込んできた歪んだ固定観念が、体温によって少しずつ溶かされていくような、そんな奇妙な感覚だった。
その変化が咲良はどうしようもなく悔しくて、そして、ほんの少しだけ、怖かったのだ。
トイレの近くにある、普段は誰も使わないような廊下の曲がり角の階段。
咲良はそこに、魂が抜けたようにひっそりと座り込んだ。
ここで5分、いや、安全を期して10分くらい時間を潰してから教室に戻れば、いくらあの気まぐれな先輩でも、もう自分の縄張りへ帰っているはずだ。
咲良は膝を抱え、本日何度目かもわからないため息を吐き出す。
世界のノイズから切り離された薄暗い階段で、しばらく自分の自意識と向き合う物思いに耽っているうちに、それなりの時間が経過した。
さぁ、そろそろ平穏な教室へ戻ろう。
そう思って立ち上がり、踵を返そうとした、その瞬間だった。
「あ、こんな所にいた!」
ひょっこりと壁の向こうから顔を出したのは、咲良の脳内をさんざん掻き回した張本人だった。
「ひゃっ……!?」
幽霊にでも遭遇したかのような声をあげて、咲良は派手にバランスを崩した。
お決まりのように身体が重力に従って傾き、廊下へと倒れそうになる。
視界がぐらりと歪んだその刹那、先輩の顔に驚きが走ったのが見えた。
「っ咲良ちゃん!」
鋭い声と同時に、咲良の手首に強引で、けれど彼女の身体を絶対に傷つけないような絶妙な加減の力が加わり、ぐいっと引っ張られる。
恐怖で閉じていた目を恐る恐る開くと、そこにあったのは冷たい床ではなく、驚くほど高くて温かい、綾瀬先輩の胸板だった。
咲良は完全に、綾瀬先輩に縋り付くような形でもたれかかっていたのだ。
「……っ!」
心臓が爆発するかと思った。
咲良は弾かれたように、咄嗟に先輩の身体から距離を取る。
身体を引き離したはずなのに、彼が心配して顔を覗き込んできたせいで、咲良のすぐ目と鼻の先に、綾瀬先輩の国宝級の顔面が存在していたからだ。
長い睫毛の奥にある、あの少し眠たげで、けれど吸い込まれそうなほど綺麗な瞳がじっと咲良を見つめている。
「あ……っ」
あまりの距離の近さに、咲良は顔をこれ以上ないほど真っ赤に染め上げ、情けない声を漏らしてしまった。
「ごめん。そんなに驚くと思ってなくてさ……。びっくりした?」
綾瀬先輩は、咲良が怪我をしていないかを確かめるように視線を泳がせながら、にかっと、どこかホッとしたように優しく笑った。
そのやわらかな笑顔が、自分の心の固く閉じられた扉を開けられるようで、咲良はたまらなくなってギュッと両手を握りしめ、ふいっと顔を背けて視線を逸らした。
「……もう、こういうの本当にやめてください。はっきり言って、すごく迷惑です」
咲良の冷たい声に、蓮先輩は「え……?」と弾かれたように目を見開いた。
いつも余裕そうに笑っていた彼の顔に、初めて、明確な驚きと戸惑いの色が浮かぶ。
咲良は彼のその表情を見ないようにして、綾瀬先輩のすぐ横を、早足で通り過ぎた。
すれ違いざま、彼女は彼の心に冷たい楔を打ち込むように、ピシャリと、これ以上ないほど涼しい顔で言い放った。
「教室に来られるのも、本当に迷惑です。二度と、私の前に現れないでください」
そう言い残して、咲良は今度こそ振り返らずに、階段を駆け上がっていった。
大嫌いなヤンキー。
関わってはいけない人種。
なのに、どうしてこんなにも胸が痛くて、あの人の傷ついたような顔が頭から離れないのか、今の咲良には、どうしても分からなかった。
これで終わり。
これで彼は諦めて、自分の前から消えてくれるはず。
そう思ったのに、背後から聞こえてきたのは、予想だにしない間抜けた声だった。
「何で?」
綾瀬先輩は、心底不思議そうに首を傾げて問いかけてきた。
あまりにも自分の拒絶が響いていないその態度に咲良は思わず足を止め、カッとなって振り返った。
「何でって…、困るからですっ。そんなこともわからないんですか?」
「うん、わかんねー」
綾瀬先輩は両手をポケットに突っ込んだまま、けろっとした顔で言い放った。
「だって俺、咲良ちゃんに会いたくて来ただけだから。それの何がいけないの?」
「はぁ?」
今度こそ、咲良の口から本気の呆れ声が飛び出した。
あまりにも真っ直ぐで、あまりにも直球なその言葉に、一瞬だけ頭が真っ白になる。
「だから! その『会いに来る』っていう行為自体が、私にとっては迷惑だって言ってるんですけど!」
声を荒げる咲良を前にして、蓮先輩はふっと目を細めた。
