推しだったキミに恋をした
金曜日の夜、駅前の通りは仕事帰りの人でほどよく混み合っていた。昼間の熱が少しだけ残ったアスファルトに、店の看板の明かりがぼんやり滲んでいる。灯は鞄の持ち手を握り直しながら、待ち合わせ場所になっている小さな洋食屋の前で足を止めた。
この店で三人で夜ご飯を食べるのは、もう何度目か分からない。保育園の頃から一緒にいる芦谷柚乃と桐原蒼。大人になってからは、休みの日にわざわざ予定を合わせるより金曜の仕事終わりにこうしてご飯を食べる方が多くなった。休日はそれぞれの用事があるし、灯自身日曜は基本的に家から出ない。だから金曜の夜は、三人にとってちょうどいい距離のまま続いている習慣みたいなものだった。
「灯、こっち~」
先に席を取っていた柚乃が、店の奥から手を振った。眉あたりで切りそろえた前髪に、低い位置で結んだダークブラウンのポニーテール。パンツスタイルに薄手のカーディガンを合わせた姿は、相変わらず気負いがなくて動きやすそうだ。柚乃は昔からスカートよりパンツが好きで、可愛い名前に反して、物言いはわりとさっぱりしている。
向かいの席には蒼が座っていた。黒髪の短いマッシュが顔まわりを柔らかく見せているけれど、表情はいつもどこか静かだ。仕事終わりらしく、きちんとしたシャツの上に軽いジャケットを羽織っている。セミフォーマルとカジュアルの間みたいな格好が、蒼にはよく似合っていた。
「ごめん、遅くなった?」
「全然。蒼が十分前に来て、私が五分前」
「それ、私が一番遅いってことじゃん」
「遅刻はしてないからセーフ」
柚乃がメニューを差し出す。灯は笑いながら席に座り、鞄を背もたれに置いた。蒼は水の入ったグラスを灯の方へ少し寄せてくれる。何気ない動作だった。昔からそうだ。蒼は気づくと、灯が困らないように少し先回りしている。
「ありがと」
「うん。仕事、忙しかった?」
「月末近いからちょっと。でも今日はまだ平気」
灯が答えると蒼は短く頷く。それだけなのに、ちゃんと聞いてくれている感じがした。蒼は大きく相槌を打つタイプではないけれど、話したことを忘れない。昔からそういうところがあった。
注文を済ませると、店員が去ったテーブルに少しだけ落ち着いた空気が戻ってきた。柚乃はストローでグラスの氷を軽く突きながら、灯の顔をじっと見た。
「で、何かあった?」
「え?」
「今日、会った瞬間から顔が変。仕事で疲れてるのとは違う顔してる」
灯は思わず頬に触れた。自分ではいつも通りにしているつもりだった。金曜の夜に二人とご飯を食べる。いつものことだ。何も変わらないはずなのに、柚乃の目は昔から妙に鋭い。
「別に、何も」
「嘘つけ。灯が“別に”って言う時、大体何かある」
柚乃があっさり言う。蒼もこちらを見た。責めるような視線ではない。ただ少し気にしている顔だった。灯はグラスを両手で包み込み、氷が揺れる音を聞きながら口を閉じた。
あの土曜日から、もう少しで1週間になる。
思い出すたびに、どれも現実の出来事とは思えなかった。けれど紙はまだ捨てられず、鞄の内ポケットに入っている。家に置いてくればいいのに、なぜか持ち歩いてしまっていた。それがもう十分おかしい。
「……ちょっと、聞きたいことがあって」
灯が小さく言うと、柚乃は身を乗り出した。蒼はグラスを持つ手を止める。
「なになに」
「たとえばの話なんだけど」
「たとえばの話って言う時、大体たとえばじゃないよね」
「柚乃、そういうのいいから」
灯が困ったように笑うと、柚乃は肩をすくめた。けれど目だけは楽しそうに細めている。蒼は黙ったまま、灯の次の言葉を待っていた。
「舞台俳優のリアコって、どう思う?」
言った瞬間、テーブルの上の空気が少しだけ止まった気がした。
柚乃は目を瞬かせ、それからにやりと笑った。蒼はグラスを置く音を、ほんの少しだけ遅らせた。
「急にどうしたの」
「いや、だから、たとえばの話」
「たとえば、舞台俳優にリアコしてる知り合いがいるとか?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ灯?」
「違う」
即答した声が、自分でも少し強かった。柚乃はその反応だけで何かを察したように、ますます楽しそうな顔をする。灯は慌てて視線を逸らした。
「違うっていうか、そういうのじゃなくて。ちょっと気になっただけ。芸能人とか俳優さんを本気で好きになるのって、どうなのかなって」
「どうって、別に好きになるだけなら自由じゃない? 相手が舞台俳優でもアイドルでも2次元でも、好きになる気持ち自体は変じゃないと思うよ」
柚乃は意外にも、茶化すでもなくさらりと言った。
