ORANGE×BOY
すべての始まりは、中学二年の春だった。

 教室の隅で、一番後ろの窓際の席が私の定位置だった。 
長い前髪で顔の半分を隠し、必要以上に誰かと群れることもなく、休み時間はただ静かに小説のページをめくるか、次の授業の予習をする。
真面目で、おとなしくて、教室の背景に溶け込むほど目立たない生徒。
それが、かつての私――小鳥遊 咲良(たかなし さら)だった。
そんな色のない世界の中で、私は密かにある人に視線を向けていた。 
隣の席の男の子、倉橋 凪(くらはし なぎ)くん。 
いつもどこか眠たげで無気力そうなくせに、ふとした瞬間に柔らかく目を細めて笑う人だった。
クラスの目立つグループとも、そうではない男子とも程よく話せて、特別派手ではないのに、なぜか目で追ってしまう不思議な存在だ。
 そんなある日、咲良が数学のノートを忘れて困っていたとき、彼が何気なく自分のノートを差し出してくれたことがあった。

『……ありがと』
 蚊の鳴くような声でお礼を言った私に、倉橋くんは照れくさそうに頭を掻いて、何でもないように笑った。
『別に。困ってたみたいだし、気にしないで』
 たったそれだけの、ほんの数秒のやり取り。
 なのに、胸の奥がきゅうと締め付けられるくらい嬉しかった。
 私みたいな地味な人間にも、こんな風に世界が鮮やかに色づく瞬間があるのだと知った。
 けれど、その淡くて優しい、人生で最初の初恋は――あまりにもあっけなく、残酷に踏みつぶされることになる。


 それは、汗ばむような陽気の昼休みのことだった。
 教室に忘れ物を取りに戻る途中、体育館裏から騒がしい男の子たちの笑い声が聞こえてきて、咲良は何気なく足を止めた。
 冷や汗が背中を伝う。
そこにいたのは、倉橋くんだった。
 クラスのいわゆる『一軍』と呼ばれる陽キャグループの男子数人に囲まれ、パシリのようにジュースを買いに行かされたり、小突かれたりしながら、おもちゃのように笑い者にされている。
 それは、巷でよく言われるような“仲の良い男同士のいじり”なんかじゃ断じてなかった。
 見ていて吐き気がするほど卑劣な、立派な『いじめ』というものだった。

(どうしようっ、助けなきゃ……!)

 心臓が早鐘を打つ。
足がすくんで、恐怖で息がうまくできない。
 それでも、私に優しくしてくれた彼を、見て見ぬふりをして通り過ぎることなんて、どうしてもできなかった。
『や、やめて、ください……っ!』
 必死に絞り出した震える声が、昼下がりの空気に響いた瞬間、男子たちの視線が一斉に私へと突き刺さった。
 一瞬の静寂の後、彼らは破顔し、これ以上ないほど嘲悪な笑い声を上げた。
『うーわ、小鳥遊じゃん、陰キャが正義の味方気取って登場か?』
『なに倉橋~?お前らそういう関係?超お似合いじゃーん』
『陰キャ同士、お似合いのカップル誕生だな!』
 頭が真っ白になった。
 羞恥と恐怖で血の気が引き、全身が震える。
でもそれ以上に、自分の無力さと彼らの理不尽さが悔しくてたまらなかった。
 倉橋くんを助けたくて、咲良は彼の方を見た。
 けれど、視線が交わった瞬間、倉橋くんは嫌悪を剥き出しにして顔をしかめ、吐き捨てるように言ったのだ。
『は?勘違いすんなよ。俺だって、こんなブス、相手にするわけねーだろ!』
 ――その言葉は、春の冷たい突風よりも鋭く、鋭利な刃物となって私の心臓をまっすぐに貫いた。
 足元から、ガラガラと何かが崩れ去っていくような感覚がした。
 ただ、彼を助けたかっただけなのに。
 大切な人が傷つくのを、見ていられなかっただけなのに。


どうして、生まれて初めて好きになった人に、そんな憐れな目で蔑まれなきゃいけないの――?


 それからの一ヶ月間、私は学校へ行くことができなくなった。

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋に閉じこもり、私は何度も鏡の中の自分を睨みつけた。

 顔を隠す暗い前髪が両目に少しかかっている。
流行りとは真逆の真面目な野暮ったい眼鏡。

お世辞にも洗練されているとは言えない、サイズの一回り大きな制服。

おしゃれのやり方なんて知らなくて、それでも真面目に、誠実に生きていれば、いつか誰かが分かってくれると信じていた自分がここにいて。
 そのすべてが、ひどく惨めで、滑稽で、哀れに見えた。

(人は、中身を見てくれるなんて…そんなの、全部嘘なんだ)

 そんな綺麗な現実、どこにも転がっていなかった。
 誰も彼も、結局は『外見』でしか他人を判断しないくせに、何を勘違いしていたのだろう。

 可愛い女の子には無条件で優しくして、地味な女の子の尊厳は平気で踏みにじるくせに。

(……だったら、変わってやるっ)

 涙を拭い、咲良は鏡に向かって誓った。

 誰もが振り返るほど美しくなって、二度と誰からも見下されない、完璧な自分になってやる。

 そして――私の価値を外見だけで決めつけ、軽く扱うような男なんて、今度はこ容赦なく切り捨ててやる。

 あの春の日、私の心は一度地に埋まった。

 そして今、紫苑学園の門をくぐる私は、過去の痛みを養分にして咲いた、毒のある桜みたいだった。


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