その瞳の奥に、昨日あのヤンキーたちを黙らせた時と同じ、底の知れない大人のような、鋭い光が宿る。
彼は少しだけ声を低くして、咲良の心の奥底を見透かすように言葉を紡いだ。
「それってさー、俺の見た目だけを見て、まだ向き合おうとも、真っ直ぐ見ようともしてない咲良ちゃんのセリフじゃ説得力なくない?」
「……っ」
心臓が、ドクンと大きな音を立てて跳ね上がった。
冷たいバケツの水を頭から被らされたような衝撃。
中学時代のあの事件以来、咲良はヤンキーという存在に「大嫌いな人種」というガチガチの固定観念のレッテルを貼り、中身を見ようともせずに拒絶してきた。
その、自分でも気づかないようにしていた心の歪みを、一瞬で完璧に悟られてしまった。
動揺で震えそうになる唇を必死に噛み締め、咲良はガラスの盾を無理やり引き戻して、冷たく突き放した。
「……何ですかそれ。ふざけるのも、いい加減にしてください」
「いや、ふざけてないよ」
綾瀬先輩は咲良の冷徹な視線をすべて受け止めながら、悪戯っぽく口元を歪めてニヤリと笑った。
「俺、諦め悪い方だから。――覚悟してね、咲良ちゃん?」
覚悟とは何のことか。
これ以上ここにいたら、自分の心の一番隠しておきたい場所まで全部暴かれてしまう。
恐怖と、気恥ずかしさと、怒りがない交ぜになって咲良の顔はみるみる赤くなった。
「し、失礼しますっ!!」
咲良はそれだけを叫ぶように言い残すと、今度こそ全速力で、彼の視界から逃れるように階段を駆け上がっていった。
トタトタと忙しないサンダルの足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
一人、静まり返った薄暗い北階段の踊り場に取り残された蓮は、彼女が去っていった空間をじっと見つめていた。
静寂の中、彼はふっと前髪を掻き上げると、誰に聞かせるでもなく、愛おしそうに声を漏らして笑った。
「ははっ、何あれ。……可愛すぎじゃね?」
彼の呟きは、初夏の知らせを告げる香りを孕んだ静かな風に吹かれて、ひっそりと消えていったのだった。
関わっては人生で大切な何かを失うような、別世界の生き物のはずだった。
それなのに、彼の屈託のない笑顔を思い出すたびに、胸の奥の、自分でも名前のつけられない場所がどうしても熱くなってしまう。
それは、咲良がこれまで頑なに信じ込んできた歪んだ固定観念が、体温によって少しずつ溶かされていくような、そんな奇妙な感覚だった。
その変化が咲良はどうしようもなく悔しくて、そして、ほんの少しだけ、怖かったのだ。
トイレの近くにある、普段は誰も使わないような廊下の曲がり角の階段。
咲良はそこに、魂が抜けたようにひっそりと座り込んだ。
ここで5分、いや、安全を期して10分くらい時間を潰してから教室に戻れば、いくらあの気まぐれな先輩でも、もう自分の縄張りへ帰っているはずだ。
咲良は膝を抱え、本日何度目かもわからないため息を吐き出す。
世界のノイズから切り離された薄暗い階段で、しばらく自分の自意識と向き合う物思いに耽っているうちに、それなりの時間が経過した。
さぁ、そろそろ平穏な教室へ戻ろう。
そう思って立ち上がり、踵を返そうとした、その瞬間だった。
「あ、こんな所にいた!」
ひょっこりと壁の向こうから顔を出したのは、咲良の脳内をさんざん掻き回した張本人だった。
「ひゃっ……!?」
幽霊にでも遭遇したかのような声をあげて、咲良は派手にバランスを崩した。
お決まりのように身体が重力に従って傾き、廊下へと倒れそうになる。
視界がぐらりと歪んだその刹那、先輩の顔に驚きが走ったのが見えた。
「っ咲良ちゃん!」
鋭い声と同時に、咲良の手首に強引で、けれど彼女の身体を絶対に傷つけないような絶妙な加減の力が加わり、ぐいっと引っ張られる。
恐怖で閉じていた目を恐る恐る開くと、そこにあったのは冷たい床ではなく、驚くほど高くて温かい、綾瀬先輩の胸板だった。
咲良は完全に、綾瀬先輩に縋り付くような形でもたれかかっていたのだ。
「……っ!」
心臓が爆発するかと思った。
咲良は弾かれたように、咄嗟に先輩の身体から距離を取る。
身体を引き離したはずなのに、彼が心配して顔を覗き込んできたせいで、咲良のすぐ目と鼻の先に、綾瀬先輩の国宝級の顔面が存在していたからだ。
長い睫毛の奥にある、あの少し眠たげで、けれど吸い込まれそうなほど綺麗な瞳がじっと咲良を見つめている。
「あ……っ」