「ただ、その人の本当の生活とか感情までは見えないじゃん。見えてる部分だけで自分の中の恋が育ちすぎると、しんどくなることはあるんじゃない?」
その言葉は、思ったより灯の胸に落ちた。
見えている部分だけで育つ恋。自分の中だけで大きくなる気持ち。届くはずがないのに、相手の一挙手一投足で嬉しくなったり、苦しくなったりするもの。
十年前の自分は、そこまでだったのだろうか。
灯は流司のことを本気で好きだったとは言い切れない。毎日彼の情報を追っていた時期は確かにあった。出演する舞台を調べ、雑誌を買い、写真集のお渡し会へ一度だけ行った。けれど高校卒業後で就職することになり、追いかけることから離れていった。
それでももしあの頃、流司に例えば彼女ができたと知ったら。
きっと複雑だった。
応援しなきゃ、彼が幸せならそれでいい、と自分に言い聞かせたと思う。けれど本当に平気だったかと聞かれたらすぐには頷けない。たくさんのファンの一人でしかなかったのにそんなふうに思うのは図々しいと分かっていても、少しだけ胸が沈んだはずだ。
じゃあ、自分は本当にリアコではなかったのだろうか。
灯はグラスの中の氷を見つめた。溶けかけた氷が水面で小さく傾き、照明を受けて鈍く光る。
「灯」
柚乃の声で、灯は顔を上げた。
「恋した?」
「してない」
また即答してしまった。柚乃が吹き出しそうになるのを必死で堪える。蒼は笑わなかった。むしろ、灯の横顔をじっと見ている。
「その速さがもう怪しいんだけど」
「違うから。ただ、ちょっと昔好きだった俳優さんのことを思い出しただけ」
「昔好きだった俳優さん?」
「好きっていうか、少し追ってた時期があったっていうか」
「名前は?」
柚乃が自然に聞く。灯は答えるか迷った。長谷流司。今の名前を口にしたら、話が一気に現実味を帯びてしまう気がした。
「……長谷流司」
小さく言うと、柚乃の目が丸くなった。
「え、はせりゅ?」
「声大きい」
「いや、だって普通に有名じゃん。灯、はせりゅ追ってたの?」
「十年前に少しだけ。一度だけ握手会というか、写真集のお渡し会に行ったことがあるくらい」
「十年前って、まだ今ほど売れてない頃?」
「たぶん」
料理が運ばれてきた。店員がパスタとオムライス、蒼の頼んだハンバーグを並べていく間、三人は自然と黙った。灯はフォークを手に取りながら今の沈黙に少し救われた気がした。
けれど、柚乃は逃がしてくれなかった。
「で、その長谷流司がどうしたの」
「どうしたっていうか」
「十年前の俳優のリアコについて、金曜の夜に幼馴染へ相談したくなった理由があるんでしょ」
灯はフォークの先でパスタを軽く巻いた。
全て言えるわけがない。先週の土曜日に偶然入ったカフェで長谷流司のイベントに遭遇して、チョコレートを食べさせられて、手を引かれて空中庭園に連れていかれて、頬にキスされて連絡先を渡されたなんて。
自分で思い返しても、現実味がなさすぎる。
「たまたま見かけたの」
「どこで?」
「駅ビルのカフェ」
「イベント?」
「たぶん。カフェの宣伝みたいな感じだった」
嘘は言っていない。全部は言っていないだけだ。柚乃は灯の顔をじっと見て「ふうん」と意味ありげに頷いた。
「それで昔のこと思い出したんだ」
「うん」
「話した?」
心臓が跳ねた。
灯はフォークを落としそうになり、慌てて持ち直す。その小さな動揺を、柚乃が見逃すはずもなかった。蒼も、そこで初めて少しだけ眉を動かした。
「話したんだ」
「……少しだけ」
「へえ」
「でも、向こうは覚えてないと思う」
そこだけは、はっきり言えた。灯はフォークを置き、膝の上で指を組む。
「私はたくさんいたうちの一人だったし。ああいう仕事をしている人って、毎日何人もの人に会うでしょ。十年前の、しかも一度だけ来た人のことなんて覚えてるわけないよ」
言いながら、手のひらにあの紙の感触が蘇る。絶対登録してよ、と言った流司の声。まるで灯が連絡することを当然のように思っていた、あの眩しい笑顔。
けれどあれが自分を覚えていたからだなんて、そんな都合のいい話があるはずない。きっと彼は、誰にでも距離が近い。舞台俳優だから、人との距離の詰め方が上手いだけだ。ファンの心を掴むことに慣れているだけ。
そう思いたいのに、思いきれない。
「十年前の記憶って、残ってるものなのかな」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
柚乃は少しだけ表情を変えた。茶化す色が消え、灯をまっすぐ見る。
「何の記憶?」
「一度会っただけの人のこと。たくさんの人と会う仕事をしている人が、その中の一人を覚えてることってあるのかなって」
