まだ恋とは呼べない距離で

β版と危機管理能力

理緒は、いつしかキャンパス内で誠さんに遭遇するたび、半ば条件反射みたいなやり取りを繰り返すようになっていた。

「よっ、元気か? 起業しない?」

「しません」

「今日も即答だな」

「毎回繰り返して、飽きませんか?」

「大事なことだからな」

そんな軽口を交わして、誠さんは笑う。

理緒も最初は警戒していた。

でも、誠さんは無理に距離を詰めてくるわけでも、しつこく付きまとうわけでもない。

ただ、会えば声を掛けてきて、最後に必ず「起業しない?」と言う。

それが、いつの間にか日常みたいになっていた。

ある日の昼休み。

2号館のカフェテリア。

理緒がトレーを持って席を探していると、誠さんはすでに窓際の席でノートPCを開いていた。

「遅かったな」

「あなたがいるからここに来たわけではありません。ここは他の食堂より静かなので……」

「でも、俺がここ気に入って使ってるの知ってて来てるだろ?」

誠さんはニカッと笑う。

「強がりはいいから、そこ座れよ」

「……別に、強がりでは……」

そう言いながらも、理緒は向かいの席に座る。

誠さんはカレーを食べながら、何か思い出したように「あ」と声を漏らした。

「そうだ。神崎さん、これ使ってみて」

「……はい?」

誠さんはスマホを取り出して、QRコードを表示する。

『CampUsConnect β版』

そんなロゴが表示されていた。

「今作ってるアプリ。学生コミュニティ支援系」

「支援……?」

「サークルとか、新歓とか、勉強会とか。そういう学生コミュニティを繋げるやつ。イベント立てたり、同じ大学の人と交流したり」

理緒は画面を見る。

「……SNSみたいなものですか?」

「まぁ近い。学生限定だけど」

誠さんは少しだけ身を乗り出した。

「今、β版のテスター増やしてんだよ。普通の人の感想ほしくてさ」

「普通の人……」

「神崎さん、一般ユーザー視点強そうだし」

理緒は少しだけ眉を寄せる。

褒められているのか分からない。

「別に、起業メンバーになれって話じゃないから。触るだけでいい」

「……それくらいなら」

誠さんは嬉しそうに笑った。

「よし。じゃ、後で感想聞かせて」

その日の夜。

理緒は自室のベッドの上で、渡されたアプリを開いていた。

シンプルなデザイン。

大学名認証。

コミュニティ一覧。

イベント募集。

操作感は悪くない。

むしろ、かなり整理されている。

「……普通に、ちゃんとしてる」

理緒は少し意外に思いながら、画面をスクロールする。

コミュニティ詳細。

プロフィール。

参加者一覧。

位置共有設定。

そこで、理緒の指が止まった。

「……ん?」

理緒は設定画面を開き直す。

もう一度確認する。

そして、静かに眉を寄せた。

位置情報設定。

“イベント参加時、自動共有:ON”

理緒は数秒止まる。

そのまま別アカウントを作成して、挙動を確認する。

地図。

表示範囲。

更新タイミング。

プロフィール画面。

「……嘘でしょ」

小さく呟く。

少し試しただけで分かった。

これ。

大学と時間帯によっては、かなり高精度で行動範囲を特定できる。

しかも。

ユーザー側は、その危険性を理解しづらい。

理緒は画面を見つめる。

頭の中で、嫌な想像が自然に浮かぶ。

悪意ある利用者。

待ち伏せ。

ストーカー。

女子学生の追跡。

コミュニティ依存。

「……危ない」

思わず声が漏れる。

善意で作っているのは分かる。

でも。

善意だけで使われる保証なんて、どこにもない。

理緒はスマホを握ったまま考える。

放っておけばいい。

自分には関係ない。

でも。

もし、本当に何かあったら。

しかも、自分は気付いてしまった。

「……」

理緒は小さく息を吐く。

アプリのトーク画面を開く。

誠さんとのトーク画面。

指が止まる。

それから、打つ。

《これ、危なくないですか》

送信。

すぐに既読がつく。

《どこが?》

理緒は画面を見ながら、少し迷う。

説明が長くなる。

でも、曖昧にはできない。

《位置情報の仕様です》

《今の設定だと、利用者の行動範囲がかなり特定できます》

送信。

数秒。

《え?》

さらに続ける。

《イベント参加時間と大学情報が組み合わさるので、悪意ある人がいれば待ち伏せできます》

《あと、初期設定が共有ONなのも危険です》

既読。

返信が止まる。

理緒は少しだけ嫌な予感がした。

数十秒後。

《今電話できる?》

理緒は目を閉じる。

嫌な予感が当たった。

通話が繋がる。

『神崎さん』

誠さんの声は、昼間よりかなり真面目だった。

「……はい」

『それ、本当に危ない?』

理緒は少し黙る。

「危ないと思います」

即答だった。

『でも共有切れるぞ?』

「設定を理解してる人なら」

『……』

「普通は、“学生限定アプリだから安全”って思います」

理緒は静かに続ける。

「でも、大学認証があるだけで、悪意のある人を完全に弾けるわけじゃないですよね」

『……まぁ、それは』

「あと、利用者って、運営が危険性を考慮してる前提で使います」

誠さんが黙る。

理緒は画面を見ながら続けた。

「だから、“気をつければ大丈夫”じゃ駄目です」

『……』

「事故が起きてからでは遅いです」

電話の向こうで、小さく息を吐く音がした。

『……マジか』

理緒は少しだけ視線を落とす。

「……すみません。嫌なことばかり言って」

『いや』

誠さんはすぐに否定した。

『むしろ、言ってくれて助かった』

少し間。

『俺、そこまで考えてなかった』

理緒は何も言わない。

誠さんは苦笑混じりに続ける。

『なんかさ』

『神崎さんの危機管理能力すごいね』

その言葉に、理緒の胸が少しだけ止まる。

現実。

危険。

最悪。

そういうものを先回りして考えるのは、昔からだった。

でも、それを誰かに肯定されたことはなかった。

『……で、これどう直せばいい?』

「え?それは誠さんの方が……」

『いや、分かんねぇから聞いてる』

理緒は戸惑う。

「私、専門知識は……」

『でも、ユーザー目線に一番近い』

誠さんは迷いなく言った。

『たぶん今、俺らに一番足りないのそれだと思うから』

理緒は言葉を失う。

『だから、手伝って』

軽い言い方だった。

その瞬間、理緒は父の会社の問題に口を出したことで、兄との関係にヒビが入ったことを思い出す。

でも。

“必要だから頼む”という真っ直ぐさがあった。

理緒はスマホを握る。

断る理由は、いくらでも思いつく。

でも。

このまま放置する方が、もっと嫌だった。

「……今回だけですよ」

そう言うと、電話の向こうで誠さんが笑った。

『その台詞、絶対また言うやつじゃん』

「言いません」

『いや言う』

理緒は小さくため息をつく。

でも。

なぜか、そのやり取りは少しだけ心地よかった。

『じゃ、明日時間ある?』

「……5限後なら」

『よし。作戦会議な』

通話が切れる。

部屋が静かになる。

理緒はスマホを見つめたまま、小さく息を吐いた。

――また、関わってしまった。

そう思う。

でも不思議と、嫌ではなかった。
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