推しだったキミに恋をした
 稽古場の空気には、いつも少しだけ熱がこもっている。
 広いスタジオの床には立ち位置を示すテープが何本も貼られ、壁際には水のペットボトルや台本、タオルが雑然と並んでいた。鏡に映る役者たちの姿は、誰もが少しずつ汗をかいている。まだ本番用の衣装も照明もない。ただの稽古着と白い照明の下なのに、動き出せば空気が変わる。声、足音、呼吸、剣を振るう時の風切り音。そういうものが重なって、舞台になる前の場所は独特の温度を持っていた。
 流司は壁際で台本を片手に持ち、次の段取りを確認していた。
 今回の舞台は、七瀬悠真が主演を務める原作付きの大型作品だった。流司はその相方にあたる役で、殺陣も台詞量も多い。
 午前中から殺陣の確認が続いている。今回の舞台で流司が演じる役は、静かな狂気を抱えた武人だった。台詞は少ないが、立っているだけで場を支配しなければならない。殺陣も多い。動きの派手さより、止まった瞬間の鋭さを求められる役だ。
 こういう役は嫌いではない。むしろ得意な方だ。
 けれど、今日は集中が少しだけ散る。
 スマホはマネージャーに預けている。稽古中に通知を確認するわけにはいかない、そんなことは分かっている。分かっているのに、休憩に入るたび、無意識に荷物の方へ視線が向いてしまう。
 灯から返事が来ているかもしれない。
 そう思うだけで、指先が落ち着かない。
 
「流司」
 
 低く厚みのある声が横から落ちた。
 顔を上げると、七瀬悠真がペットボトルを片手に立っていた。流司と同期の舞台俳優で、年齢も近い。柔和な顔立ちをしていて普段は人当たりも穏やかだが、声だけは妙に太くてよく響く。立っているだけなら柔らかい印象なのに、一度台詞を言うと空気が締まるタイプだった。
 
「顔に出てる」
「何が」
「スマホ見たいです、って顔」
 
 悠真はさらりと言い、ペットボトルのキャップを開けた。
 流司は台本で口元を隠す。
 
「出てない」
「出てる。さっきから休憩のたびに荷物見てる」
「気のせい」
「気のせいで済むレベルじゃないよ、お前」
 
 悠真は笑っている。けれど目だけは妙に鋭い。昔からそうだった。柔らかく話しながら人の変化にすぐ気づく。流司が無理をしている時も、浮かれている時も、だいたい最初に見抜くのは悠真だった。
 
「だれ? 彼女?」
 
 その言葉に、流司の手が止まった。
 悠真はそれだけで察したように、軽く眉を上げる。
 
「わっかりやす」
「まだ何も言ってない」
「言ってないから分かるんだよ。仕事相手ならその顔しない」
 
 流司は返す言葉を探したが、うまく出てこなかった。悠真は追及しすぎることはせず、視線を稽古場の中央へ戻す。
 
「気をつけろよ」
「……分かってる」

 事務所として恋愛を明確に禁止されているわけではない。けれど暗黙の了解はある。今の流司は舞台の主演も増え、作品の顔として扱われることも多くなった。熱心なファンも多い。相手が一般人ならなおさら、何かあった時に守るのが難しい。
 分かっている。
 分かっているけれど、それとは別だ。
 灯と繋がれたことを、なかったことにはできない。十年前から胸の奥に残り続けていた人にようやく会えた。それを仕事の都合だけで切れるほど、流司は器用ではなかった。
 悠真が何か言いかけた時、稽古場の入り口が少し騒がしくなった。
 マネージャーらしき女性の声と、スタッフの挨拶。その奥から、明るく少し甘い声が聞こえる。
 
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
 
 入ってきたのは白石玲奈だった。
 二十三歳。アイドルグループを卒業して女優業に転身したばかりの若手だ。ハイトーンのミルクティーベージュに近い髪をゆるく巻き、稽古着なのに計算されたようなラインのトップスを着ている。骨格のはっきりした華やかな体つきで、濃いめのアイメイクもリップもよく似合っていた。薄い色では沈まない。むしろ強い色や光を味方につけるタイプだ。
 男の目を引く。それは間違いなかった。
 ただ、その場にいる女性スタッフの何人かが、玲奈の声にほんの少しだけ表情を固くしたのも、流司は見逃さなかった。
 玲奈は悪気なく人の視線を集める。けれど、ただ華があるだけなら反感は買わない。問題は、その視線を本人が分かっていて、分かっていないふりをするところだった。
 