「普通は、難しいんじゃない?」
柚乃は正直に言った。灯は小さく頷く。そうだろうと思っていた。分かっている。分かっているのに、胸のどこかが少しだけ沈んだ。
「でも」
柚乃はフォークを置き、頬杖をついた。
「その一人が何か特別なことを言ったり、何かしたりしたなら、残ることもあるんじゃない?」
灯は言葉を返せなかった。
十年前、自分が何を言ったのかは覚えている。緊張して、用意していた言葉を少し飛ばして、それでも最後にどうしても伝えたくて声を絞り出した。彼の手が冷たかったこと。笑っているのに、目の奥が少し疲れて見えたこと。
思い出すと今でも少し恥ずかしい。若手俳優に向かっていったい何を言っているのかと自分でも思う。けれどあの時は本当に、彼が息をすることを忘れているように見えたのだ。
「灯?」
蒼の声がした。
低くも高くもない、落ち着いた声。灯が顔を上げると、蒼は何か言いたげにこちらを見ていた。けれどその言葉は、すぐには出てこない。
「……その人のこと、今も好きなの?」
静かな問いだった。
柚乃が蒼を見る。灯も少し驚いた。蒼がこういうふうに踏み込んでくることは、あまりない。いつも灯が話したいところまで待ってくれる。だからこそ、その質問は胸に引っかかった。
「今も、っていうか……」
灯は困って視線を落とした。
「分からない。好きだったのかも、今となってはよく分からないし。もう追ってないし、作品も全部見てるわけじゃないし。ただ久しぶりに見たら、すごく変な感じがした」
「変な感じ?」
「遠くにいた人が、急に近くに来たみたいな」
言ってから灯は自分の言葉にまた動揺した。
近くに来た。物理的にも、そうだった。チョコを持つ指が唇に触れるほど近く。エレベーターで肩に頭を預けられるほど近く。頬に唇が触れるほど近く。
顔が熱くなる。灯は慌てて水を飲んだ。
蒼はその変化を見ていた。灯が何を思い出したのかまでは分からない。それでも、自分の知らないところで、灯の表情を変える誰かがいることだけは分かった。胸の奥が、ゆっくり重くなる。
「そっか」
蒼はそれだけ言って、ハンバーグを切る。ナイフの先が皿に当たり小さな音を立てた。
柚乃はそんな蒼を横目で見て、わずかに眉を上げた。けれど今は何も言わない。代わりに、わざと明るい声で灯に向き直る。
「まあ、リアコかどうかって、他人が決めるものじゃないんじゃない? 本人がしんどいなら距離を置いた方がいいし、好きで幸せならそれはそれでいいし」
「そういうもの?」
「そういうもの。あと恋かどうか分からない時点で、だいぶ恋っぽいけどね」
「だから違うって」
「はいはい」
柚乃が笑う。灯は反論したかったが、うまく言葉が出なかった。違う、と言い切りたい。けれど自分の中のどこかが、それを邪魔している。
食事はいつも通り進んだ。仕事の愚痴、柚乃が最近見た動画の話、蒼が職場で頼まれた面倒な作業の話。三人でいると、会話は自然に日常へ戻っていく。灯も笑い、相槌を打ちながらパスタを食べた。けれどふとした瞬間に、頭の隅へ流司の顔が入り込む。
低い声で「はやく」と言った顔。髪を撫でられて目を細めた顔。帰りたくないと眉間にしわを寄せた顔。絶対登録してよ、と紙を握らせた時の必死な顔。
必死、だったのだろうか。
そこまで考えて、灯は慌てて思考を止めた。
食後三人は店を出た。夜風が少し冷たくなっていて、灯はカーディガンの前を軽く合わせる。駅へ向かう道の途中で、灯だけが別方向へ曲がる。家の方向が違うから、いつもの別れ道だった。
「じゃあ、またね」
「うん。気をつけて帰ってね」
柚乃が手を振る。蒼も「送らなくて大丈夫?」と聞いた。
「大丈夫。まだ人多いし、すぐそこだから」
「……分かった」
蒼はそれ以上押さなかった。灯は二人に軽く手を振り、駅前の明かりから少し外れた道へ歩き出す。鞄の内ポケットに入れた紙の存在を、また思い出した。取り出す勇気はない。登録する勇気もない。けれど捨てることもできない。
彼は覚えているのだろうか。
10年前の、一度だけの握手会を。
灯の背中が人の流れに紛れ、やがて角の向こうへ消えていく。蒼はそれをしばらく黙って見ていた。
「……早く告っちゃえばいいのに」
柚乃の声が、隣から軽く飛んできた。
蒼はすぐに返事をしなかった。灯が消えた角の方を見たまま、指先でジャケットの袖を軽く摘む。
「……何の話」
「今さらすっとぼけるの無理あるでしょ。保育園の頃から見てるんだから」
「柚乃」
「灯、全然気づいてないよ。蒼がどれだけ分かりやすくても、あの子は自分に向けられる好意だけは本当に鈍いから」
