まだ恋とは呼べない距離で

帰省と誕生日

夏休み初日。

玄関のドアが開く音がして、理緒はリビングから顔を上げた。

「ただいま」

少し低くなった声。

スーツケースを引いた兄が立っている。

「……おかえり」

自然に出た言葉のはずなのに、どこか距離だけがある。

兄は一瞬だけ笑って、

「久しぶり」

それだけ言った。

それ以上、続かない。

——前は、こんなんじゃなかった。

そう思いかけて、理緒は視線を逸らした。

---

夜。

家族での外食。

誕生日祝いも兼ねて、少しだけ落ち着いた店に来ている。

料理が運ばれて、グラスの音が軽く重なる。

「理緒、この前のテスト結果見たわよ」

母が自然に切り出す。

理緒の手が、ほんの少しだけ止まる。

「……うん」

「また、全体的に75点くらいだったわね」

理緒は小さく頷く。

「うん……」

「中学入ってからずっとそのくらいよね……その……小学校の時はもっと出来てたのに」

責めているわけじゃない。

でも、“見ている”感じはある。

逃げ場はない。

「夏休み、塾とか考える?」

母はあくまで穏やかに言う。

「夏休み後半からの夏期講習もあるみたいよ」

理緒はすぐに答えられない。

視線が、皿の上で止まる。

——塾。

頭の中で言葉だけが浮く。

行けと言われれば、行く。
やれと言われれば、やる。

でも。

「……」

何も言えない。
決められない。

その沈黙だけが、少し長くなる。

「……いらないんじゃない?」

その空気に、兄の声が落ちる。

理緒の視線が、わずかに動く。

兄はグラスを指でなぞりながら続ける。

「理緒、やろうと思えば自分でやるタイプだろ」

一瞬だけ、理緒の方を見る。

すぐに視線を外す。

「それに、今日は理緒の誕生日だろ。別の話しよう」

軽い言い方。

でも、何か別の意図を感じた。

父が少しだけ眉を動かす。

「そうだな……。達也、お前の寮での生活はどうだ?」

母も小さく頷く。

「先生からお電話があって、寮長に立候補したって聞いたわ」

話題が兄の寮生活に移り、理緒は、その輪の中にいない気がした。

「……まぁ……寮生活楽しんでるよ」

兄はそれ以上何も言わない。

フォローもしない。

ただ黙っている。

——“やろうと思えばできる”。

その言葉だけが、頭の中に残る。

それって。

——今はやってないってこと?
——今はできてないってこと?

それとも。

——どうせ本気出さないって思われてる?

そこまで考えて、

ふと、別の方向に歪む。

——これ以上やられたら、困るから?

一瞬だけ、胸の奥が冷える。

「理緒?」

母の声で、現実に戻る。

「どうしたの?」

理緒は顔を上げる。

少しだけ時間を置いて、

「……お兄ちゃん、寮生活楽しんでるんだね」

それだけ言う。

でも、それ以上は出なかった。

その時、スマホが震える。

テーブルの上。

視線だけを落とす。

表示された名前。

——藤森先輩。

心臓が、強く鳴る。

そっと手に取る。

誰にも見えない角度で、画面を開く。

«誕生日おめでとう»

短い一文。

それだけ。

なのに。

胸の奥が、一気に温度を持つ。

——会いたい。

一瞬で、そう思った。

この場じゃなくて。

ここじゃなくて。

あの人の隣にいたい。

すぐに否定する。

そんなこと、考える必要はない。

今日は家族の時間。

誕生日なんだから。

そう思うのに。

画面の文字から、目が離れない。

「理緒は、夏休みは予定あるのか?」

父の声。

「……うん……友達と」

慌ててスマホを伏せる。

何もなかった顔をする。

でも。

さっきの一言だけが、消えない。

食事はそのまま続く。

父と母の会話。

兄の相槌。

いつも通りの空気。

なのに。

理緒の意識だけが、どこかずれていた。

帰り道。

店を出て、夜風に当たる。

少しだけ涼しい。

兄が隣に並ぶ。

少しの沈黙。

何か言いかけて、

やめる。

その気配だけが伝わる。

「……ちゃんと寝ろよ」

ぽつりと落ちる言葉。

理緒は一瞬だけ顔を上げる。

「え?」

「いや……それだけ」

視線は合わない。

それ以上も、ない。

——それだけなんだ。

そう思ってしまう自分がいた。

「……うん」

小さく頷く。

それで終わる。

ポケットの中のスマホ。

さっきのメッセージ。

——誕生日おめでとう。

たったそれだけなのに。

どうして。

こっちの方が、

ちゃんと“見てくれている”気がするんだろう。

理緒は小さく息を吐く。

答えはまだ出ない。

でも。

もう、分かり始めている。

自分が、

どこを向いているのか。
< 18 / 49 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop