推しだったキミに恋をした
 新調したばかりの春物のスカートを揺らしながら、佐伯灯は駅ビルの通路を歩いていた。
 久しぶりの買い物だった。前から気になっていた服を買えて、紙袋を持つ手も自然と軽くなる。今日はこのまま帰って、好きなミルクティーでも飲みながら買った服をもう一度広げて眺めよう。そんな小さな予定を頭の中で並べていたところで、ふと足を止める。
 化粧室に寄っておいた方がよさそうだ。

「確か、この近くに……」

 灯は記憶を頼りにカフェ脇の通路へ向かった。そこにある化粧室は駅ビルの通路側からもカフェの店内側からも出入りできる、少し変わった造りになっている。買い物帰りの人やカフェの客がよく使う場所だから、休日は混んでいることも多い。けれど今日は運よく空いていて、灯は無事に用を済ませると手洗い場の鏡の前で小さく息を吐いた。
 鏡の中の自分はいつもより少しだけ浮かれて見えた。眉のあたりで切りそろえた前髪を指先で直し、鎖骨の少し下まで伸びたダークブラウンの髪を肩の前へ流す。春物のスカートは歩くたびにやわらかく揺れて、今日は悪くない日になりそうだと思えた。
 せっかくここまで来たのだから、帰りにカフェへ寄ろう。
 あの店はチョコレートが有名だった。小さくても味が濃くて、ひとつ食べるだけで満足できる。好きなミルクティーと一緒にテイクアウトして、家でゆっくり楽しむのもいい。そう考えながらカフェ側の扉を開けた灯は次の瞬間、その場で足を止めた。
 店内の様子が、明らかにおかしい。

「……なに、これ」

 レジの反対側から奥の入り口に向かって、信じられないほどの列ができている。普段の休日でも混む店ではあるけれど、これはそれとは違う。並んでいる人たちの服装も、表情も、どこか浮き立っていた。スマホを握りしめている人、胸元に小さなグッズをつけている人、友人らしき相手と声を潜めて何かを確認している人。店内の奥は簡易的なパーテーションで区切られ、そこだけが小さなイベント会場のようになっている。
 何事だろう、と灯が目を凝らした時だった。
 奥のスペースから、一人の男が現れた。
 その瞬間、店内の空気がふわりと跳ねた。大きな歓声が上がったわけではない。けれど並んでいた人たちの背筋が伸び、視線が一斉に彼へ吸い寄せられる。その変化だけで、そこに立つ人がただ者ではないことは分かった。
 灯は息を止めた。
 黒に近いダークカラーの髪。少し長めの前髪の隙間から覗く、切れ長のアーモンドアイ。ぱっちりとした二重は女の子のように可愛らしいのに、骨感のある輪郭と細い首筋のせいで、全体にはどこか冷たく危うい色気がある。深いワインレッドのロングカーディガンが細身の体に馴染んでいて、ただ立っているだけで照明の下にいる人みたいだった。
 ――長谷流司。
 ファンの間では“はせりゅ”と呼ばれている。今や数々の舞台で座長を務め、若手の中でも頭ひとつ抜けた人気を持つ舞台俳優だ。歌もダンスも殺陣もできる。可愛い顔をしているのに低い声で、舞台の上ではクールな役や隙のない役がよく似合う。男から見てもかっこいい、と雑誌のインタビューで共演者に言われていたのを、灯はどこかで見たことがあった。
 見たことがあった、というより。
 10年前、彼を少しだけ追いかけていた時期があった。
 まだ彼が今ほど有名ではなく、若手俳優の一人として小さなイベントに出ていた頃だ。一度だけ、写真集のお渡し会を兼ねた握手会に行ったことがある。緊張しすぎて何を言えばいいのか分からなくなり、それでもどうにか言葉を絞り出した記憶がある。
 けれど、それも昔の話だった。
 灯の推し活はとうに終わっている。今では彼の名前をたまに見かけて、また舞台に出るんだ、あの作品にも出ているんだ、と思う程度。まさかこんな身近なカフェで、彼がイベントをしているなんて知るはずもなかった。
 どうやら今日は、カフェの宣伝を兼ねたファン交流イベントらしい。整理券を持ったファンが一人ずつ前へ進み、流司から小さな袋入りのチョコレートを受け取っている。彼は一人一人にきちんと目を合わせ、短く言葉を交わしながら丁寧にチョコレートを手渡していた。
 舞台の上ではどこか近寄りがたいほど綺麗な人なのに、目の前のファンへ向ける笑顔は意外なほど無邪気だった。笑うと八重歯が少し見える。その瞬間だけ、年相応の男の子みたいに見えた。
 当然、整理券も持たない灯が列に混ざることはできない。けれど目当てのミルクティーとチョコレートは諦めきれなかった。レジは列の向こう側にしかなく、今すぐ買うことはできそうにない。仕方なく、灯は邪魔にならない場所へ移動し、イベントが終わるのを待つことにした。

「すごい人気ですね……」

 近くにいた店員が、作業の手を動かしながら独り言のように呟いた。灯は少しだけ振り返り、曖昧に笑う。

「そうですね。やっぱり、華がありますね」
「お客様もご存じなんですか?」
「大昔に、一度だけイベントに行ったことがあって。でも今はそこまで追ってるわけじゃないんです」

 言ってから、少し言い訳じみていたかもしれないと思った。けれど店員は気にした様子もなく、「昔から人気だったんですね」と笑った。灯は「今ほどではなかったと思います」と答えながら、もう一度流司を見る。
 昔の彼はもっと細かった。今も細身ではあるけれど、舞台で鍛えられた体の線や、立っている時の重心が違う。10年前は笑っていてもどこかぎこちなかったことを灯はなぜか今でも覚えていた。
 列が少しずつ短くなっていく。最後のファンがチョコレートを受け取り、名残惜しそうに何度も振り返りながら出口の方へ向かった。店内にあった熱気がゆるやかに引いていく。パーテーションの奥ではスタッフが片づけを始める。貸し切り状態が解除されたばかりのカフェには、まだ次の客が入ってきていなかった。

「あ、すみません。裏から呼ばれちゃって。ちょっと行ってきますね」

 さっきまで話していた店員が厨房の方から呼ばれて慌ただしく去っていく。灯は軽く会釈し、そろそろレジへ向かおうと一歩踏み出した。
 その時だった。

「あ!」

 少し低めの、けれどよく通る声がした。
 反射的に顔を上げる。仕事を終えたらしい流司が、イベントスペースの脇に立っていた。スタッフと話していたのか、手には余ったらしい小さな袋入りのチョコレートを持っている。その綺麗なアーモンドアイが、まっすぐ灯を捉えていた。
 見られている。
 そう気づいた瞬間、灯の心臓がひどく跳ねた。

「……おつかれさまです」

 口から出たのは、そんな言葉だった。
 言った直後に灯は自分の中で固まった。おつかれさまです、とは何なのだろう。相手は職場の同僚でもなければ、知り合いでもない。10年前に一度だけ握手したことがあるだけの、今や大人気の舞台俳優だ。
 けれど流司はその妙な挨拶を笑わなかった。むしろ懐かしいものでも見つけたみたいに目を細め、ゆっくり灯の方へ近づいてくる。
 近づかれるたびに、カーディガンの裾が揺れた。長い前髪の下から覗く瞳は涼しいのに口元だけが妙に楽しそうに緩んでいる。灯は半歩下がろうとしたが背後には壁に近い柱があり、思ったほど距離を取れなかった。

「長谷くん、あの、私は整理券とか持っていなくて……」

 咄嗟に言い訳のような言葉が出る。流司は手元の袋へ視線を落とし、そこから正方形のチョコレートを1枚取り出した。銀色の包み紙がかさりと鳴る。貸し切りが解けたばかりの店内は妙に静かで、その音だけが灯の耳に残る。

「いや、本当に、私は……」

 もうファンでもない、偶然ここに居合わせただけだ。整理券を持って並んでいた人たちがちゃんと受け取るものを、自分だけ特別に貰っていいはずがない。そう思って首を振ろうとした灯の口元へ、流司は包みを剥いたチョコレートを持ってきた。
 指先に挟まれたチョコが、唇のすぐ前で止まる。
 近い。
 甘い香りがした。チョコレートの匂いなのか、流司の香水なのか分からない。灯が迷っていると、流司は悪戯を思いついた子どものように笑った。

「チョコ、食べちゃうよ?」

 そう言って、灯の口元へ差し出していたはずのチョコレートを自分の唇の方へ寄せる。先に灯へ食べさせようとしていたくせに、まるで両端から食べる遊びに誘うみたいに反対側を自分も咥えようとする。
 まるでポッキーゲームみたいだ。
 あまりに場違いな言葉が頭をよぎって、灯は余計に動けなくなった。いやいやいや、と心の中で何度も首を振る。これはチョコだ。ポッキーではない。そもそも、そういう問題ではない。
 流司の唇がチョコレートの端に触れそうになる。
 それは困る。困る理由なんて、本当は何1つないはずだった。彼が自分のチョコレートを自分で食べるだけなのだから、灯が惜しがる必要などどこにもない。けれど目の前で彼に食べられてしまうのが、なぜかひどく惜しいことのように思えてしまった。

「はやく」

 低い声が、少し笑いを含んで落ちてくる。
 灯はほとんど反射で唇を開いた。流司が咥える前に差し出されたチョコレートの端を噛む。その瞬間、流司の指先が灯の下唇に触れた。
 ほんの一瞬だった。
 けれど、そこだけ熱を持ったみたいに感覚が残る。灯がチョコレートを咥え息を止めたまま動けずにいると、流司は指を少し離し、自分の指先を見下ろした。溶けたチョコレートが薄く艶を引いている。
 見なければよかった。
 そう思うより先に、流司がその指を唇へ運ぶ。
 何でもないことのように、けれど見せつけるみたいに、指先についたチョコレートをゆっくり舐め取る。赤みのある唇が指先に触れ、離れていく。その仕草があまりにも自然で、あまりにも近くて、灯の思考は一瞬で白くなる。
 さっき、その指は灯の唇に触れていた。
 そこまで思い至った瞬間、胸の奥がひゅっと縮む。

「……っ」

 声にならない息だけが漏れた。流司はそんな灯を見て、満足そうに笑う。舞台の上で見せる退廃的で冷たい表情ではなかった。いたずらが成功した子どもみたいに、くしゃりと無邪気に笑う。その顔があまりにも可愛くて、ずるかった。
 可愛いと思ってしまった。
 こんな状況で、そんなことを思っている場合ではないのに。

「一緒に行こ」

 流司が灯の手を取った。
 指が触れた瞬間、灯の中で10年前の記憶が不意に揺れた。写真集を渡された後、短く握った手。緊張でうまく笑えなかった灯の手を、彼は両手で包むように握ってくれた。けれどその手は驚くほど冷たかった。
 あの時の冷たさを、なぜ今になって思い出すのだろう。
 今灯の手を掴む流司の指はあの頃よりずっと熱かった。力があり、逃げようと思えば逃げられるはずなのに足がうまく動かない。

「え、ちょっと、長谷くん……!」

 灯の声を置き去りにして、流司は通路側にある出口へ向かった。店内を抜け化粧室の脇を通り、そのままエレベーターへ滑り込む。扉が閉まる直前灯はようやく我に返ったが、もう遅かった。
 狭い箱の中に二人きりになった途端、さっきまで店内にあったざわめきが嘘みたいに消えた。エレベーターが静かに上昇を始める。表示階がひとつずつ変わっていくのを見ながら、灯は自分の手がまだ流司に握られていることに気づいた。
 離した方がいい。
 そう考えていると流司の方が先に力を抜いた。と思った瞬間、今度は「はぁ……」と深い息を吐き灯の肩へ頭を預けてくる。

「つかれた……頭なでて」

 耳元に低い声が落ちた。
 灯は肩を跳ねさせた。近い。さっきからずっと近い。チョコレートの甘さと冷たい花のような香水の匂いが混ざって、まともに呼吸をするだけで頭がぼんやりする。舞台の上で何千人何万人もの視線を受ける人が、今は灯の肩にもたれて何の遠慮もなく甘えている。
 もはやどうすればいいのか分からなかった。
 けれど、拒むには彼の声があまりにも疲れて聞こえた。灯は迷いながら、背中から手をまわしてそっと流司の髪に触れる。長めの前髪の奥に指を入れないよう気をつけながら、表面をゆっくり撫でた。
 思っていたより、ずっと柔らかい。