蒼は息を吐いた。否定したかった。けれど、否定の言葉は喉の手前で止まる。柚乃の言う通りだ。灯は人の気持ちには敏感なくせに、自分が誰かに大事にされていることだけはなかなか受け取らない。
蒼がずっと灯を見てきたことも、きっと届いていない。
「言ったら困らせる」
「言わなくても、今のままだと蒼が勝手に苦しくなるだけじゃん」
「それは、俺の問題だから」
「そうやって十何年やってきた結果が今でしょ」
柚乃の声は責めているわけではなかった。茶化しているようで、奥には心配がある。蒼はそれが分かるから、少しだけ苦く笑った。
「今日の灯、楽しそうだった」
「うん」
「……あの俳優の話してる時」
言葉にすると、胸の奥が鈍く痛んだ。灯は困った顔をしていたし、何度も否定していた。けれど、ただの昔話をしている時の顔ではなかった。戸惑いながら、熱を隠しきれていない顔だった。
蒼は、その顔を自分に向けてほしいと思ってしまった。
そんなことを思う自分が、少し嫌だった。
「蒼」
柚乃が珍しく静かな声で呼ぶ。
「灯は、たぶん自分が誰かに好かれるってことを信じてないよ。だから待ってるだけじゃ、一生気づかないと思う」
「……分かってる」
「分かってるなら、どうするの」
蒼は答えなかった。灯が消えた道を、もう一度見る。そこにはもう、灯の姿はない。夜の通りを歩く人たちの影が、駅の明かりに伸びているだけだった。
ずっと近くにいた。
保育園の頃から、小学校も、中学も。高校からは離れたけれど、灯が困っている時や泣きそうな時、無理に笑っている時、蒼はできるだけそばにいた。けれどそばにいるだけでは届かないものがあることを、今日初めてまざまざと見せつけられた気がした。
「……まだ、言えない」
ようやく出た声は、自分でも情けないほど小さかった。
柚乃は何か言いかけてやめた。代わりに「そっか」とだけ言う。その優しさが、余計に痛かった。
一方その頃、都内の別の場所で、長谷流司は楽屋の椅子に沈み込んでいた。
稽古終わりの体は疲れているはずなのに、頭だけが妙に冴えている。目の前のテーブルには飲みかけの水と、開いたままの台本。けれど流司の視線は台本ではなく、手の中のスマホに落ちていた。
通知はない。
何度見ても、ないものはない。
先週の土曜日、空中庭園で連絡先を書いて渡し絶対登録してよと言った。かなり強引だった自覚はある。チョコも、手を引いたことも、頬にキスしたことも、今思えば全部やりすぎだった。けれどあの時は、十年分の感情が一気に体を動かしてしまったのだ。
やっと会えた。
その言葉だけで頭がいっぱいだった。
それなのに、彼女からの連絡は1週間近く経っても来ない。
「……怖がらせたかな」
呟いた声は、思ったより弱かった。
テーブルの向こうでスケジュールを確認していたマネージャーが顔を上げる。
「何か言いました?」
「いや。あ、次の休みいつ?」
「急ですね。確認しますけど、何かあります?」
「ちょっと、行きたいところがある」
「仕事絡みですか?」
「……半分」
マネージャーは怪訝そうな顔をしたが、タブレットを操作して予定を確認し始めた。流司はスマホの画面をもう一度見る。やはり通知はない。分かっているのに、見てしまう。
彼女は、登録していないのかもしれない。
紙を捨てたのかもしれない。
あんなことをする人だと思われて、もう二度と会いたくないと思われたのかもしれない。
そこまで考えた瞬間、胸が嫌なふうに冷えた。舞台の上ならどれだけ視線を浴びても平気だ。失敗しても立て直せる。共演者の空気も読める。けれど灯のことになると、自分でも呆れるほど余裕がなくなる。
「来週の土曜、昼過ぎなら少し空けられます」
マネージャーの声に、流司は顔を上げた。
「ほんと?」
「夕方には戻ってもらいます。人の多い場所で変なことしないでくださいね」
「変なことって何」
「自覚がないなら余計に怖いです」
流司は返す言葉に詰まった。自覚はある。あるからこそ、少しだけ目を逸らした。マネージャーはため息をつきながらも、それ以上は追及してこなかった。
あのカフェに行けば、また会えるかもしれない。
確率が高いとは思わない。普通なら偶然同じ場所に二度来るなんて期待しない方がいい。けれど、あの店が好きならもう一度来る可能性はゼロではない。
ゼロではないなら、賭ける価値はある。
流司はスマホを握ったまま、ソファの背にもたれた。連絡が来ない画面を見つめているだけでは、何も変わらない。なら、自分から会いに行くしかない。
十年前、彼女は流司に「立ち止まって、息をして」と言った。
けれど今の流司は、立ち止まるどころか、また彼女のいるかもしれない場所へ走り出そうとしている。
「……今度こそ、聞かなきゃな」
彼女の名前も、連絡先も。
そして、まだ自分を覚えているのかも。