あまりの距離の近さに、咲良は顔をこれ以上ないほど真っ赤に染め上げ、情けない声を漏らしてしまった。
「ごめん。そんなに驚くと思ってなくてさ……。びっくりした?」
綾瀬先輩は、咲良が怪我をしていないかを確かめるように視線を泳がせながら、にかっと、どこかホッとしたように優しく笑った。
そのやわらかな笑顔が、自分の心の固く閉じられた扉を開けられるようで、咲良はたまらなくなってギュッと両手を握りしめ、ふいっと顔を背けて視線を逸らした。
「……もう、こういうの本当にやめてください。はっきり言って、すごく迷惑です」
咲良の冷たい声に、蓮先輩は「え……?」と弾かれたように目を見開いた。
いつも余裕そうに笑っていた彼の顔に、初めて、明確な驚きと戸惑いの色が浮かぶ。
咲良は彼のその表情を見ないようにして、綾瀬先輩のすぐ横を、早足で通り過ぎた。
すれ違いざま、彼女は彼の心に冷たい楔を打ち込むように、ピシャリと、これ以上ないほど涼しい顔で言い放った。
「教室に来られるのも、本当に迷惑です。二度と、私の前に現れないでください」
そう言い残して、咲良は今度こそ振り返らずに、階段を駆け上がっていった。
大嫌いなヤンキー。
関わってはいけない人種。
なのに、どうしてこんなにも胸が痛くて、あの人の傷ついたような顔が頭から離れないのか、今の咲良には、どうしても分からなかった。
これで終わり。
これで彼は諦めて、自分の前から消えてくれるはず。
そう思ったのに、背後から聞こえてきたのは、予想だにしない間抜けた声だった。
「何で?」
綾瀬先輩は、心底不思議そうに首を傾げて問いかけてきた。
あまりにも自分の拒絶が響いていないその態度に咲良は思わず足を止め、カッとなって振り返った。
「何でって…、困るからですっ。そんなこともわからないんですか?」
「うん、わかんねー」
綾瀬先輩は両手をポケットに突っ込んだまま、けろっとした顔で言い放った。
「だって俺、咲良ちゃんに会いたくて来ただけだから。それの何がいけないの?」
「はぁ?」
今度こそ、咲良の口から本気の呆れ声が飛び出した。
あまりにも真っ直ぐで、あまりにも直球なその言葉に、一瞬だけ頭が真っ白になる。
「だから! その『会いに来る』っていう行為自体が、私にとっては迷惑だって言ってるんですけど!」
声を荒げる咲良を前にして、蓮先輩はふっと目を細めた。
その瞳の奥に、昨日あのヤンキーたちを黙らせた時と同じ、底の知れない大人のような、鋭い光が宿る。
彼は少しだけ声を低くして、咲良の心の奥底を見透かすように言葉を紡いだ。
「それってさー、俺の見た目だけを見て、まだ向き合おうとも、真っ直ぐ見ようともしてない咲良ちゃんのセリフじゃ説得力なくない?」
「……っ」
心臓が、ドクンと大きな音を立てて跳ね上がった。
冷たいバケツの水を頭から被らされたような衝撃。
中学時代のあの事件以来、咲良はヤンキーという存在に「大嫌いな人種」というガチガチの固定観念のレッテルを貼り、中身を見ようともせずに拒絶してきた。
その、自分でも気づかないようにしていた心の歪みを、一瞬で完璧に悟られてしまった。
動揺で震えそうになる唇を必死に噛み締め、咲良はガラスの盾を無理やり引き戻して、冷たく突き放した。
「……何ですかそれ。ふざけるのも、いい加減にしてください」
「いや、ふざけてないよ」
綾瀬先輩は咲良の冷徹な視線をすべて受け止めながら、悪戯っぽく口元を歪めてニヤリと笑った。
「俺、諦め悪い方だから。――覚悟してね、咲良ちゃん?」
覚悟とは何のことか。
これ以上ここにいたら、自分の心の一番隠しておきたい場所まで全部暴かれてしまう。
恐怖と、気恥ずかしさと、怒りがない交ぜになって咲良の顔はみるみる赤くなった。
「し、失礼しますっ!!」
咲良はそれだけを叫ぶように言い残すと、今度こそ全速力で、彼の視界から逃れるように階段を駆け上がっていった。
トタトタと忙しないサンダルの足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
一人、静まり返った薄暗い北階段の踊り場に取り残された蓮は、彼女が去っていった空間をじっと見つめていた。
静寂の中、彼はふっと前髪を掻き上げると、誰に聞かせるでもなく、愛おしそうに声を漏らして笑った。
「ははっ、何あれ。……可愛すぎじゃね?」
彼の呟きは、初夏の知らせを告げる香りを孕んだ静かな風に吹かれて、ひっそりと消えていったのだった。