「流司くん」
 
 玲奈は流司を見つけると、ぱっと顔を明るくした。
 三年前流司が主演を務めた舞台で、玲奈は初めて本格的な女優仕事を経験した。当時はまだアイドル在籍中で、舞台経験も浅かった。流司は座長として、共演者の一人である彼女にも当然のように助言した。立ち位置、声の出し方、感情の置き方。特別なことをしたつもりはない。
 けれど玲奈にとっては違ったらしい。
 それ以来、彼女は流司に対して妙に距離が近い。
 
「お久しぶりです。覚えてますか?」
 
 玲奈が少しだけ首を傾げる。周囲に聞こえるくらいの声なのに、視線は流司だけを見ている。
 流司は最低限の笑みを作った。
 
「覚えてるよ。三年前に一緒だった」
「よかった。忘れられてたらどうしようって思ってました」
「忘れないでしょ。同じ現場だったんだから」
 
 当たり障りのない返事をしながら、流司は台本を閉じた。玲奈は嬉しそうに笑う。笑い方は可愛い。自分がどう見えるかをよく知っている笑い方だった。
 
「また流司くんと共演したいって、ずっと思ってたんです」
「そうなんだ」
「今は女の子ばっかりの作品が多くて。もちろん楽しいんですけど、やっぱり流司くんとお芝居した時のことが忘れられなくて」
 
 玲奈はそう言って、少しだけ声を落とした。誰かに聞かせるようで、でも秘密を打ち明けるような絶妙な距離。近くにいた男性スタッフが、思わず視線を向ける。
 そういえば今日から稽古に合流だったか。
 悠真が流司の隣で水を飲みながら、何も言わずにその様子を見ていた。
 
「白石さん、今も舞台出てるでしょ」
「はい。でも、まだまだです。私、アイドル上がりだから、やっぱり女優さんたちに比べると浮いちゃうみたいで」
 
 玲奈は困ったように笑った。
 
「私何もしてないのに、女の人に嫌われちゃうんです」
 
 その一言で、近くにいた女性スタッフの手がほんの一瞬止まった。
 流司は顔には出さなかった。
 何もしていない。
 その言葉を自分で言う人ほどだいたい何かしている。少なくとも、自分がどう見えているかを分かっていないわけではない。玲奈はたぶん本当に悪意だけで動いているわけではない。努力家でもあるし、稽古態度が悪いわけでもない。ただ自分が男に向ける顔と女に向ける顔の温度差を、無意識のように扱う。
 それが、同性から見れば引っかかる。
 
「そんなことないよ」
 
 流司は笑って言った。
 表面だけなら、十分優しい声だった。
 玲奈は待っていた言葉を受け取ったように、ぱっと顔を上げる。
 
「ほんとですか?」
「うん。みんなそう言ってくれると思うよ」
 
 みんな、という言葉を少しだけ強めた。
 俺だけじゃない。特別じゃない。そう伝えるためだった。
 けれど玲奈は、都合よく受け取ったらしい。
 
「流司くんだけですよ、そう言ってくれるの。ありがとうございます。嬉しい」
 
 流司は笑顔を崩さなかった。
 はー、くだらねぇ。
 口には出していない。出していないはずだった。
 けれど隣で悠真が、水を飲むふりをしながら肩を震わせた。笑いを堪えているわけではない。呆れているのだ。流司の内側に浮かんだ言葉が、顔のどこかに出ていたらしい。
 玲奈は気づかない。むしろ流司が優しく受け止めてくれたと思っている顔をしている。
 
「私、メイクも濃いってよく言われるんです。男ウケ悪いからやめなよって。でも薄くすると顔がぼやけちゃうし」
 
 玲奈は指先で自分の目元に触れた。長いネイルが照明を拾う。
 
「やっぱり、そう見えます?」
 
 まただ。
 そんなことないよ待ち。
 周囲の空気が微妙に固まる。男性スタッフの一人は、軽く笑って「似合ってますよ」と言いそうな顔をしていた。女性スタッフの一人は、台本を揃える手にほんの少し力が入っている。
 流司は一拍置き、同じように当たり障りのない声で返す。
 