スマホの画面は相変わらず静かなままだった。それでも流司の胸の奥には、次の土曜日へ向かう小さな熱が灯り始めていた。
この店で三人で夜ご飯を食べるのは、もう何度目か分からない。保育園の頃から一緒にいる芦谷柚乃と桐原蒼。大人になってからは、休みの日にわざわざ予定を合わせるより金曜の仕事終わりにこうしてご飯を食べる方が多くなった。休日はそれぞれの用事があるし、灯自身日曜は基本的に家から出ない。だから金曜の夜は、三人にとってちょうどいい距離のまま続いている習慣みたいなものだった。
「灯、こっち~」
先に席を取っていた柚乃が、店の奥から手を振った。眉あたりで切りそろえた前髪に、低い位置で結んだダークブラウンのポニーテール。パンツスタイルに薄手のカーディガンを合わせた姿は、相変わらず気負いがなくて動きやすそうだ。柚乃は昔からスカートよりパンツが好きで、可愛い名前に反して、物言いはわりとさっぱりしている。
向かいの席には蒼が座っていた。黒髪の短いマッシュが顔まわりを柔らかく見せているけれど、表情はいつもどこか静かだ。仕事終わりらしく、きちんとしたシャツの上に軽いジャケットを羽織っている。セミフォーマルとカジュアルの間みたいな格好が、蒼にはよく似合っていた。
「ごめん、遅くなった?」
「全然。蒼が十分前に来て、私が五分前」
「それ、私が一番遅いってことじゃん」
「遅刻はしてないからセーフ」
柚乃がメニューを差し出す。灯は笑いながら席に座り、鞄を背もたれに置いた。蒼は水の入ったグラスを灯の方へ少し寄せてくれる。何気ない動作だった。昔からそうだ。蒼は気づくと、灯が困らないように少し先回りしている。
「ありがと」
「うん。仕事、忙しかった?」
「月末近いからちょっと。でも今日はまだ平気」
灯が答えると蒼は短く頷く。それだけなのに、ちゃんと聞いてくれている感じがした。蒼は大きく相槌を打つタイプではないけれど、話したことを忘れない。昔からそういうところがあった。
注文を済ませると、店員が去ったテーブルに少しだけ落ち着いた空気が戻ってきた。柚乃はストローでグラスの氷を軽く突きながら、灯の顔をじっと見た。
「で、何かあった?」
「え?」
「今日、会った瞬間から顔が変。仕事で疲れてるのとは違う顔してる」
灯は思わず頬に触れた。自分ではいつも通りにしているつもりだった。金曜の夜に二人とご飯を食べる。いつものことだ。何も変わらないはずなのに、柚乃の目は昔から妙に鋭い。
「別に、何も」
「嘘つけ。灯が“別に”って言う時、大体何かある」
柚乃があっさり言う。蒼もこちらを見た。責めるような視線ではない。ただ少し気にしている顔だった。灯はグラスを両手で包み込み、氷が揺れる音を聞きながら口を閉じた。
あの土曜日から、もう少しで1週間になる。
思い出すたびに、どれも現実の出来事とは思えなかった。けれど紙はまだ捨てられず、鞄の内ポケットに入っている。家に置いてくればいいのに、なぜか持ち歩いてしまっていた。それがもう十分おかしい。
「……ちょっと、聞きたいことがあって」
灯が小さく言うと、柚乃は身を乗り出した。蒼はグラスを持つ手を止める。
「なになに」
「たとえばの話なんだけど」
「たとえばの話って言う時、大体たとえばじゃないよね」
「柚乃、そういうのいいから」
灯が困ったように笑うと、柚乃は肩をすくめた。けれど目だけは楽しそうに細めている。蒼は黙ったまま、灯の次の言葉を待っていた。
「舞台俳優のリアコって、どう思う?」
言った瞬間、テーブルの上の空気が少しだけ止まった気がした。
柚乃は目を瞬かせ、それからにやりと笑った。蒼はグラスを置く音を、ほんの少しだけ遅らせた。
「急にどうしたの」
「いや、だから、たとえばの話」
「たとえば、舞台俳優にリアコしてる知り合いがいるとか?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ灯?」
「違う」
即答した声が、自分でも少し強かった。柚乃はその反応だけで何かを察したように、ますます楽しそうな顔をする。灯は慌てて視線を逸らした。
「違うっていうか、そういうのじゃなくて。ちょっと気になっただけ。芸能人とか俳優さんを本気で好きになるのって、どうなのかなって」
「どうって、別に好きになるだけなら自由じゃない? 相手が舞台俳優でもアイドルでも2次元でも、好きになる気持ち自体は変じゃないと思うよ」
柚乃は意外にも、茶化すでもなくさらりと言った。
「ただ、その人の本当の生活とか感情までは見えないじゃん。見えてる部分だけで自分の中の恋が育ちすぎると、しんどくなることはあるんじゃない?」