「すごい柔らかい髪……猫みたい」

 独り言のようにこぼれた言葉に流司がぴくりと反応する。彼は灯の肩に顎を乗せたまま、上目遣いでじっと見つめてきた。ぱっちりとした二重の奥にある瞳は綺麗で、近くで見るとひどく危うい。

「じゃあ、もっとなでて」

 言い方は完全に甘えているのに、声だけは低い。そのちぐはぐさに、灯の胸の奥で何かがほどけたり、絡まったりした。
 女の子みたいに可愛い顔。低くてよく通る声。舞台ではクールで隙のない役が似合う人。後輩から慕われ、歌もダンスも殺陣もできる、何をやらせても絵になる俳優。そんな人が、今は自分の手の下で猫みたいに目を細めている。
 情報量が多すぎて、灯は自分が何に動揺しているのかさえ分からなくなっていた。
 そういえば昔のインタビューで猫を飼っていると言っていた気がする。そんな脈絡のないことまで思い出してしまう。猫を飼っている人は、こんなふうに撫でられる側にもなるのだろうか。いや、そんなわけがない。
 チーン、と軽い電子音が鳴った。
 エレベーターの扉が開く。そこはビルの上階にある空中庭園だった。昼の光が白く広がり、足元のタイルも、低い植え込みも、どこか作り物めいて見える。下の階のざわめきはここまで届かず、遠くを走る車の音だけが薄く流れていた。
 昼時だからだろうか。人の姿はほとんどない。
 流司は当然のように灯の手を引いて外へ出た。撫で終わって宙に浮いていた手持無沙汰の手は、再び流司に握られている。外気が頬に触れる。さっきまで密室にいたせいか、その風がやけに冷たく感じられた。カーディガンの裾が揺れる。昼の光の中にいるのに、彼だけが夜を連れてきたみたいだった。
 舞台の上にいる人が、間違えて現実へ降りてきてしまったみたいだ。
 灯がそんなことを思っていると、流司は白い手すりにもたれかかり空を仰ぐようにして大きく息を吐いた。

「あ〜……帰んなきゃな〜」

 心底嫌そうな声だった。
 その顔は、舞台でクールな役を演じる時によく見せる眉間にしわの寄った表情に似ていた。けれど今は格好つけているようには見えない。帰りたくないと駄々をこねる子どもみたいに、唇を少し尖らせている。

「待ってる人がいるなら、帰らなきゃじゃないですか?」

 灯は常識的なことを言ったつもりだった。彼は大人気俳優で、今日はイベントの仕事中だったはずだ。スタッフもマネージャーもいるだろうし、次の予定だってあるかもしれない。むしろこんなところに自分を連れてきている方がおかしい。
 けれど流司は、ひどく不服そうに灯を見た。

「なんでそんなこと言うんだよ」
「そんなこと言われても……」

 困ってしまい、灯は言葉を失った。なぜ不満そうにされているのか分からない。引き留めてほしかったのだろうか。そんなはずがない。自分は10年前に一度だけ彼のイベントへ行ったことがあるだけのただの一般人だ。
 そう思った瞬間、流司が灯の腕を引いた。
 逃げる間もなく、抱き寄せられる。腕の力は思ったより強かった。けれど乱暴ではない。灯の背中に回った手は熱く、強いのにどこか確かめるように触れている。

「長谷くん……」

 名前を呼ぶと、流司の動きがほんの少し止まった。
 灯はその一瞬で、彼がこちらの反応を見ていることに気づいた。本気で押さえつけられているわけではない。逃げようと思えば、きっと逃げられる。けれど体が動かなかった。あまりに突然で、あまりに近くて、心臓ばかりがうるさく鳴っている。
 流司は少しだけ顔を近づけた。
 唇が触れたのは、右の頬のあたりだった。
 ほんの一瞬。けれど、そこだけ風が止まったみたいだった。柔らかくて、あたたかい。キスと認識するより先に、触れられた場所から熱が広がっていく。
 灯は完全に固まった。
 流司は少し体を離し、灯の顔を覗き込む。驚きで何も言えない灯を見て彼はまた無邪気に笑った。さっきチョコレートを差し出した時と同じ、いたずらが成功した子どもの顔。
 それなのに目の奥だけは妙に真剣で、灯はますます分からなくなった。

