まだ恋とは呼べない距離で

友達と色恋話

英会話の授業が終わり、教室の空気が少しずつほどけていく。
学生たちはそれぞれ鞄を肩に掛け、雑談を交わしながら教室を出ていった。

「神崎さんは4限までいる?俺、この後ゼミなんだけど、その後、昼メシ食わない?……あ、いや……友達と食べるか。」

誠さんの言葉は軽い冗談のようでいて、どこか行間を測るような間があった。

「……友達はいません」

理緒は淡々と答える。

誠さんは、理緒の出方を伺うように続ける。

「大学1年の春だし、4限で一緒だった友達とランチ……とか、なるかもよ?」

理緒は、ため息まじりに答える。

「……必要があればそうするかもしれません」

「必要……ね。じゃあ、今日はとりあえず俺が友達1号でいいな。メシ食うぞ。」

「……友達……ですか」

理緒は小さく首を傾げる。

誠さんは悪びれずに笑った。

「違うの?」

「……分かりません」

「分かんねぇなら、それでいいじゃん」

その一言に、理緒の心を突き刺す。

――でも……分かんないってことは、止める理由にならないよな。

不意に、中学の頃の藤森先輩の声が重なった。

理緒は一瞬だけ息を飲む。

「……友達……ですか」

小さく、確かめるように言葉を落とした。

誠さんは満足そうに頷く。

「じゃ、4限終わったら、2号館のカフェテリアな」

「はい……」

---

2号館のカフェテリアは、昼時にも関わらず人が少なく、ゆっくりと寛ぎながらレポートを書いている学生の姿もちらほら見えた。

理緒は入口の前で足を止める。

賑やかな空気は苦手だったから、思っていたより静かなことに、どこかほっとした。

「こっちこっち」

誠さんは慣れた様子で、奥の席に座っていた。

理緒は小さく息を吐いて、そちらへ向かう。

窓際の二人席。

誠さんは先に注文していたようで、温玉カレーを食べていた。

「ここ、静かでいいんだよ。穴場」

「昼時の学食は、どこも混んでるイメージでした」

「あー、本館の食堂とかはすごいよな。安いし量多いから」

誠さんは笑いながらメニュー表を差し出す。

「だから俺は行かない」

理緒はメニューを確認すると、そのままレジへ向かった。

トレーを持って席へ戻る。

向かいに座った瞬間、誠さんは何でもない調子で口を開いた。

「で、起業の話なんだけど」

理緒は無言で顔を上げる。

「今、人足りなくてさ。広報できる人探してんだよね」

「……昨日も言ってましたね」

「神崎さん、向いてそうなんだよな」

「向いてません」

即答だった。

誠さんはまったく動じない。

「美人だし」

「興味ありません」

「まだ何も説明してないけど?」

「興味ありません」

理緒は淡々と返して、水を一口飲む。

誠さんは頬杖をつきながら、面白そうに笑った。

「そんな警戒しなくても、怪しい団体じゃないって」

「“起業”って言われた時点で、だいぶ怪しいです」

「偏見だなぁ」

理緒は小さくため息をつく。

「……兄の話があるって言うから来ただけです」

「ハッキリ言うね」

誠さんは笑う。

でも次の瞬間、

「達也、高校の頃めちゃくちゃモテてたぞ」

理緒の視線がぴたりと止まった。

誠さんはニヤッとする。

「兄の色恋話、気になる?」

「……別に」

「いや、今完全に反応しただろ」

理緒は視線を逸らす。

誠さんは楽しそうに続けた。

「男子校なのに、毎年バレンタインにチョコ持って寮帰ってくるの。しかも一個じゃない」

「……兄が?」

「そう。しかも本人あんまり興味ないから、余計タチ悪いんだよ」

理緒はぼんやりと想像する。

高校時代の兄。

バレンタイン。

女子に囲まれる姿。

「……知ってるとおりの兄です」

「あいつ、小学生の頃からモテてたからな」

誠さんはジュースを飲みながら笑う。

「でも達也、女子の話より妹の話してる方が多かったぞ」

理緒の手が止まる。

「……また、それですか」

「いや、ほんとほんと」

誠さんは軽い調子のまま続ける。

「お前は昔もっと負けず嫌いだった、とか」

「……」

「ゲームで負けると、べそべそ泣いてたらしいな」

「……」

「でも勝った時の笑顔が可愛かったって」

理緒は静かにコップへ視線を落とす。

誠さんはそこで少し目を細めた。

「でもさっき、神崎さんが言ってた話と違くね?」

理緒は顔を上げる。

「……何がですか?」

「兄と仲悪かった、みたいな話」

誠さんは軽く肩をすくめる。

「兄の話は昔の話だ、とかさ」

理緒の胸がわずかにざわつく。

「……仲が悪かったわけではなかったです」

小さく言ってから、続ける。

「……不仲になるほど、会話もなかったので」

「どういうこと?」

誠さんは眉を寄せる。

責めているわけではなく、純粋に疑問を口にしたような声だった。

「兄とは、ある時を境に話さなくなりました」

「……」

「その“ある時”って?」

理緒の脳裏に、兄の沈んだ笑顔がよぎる。

「……分かりません」

誠さんはストローをくるくる回しながら尋ねる。

「心当たり、全然ないの?」

その言葉に、理緒の呼吸が一瞬止まる。

理緒は視線を逸らした。

誠さんはそんな様子をじっと見つめる。

「……ま、少なくとも俺が知ってる達也は、妹大好きなシスコンだったけどな」

「シスコンって、そんな……」

冗談にしても、その響きは気恥ずかしかった。

誠さんは大真面目な顔で続ける。

「なのに妹は距離感じてて、実際ほとんど会話もなかった」

そこで理緒を見る。

「それって、変だと思わない?」

「それは……」

理緒は言葉を探す。

でも、うまく出てこない。

誠さんはそんな理緒を見て、ふっと笑った。

「ま、神崎さんにも何か心当たりありそうだし」

トレーを持って立ち上がる。

「今度また、ゆっくり聞かせてよ」

そう言って歩き出す。

無理に踏み込んでくる人だと思っていた。

でも、

私がまだ話す覚悟を持てていないことまで、見抜かれていたのかもしれない。

理緒はしばらく黙ったまま座っていた。

それから立ち上がり、誠さんの背中へ声を掛ける。

「……あの」

誠さんが振り返る。

「また、兄の話……聞かせてください」

誠さんはニヤッと笑った。

「もちろん」

理緒はなぜか、少しだけ肩の力が抜けるのを感じていた。
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