その言葉は、思ったより灯の胸に落ちた。
見えている部分だけで育つ恋。自分の中だけで大きくなる気持ち。届くはずがないのに、相手の一挙手一投足で嬉しくなったり、苦しくなったりするもの。
十年前の自分は、そこまでだったのだろうか。
灯は流司のことを本気で好きだったとは言い切れない。毎日彼の情報を追っていた時期は確かにあった。出演する舞台を調べ、雑誌を買い、写真集のお渡し会へ一度だけ行った。けれど高校卒業後で就職することになり、追いかけることから離れていった。
それでももしあの頃、流司に例えば彼女ができたと知ったら。
きっと複雑だった。
応援しなきゃ、彼が幸せならそれでいい、と自分に言い聞かせたと思う。けれど本当に平気だったかと聞かれたらすぐには頷けない。たくさんのファンの一人でしかなかったのにそんなふうに思うのは図々しいと分かっていても、少しだけ胸が沈んだはずだ。
じゃあ、自分は本当にリアコではなかったのだろうか。
灯はグラスの中の氷を見つめた。溶けかけた氷が水面で小さく傾き、照明を受けて鈍く光る。
「灯」
柚乃の声で、灯は顔を上げた。
「恋した?」
「してない」
また即答してしまった。柚乃が吹き出しそうになるのを必死で堪える。蒼は笑わなかった。むしろ、灯の横顔をじっと見ている。
「その速さがもう怪しいんだけど」
「違うから。ただ、ちょっと昔好きだった俳優さんのことを思い出しただけ」
「昔好きだった俳優さん?」
「好きっていうか、少し追ってた時期があったっていうか」
「名前は?」
柚乃が自然に聞く。灯は答えるか迷った。長谷流司。今の名前を口にしたら、話が一気に現実味を帯びてしまう気がした。
「……長谷流司」
小さく言うと、柚乃の目が丸くなった。
「え、はせりゅ?」
「声大きい」
「いや、だって普通に有名じゃん。灯、はせりゅ追ってたの?」
「十年前に少しだけ。一度だけ握手会というか、写真集のお渡し会に行ったことがあるくらい」
「十年前って、まだ今ほど売れてない頃?」
「たぶん」
料理が運ばれてきた。店員がパスタとオムライス、蒼の頼んだハンバーグを並べていく間、三人は自然と黙った。灯はフォークを手に取りながら今の沈黙に少し救われた気がした。
けれど、柚乃は逃がしてくれなかった。
「で、その長谷流司がどうしたの」
「どうしたっていうか」
「十年前の俳優のリアコについて、金曜の夜に幼馴染へ相談したくなった理由があるんでしょ」
灯はフォークの先でパスタを軽く巻いた。
全て言えるわけがない。先週の土曜日に偶然入ったカフェで長谷流司のイベントに遭遇して、チョコレートを食べさせられて、手を引かれて空中庭園に連れていかれて、頬にキスされて連絡先を渡されたなんて。
自分で思い返しても、現実味がなさすぎる。
「たまたま見かけたの」
「どこで?」
「駅ビルのカフェ」
「イベント?」
「たぶん。カフェの宣伝みたいな感じだった」
嘘は言っていない。全部は言っていないだけだ。柚乃は灯の顔をじっと見て「ふうん」と意味ありげに頷いた。
「それで昔のこと思い出したんだ」
「うん」
「話した?」
心臓が跳ねた。
灯はフォークを落としそうになり、慌てて持ち直す。その小さな動揺を、柚乃が見逃すはずもなかった。蒼も、そこで初めて少しだけ眉を動かした。
「話したんだ」
「……少しだけ」
「へえ」
「でも、向こうは覚えてないと思う」
そこだけは、はっきり言えた。灯はフォークを置き、膝の上で指を組む。
「私はたくさんいたうちの一人だったし。ああいう仕事をしている人って、毎日何人もの人に会うでしょ。十年前の、しかも一度だけ来た人のことなんて覚えてるわけないよ」
言いながら、手のひらにあの紙の感触が蘇る。絶対登録してよ、と言った流司の声。まるで灯が連絡することを当然のように思っていた、あの眩しい笑顔。
けれどあれが自分を覚えていたからだなんて、そんな都合のいい話があるはずない。きっと彼は、誰にでも距離が近い。舞台俳優だから、人との距離の詰め方が上手いだけだ。ファンの心を掴むことに慣れているだけ。
そう思いたいのに、思いきれない。
「十年前の記憶って、残ってるものなのかな」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
柚乃は少しだけ表情を変えた。茶化す色が消え、灯をまっすぐ見る。
「何の記憶?」
「一度会っただけの人のこと。たくさんの人と会う仕事をしている人が、その中の一人を覚えてることってあるのかなって」
「普通は、難しいんじゃない?」
柚乃は正直に言った。灯は小さく頷く。そうだろうと思っていた。分かっている。分かっているのに、胸のどこかが少しだけ沈んだ。