「んじゃ!」

 流司はあっけらかんと言い、灯をその場に残してエレベーターの方へ走り出した。
 何が起きたのか分からないまま、灯は彼の背中を見送る。ワインレッドのカーディガンが風に揺れ、黒い髪が跳ねる。まるで嵐のように現れて好き勝手に心を掻き乱して、そのまま去っていくつもりなのだろうか。
 数歩進んだところで、流司が急に足を止めた。

「あ、そうだ」

 振り返った彼は、さっきよりさらに慌てた顔でこちらへ戻ってくる。灯が何か言う前に、彼は手すりを机代わりにし、ポケットからスマホとペン、それから小さな紙を取り出した。必死な形相で何かを書き殴り始める。
 灯はぽーっとした頭でその様子を見つめていた。

「絶対登録してよ!」

 流司は書き終えた紙を、灯の手にぎゅっと握らせた。そこには彼のものらしき連絡先が勢いのある字で書かれている。雑なのに、なぜか迷いのない字だった。

「え、あの、長谷くん」

 チョコ。指。唇に残る熱。エレベーターの中の匂い。柔らかい髪。肩に預けられた重み。空中庭園の風。頬に触れた唇。
 ひとつひとつを並べようとしても、どれも現実感がなかった。今日、灯は服を買いに来ただけだ。トイレへ寄って、ミルクティーとチョコレートを買おうとしただけ。それなのになぜ今、大人気舞台俳優に連絡先を渡されているのだろう。

「んじゃまた!」

 今度こそ、流司は眩しい笑顔を残してエレベーターへ飛び乗った。扉が閉まり彼の姿が見えなくなる。庭園に残されたのは白い昼の光と、風に揺れる植え込みと、手の中の小さな紙だけだった。
 灯は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
 膝から力が抜けたのだ。紙を握ったまま両手で頭を抱える。頬のあたりがまだ熱い。下唇に触れた指の感覚も、消えない。

「何が、どうなってるの……」

 声に出しても、答えはどこからも返ってこなかった。

 一方その頃。
 下降するエレベーターの中で一人きりになった瞬間、長谷流司は天を仰いで全力のガッツポーズを決めていた。

「やっと……やっと会えた……!」

 声が震える。
 10年間。あの日からずっと、胸の奥に残り続けていた面影がある。間違えるはずもない。もう二度と会えないかもしれないと思っていた。名前も知らないまま、ただ一度だけ会った女の子。大勢のファンの一人だったはずなのに、どうしても忘れられなかった人。
 その彼女が今日、目の前にいた。
 昔より少し大人になっていた。けれど目元のほくろや柔らかさも、言葉を選ぶ時の遠慮がちな間も、驚くと固まるところも、あの日のままだった。
 流司は口元を押さえ、込み上げる笑いをこらえた。嬉しさでどうにかなりそうだった。舞台の初日より、千秋楽の拍手より、主演が決まった時より、今の方がずっと心臓がうるさい。
 けれど浮かれた頭に、ふと冷たいものが落ちてくる。

「……あ」

 渡したのは、自分の連絡先だけだ。
 彼女の連絡先は聞いていない。名前も、今どこに住んでいるのかも、何の仕事をしているのかも分からない。つまり彼女が紙に書いた連絡先を登録してメッセージを送ってくれない限り、この繋がりはここで途切れる。
 さっきまでの余裕ぶった態度が、音を立てて崩れていく。
 流司はエレベーターの床にしゃがみ込み、両手で頭を抱えた。ワインレッドのカーディガンの裾が床に広がる。スタッフが見たら卒倒しそうな姿勢だが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。

「やっちまった……っ」

 恋が再び動き出すにはまだもう少し、時間がかかりそうだった。
< 1 / 6 >

この作品をシェア

pagetop