「でも」
柚乃はフォークを置き、頬杖をついた。
「その一人が何か特別なことを言ったり、何かしたりしたなら、残ることもあるんじゃない?」
灯は言葉を返せなかった。
十年前、自分が何を言ったのかは覚えている。緊張して、用意していた言葉を少し飛ばして、それでも最後にどうしても伝えたくて声を絞り出した。彼の手が冷たかったこと。笑っているのに、目の奥が少し疲れて見えたこと。
思い出すと今でも少し恥ずかしい。若手俳優に向かっていったい何を言っているのかと自分でも思う。けれどあの時は本当に、彼が息をすることを忘れているように見えたのだ。
「灯?」
蒼の声がした。
低くも高くもない、落ち着いた声。灯が顔を上げると、蒼は何か言いたげにこちらを見ていた。けれどその言葉は、すぐには出てこない。
「……その人のこと、今も好きなの?」
静かな問いだった。
柚乃が蒼を見る。灯も少し驚いた。蒼がこういうふうに踏み込んでくることは、あまりない。いつも灯が話したいところまで待ってくれる。だからこそ、その質問は胸に引っかかった。
「今も、っていうか……」
灯は困って視線を落とした。
「分からない。好きだったのかも、今となってはよく分からないし。もう追ってないし、作品も全部見てるわけじゃないし。ただ久しぶりに見たら、すごく変な感じがした」
「変な感じ?」
「遠くにいた人が、急に近くに来たみたいな」
言ってから灯は自分の言葉にまた動揺した。
近くに来た。物理的にも、そうだった。チョコを持つ指が唇に触れるほど近く。エレベーターで肩に頭を預けられるほど近く。頬に唇が触れるほど近く。
顔が熱くなる。灯は慌てて水を飲んだ。
蒼はその変化を見ていた。灯が何を思い出したのかまでは分からない。それでも、自分の知らないところで、灯の表情を変える誰かがいることだけは分かった。胸の奥が、ゆっくり重くなる。
「そっか」
蒼はそれだけ言って、ハンバーグを切る。ナイフの先が皿に当たり小さな音を立てた。
柚乃はそんな蒼を横目で見て、わずかに眉を上げた。けれど今は何も言わない。代わりに、わざと明るい声で灯に向き直る。
「まあ、リアコかどうかって、他人が決めるものじゃないんじゃない? 本人がしんどいなら距離を置いた方がいいし、好きで幸せならそれはそれでいいし」
「そういうもの?」
「そういうもの。あと恋かどうか分からない時点で、だいぶ恋っぽいけどね」
「だから違うって」
「はいはい」
柚乃が笑う。灯は反論したかったが、うまく言葉が出なかった。違う、と言い切りたい。けれど自分の中のどこかが、それを邪魔している。
食事はいつも通り進んだ。仕事の愚痴、柚乃が最近見た動画の話、蒼が職場で頼まれた面倒な作業の話。三人でいると、会話は自然に日常へ戻っていく。灯も笑い、相槌を打ちながらパスタを食べた。けれどふとした瞬間に、頭の隅へ流司の顔が入り込む。
低い声で「はやく」と言った顔。髪を撫でられて目を細めた顔。帰りたくないと眉間にしわを寄せた顔。絶対登録してよ、と紙を握らせた時の必死な顔。
必死、だったのだろうか。
そこまで考えて、灯は慌てて思考を止めた。
食後三人は店を出た。夜風が少し冷たくなっていて、灯はカーディガンの前を軽く合わせる。駅へ向かう道の途中で、灯だけが別方向へ曲がる。家の方向が違うから、いつもの別れ道だった。
「じゃあ、またね」
「うん。気をつけて帰ってね」
柚乃が手を振る。蒼も「送らなくて大丈夫?」と聞いた。
「大丈夫。まだ人多いし、すぐそこだから」
「……分かった」
蒼はそれ以上押さなかった。灯は二人に軽く手を振り、駅前の明かりから少し外れた道へ歩き出す。鞄の内ポケットに入れた紙の存在を、また思い出した。取り出す勇気はない。登録する勇気もない。けれど捨てることもできない。
彼は覚えているのだろうか。
10年前の、一度だけの握手会を。
灯の背中が人の流れに紛れ、やがて角の向こうへ消えていく。蒼はそれをしばらく黙って見ていた。
「……早く告っちゃえばいいのに」
柚乃の声が、隣から軽く飛んできた。
蒼はすぐに返事をしなかった。灯が消えた角の方を見たまま、指先でジャケットの袖を軽く摘む。
「……何の話」
「今さらすっとぼけるの無理あるでしょ。保育園の頃から見てるんだから」
「柚乃」
「灯、全然気づいてないよ。蒼がどれだけ分かりやすくても、あの子は自分に向けられる好意だけは本当に鈍いから」
蒼は息を吐いた。否定したかった。けれど、否定の言葉は喉の手前で止まる。柚乃の言う通りだ。灯は人の気持ちには敏感なくせに、自分が誰かに大事にされていることだけはなかなか受け取らない。
蒼がずっと灯を見てきたことも、きっと届いていない。
「言ったら困らせる」
「言わなくても、今のままだと蒼が勝手に苦しくなるだけじゃん」
「それは、俺の問題だから」
「そうやって十何年やってきた結果が今でしょ」
柚乃の声は責めているわけではなかった。茶化しているようで、奥には心配がある。蒼はそれが分かるから、少しだけ苦く笑った。
「今日の灯、楽しそうだった」
「うん」
「……あの俳優の話してる時」
言葉にすると、胸の奥が鈍く痛んだ。灯は困った顔をしていたし、何度も否定していた。けれど、ただの昔話をしている時の顔ではなかった。戸惑いながら、熱を隠しきれていない顔だった。
蒼は、その顔を自分に向けてほしいと思ってしまった。
そんなことを思う自分が、少し嫌だった。
「蒼」
柚乃が珍しく静かな声で呼ぶ。
「灯は、たぶん自分が誰かに好かれるってことを信じてないよ。だから待ってるだけじゃ、一生気づかないと思う」
「……分かってる」
「分かってるなら、どうするの」
蒼は答えなかった。灯が消えた道を、もう一度見る。そこにはもう、灯の姿はない。夜の通りを歩く人たちの影が、駅の明かりに伸びているだけだった。
ずっと近くにいた。
保育園の頃から、小学校も、中学も。高校からは離れたけれど、灯が困っている時や泣きそうな時、無理に笑っている時、蒼はできるだけそばにいた。けれどそばにいるだけでは届かないものがあることを、今日初めてまざまざと見せつけられた気がした。
「……まだ、言えない」
ようやく出た声は、自分でも情けないほど小さかった。
柚乃は何か言いかけてやめた。代わりに「そっか」とだけ言う。その優しさが、余計に痛かった。
一方その頃、都内の別の場所で、長谷流司は楽屋の椅子に沈み込んでいた。
稽古終わりの体は疲れているはずなのに、頭だけが妙に冴えている。目の前のテーブルには飲みかけの水と、開いたままの台本。けれど流司の視線は台本ではなく、手の中のスマホに落ちていた。
通知はない。
何度見ても、ないものはない。
先週の土曜日、空中庭園で連絡先を書いて渡し絶対登録してよと言った。かなり強引だった自覚はある。チョコも、手を引いたことも、頬にキスしたことも、今思えば全部やりすぎだった。けれどあの時は、十年分の感情が一気に体を動かしてしまったのだ。
やっと会えた。
その言葉だけで頭がいっぱいだった。
それなのに、彼女からの連絡は1週間近く経っても来ない。
「……怖がらせたかな」
呟いた声は、思ったより弱かった。
テーブルの向こうでスケジュールを確認していたマネージャーが顔を上げる。
「何か言いました?」
「いや。あ、次の休みいつ?」
「急ですね。確認しますけど、何かあります?」
「ちょっと、行きたいところがある」
「仕事絡みですか?」
「……半分」
マネージャーは怪訝そうな顔をしたが、タブレットを操作して予定を確認し始めた。流司はスマホの画面をもう一度見る。やはり通知はない。分かっているのに、見てしまう。
彼女は、登録していないのかもしれない。
紙を捨てたのかもしれない。
あんなことをする人だと思われて、もう二度と会いたくないと思われたのかもしれない。
そこまで考えた瞬間、胸が嫌なふうに冷えた。舞台の上ならどれだけ視線を浴びても平気だ。失敗しても立て直せる。共演者の空気も読める。けれど灯のことになると、自分でも呆れるほど余裕がなくなる。
「来週の土曜、昼過ぎなら少し空けられます」
マネージャーの声に、流司は顔を上げた。
「ほんと?」
「夕方には戻ってもらいます。人の多い場所で変なことしないでくださいね」
「変なことって何」
「自覚がないなら余計に怖いです」
流司は返す言葉に詰まった。自覚はある。あるからこそ、少しだけ目を逸らした。マネージャーはため息をつきながらも、それ以上は追及してこなかった。
あのカフェに行けば、また会えるかもしれない。
確率が高いとは思わない。普通なら偶然同じ場所に二度来るなんて期待しない方がいい。けれど、あの店が好きならもう一度来る可能性はゼロではない。
ゼロではないなら、賭ける価値はある。
流司はスマホを握ったまま、ソファの背にもたれた。連絡が来ない画面を見つめているだけでは、何も変わらない。なら、自分から会いに行くしかない。
十年前、彼女は流司に「立ち止まって、息をして」と言った。
けれど今の流司は、立ち止まるどころか、また彼女のいるかもしれない場所へ走り出そうとしている。
「……今度こそ、聞かなきゃな」
彼女の名前も、連絡先も。
そして、まだ自分を覚えているのかも。
スマホの画面は相変わらず静かなままだった。それでも流司の胸の奥には、次の土曜日へ向かう小さな熱が灯り始めていた。