「似合ってるんじゃない? 白石さんの雰囲気には」
「ほんとですか?」
「うん。舞台だと、遠くから見える強さも必要だし」
「そうですよね。流司くんに言われると安心します」
「メイクさんもそう言うと思う」
 
 また、少しだけ線を引く。
 けれど玲奈はそこを越えてこようとする。
 
「でも、流司くんに言われるのが一番嬉しいです」
 
 近くにいた若い男性スタッフが微笑ましそうに見ている。アイドル上がりの可愛い女優が、憧れの先輩俳優に懐いている。そう見えるのだろう。男にはこういう甘え方は比較的好意的に映る。守りたくなる、可愛い、素直。そういう言葉で処理されやすい。
 けれど、少し離れたところにいた女性共演者の表情は違った。
 呆れでも怒りでもない。面倒なものを見た、という目だった。
 流司は内心でため息をつく。
 悪い子ではない。
 たぶん、それが一番厄介なのだ。
 本当に努力はしている。台本も読み込んでいるし、振りの覚えも悪くない。アイドル時代のファンを舞台に連れてくる集客力もある。演技がとんでもなく下手というわけでもない。若さと華と努力で、足りないところをちゃんと埋めようとしている。
 ただ、他人が自分をどう扱うかに敏感で、その反応を引き出すのがうまい。
 男からは可愛がられ、女からは疎まれる。
 本人はそれを「何もしていないのに」と言う。
 だから余計に、女から嫌われる。
 
「玲奈さん、そろそろ読み合わせ入るって」
 
 少し離れた場所から、女性スタッフが声をかけた。
 玲奈は一瞬だけ残念そうに流司を見る。
 
「また後で話してもいいですか?」
「稽古の合間なら」
「嬉しい。三年前みたいに、また色々教えてください」
「座組全体で確認しよう」
 
 流司はさらりと返した。玲奈は少しだけ唇を尖らせたが、すぐに笑顔へ戻す。
 
「はい。お願いします」
 
 彼女が離れていくと、悠真がようやく流司の方を見た。
 
「それ、絶対に表に出しちゃだめだよ」
「何が」
「今の顔」
「顔?」
「言ってないのに聞こえた」
 
 悠真は淡々と言った。
 流司は視線を逸らす。
 
「何が聞こえたんだよ」
「はー、くだらねぇ」
 
 ほぼ正解だった。
 流司は思わず台本で口元を隠す。悠真は笑っていない。むしろ真面目な顔をしている。
 
「お前、愛想はいいけど内心が顔に出る時あるから気をつけろ。白石さんみたいなタイプ、敵に回すと面倒だよ」
「別に敵に回すつもりはない」
「好かれるつもりもないだろ」
「ない」
 
 即答した。
 悠真はその早さに少しだけ眉を上げる。
 
「そこは濁せよ」
「本人の前では濁してる」
「俺の前でも多少は濁せ」
 
 流司は肩をすくめた。悠真はペットボトルを手の中で回しながら、玲奈の方へ視線を向ける。彼女は別の男性スタッフに何かを尋ねていた。スタッフはにこやかに答えている。玲奈は少し大げさなくらい嬉しそうに笑った。
 
「悪い子ではないんだけどね」

 悠真が言う。
 
「分かってる」
「努力もしてる」
「それも分かってる」
「でも、女の人から嫌われる理由も分かる」
「それも分かる」
「全部分かってる顔で受け流してるのが一番怖いんだよ、お前は」
 
 流司は台本を開き直した。
 
「仕事だから」
「仕事ならなおさら、変な隙見せるなよ。今お前、別のことで頭いっぱいなんだし」
 
 別のこと。
 その言葉で、流司の意識は一瞬だけ灯へ向かった。
 昨夜の通話。スマホ越しの小さな声。眠気を含んだ「私も、話せてよかったです」も声。朝に届いた『昨日のは忘れてください』というメッセージ。思い出しただけで、口元が緩みそうになる。
 悠真がすぐにそれを見つけた。
 
「今、思い出しただろ」
「何を」
「彼女」
「言い方」
「じゃあ、例の子」
 
 流司は台本で顔を隠す。
 
「ほんと分かりやすくなったな」
「うるさい」
「前はもっと隠せたのに」
「仕事中は隠してる」
「隠せてないから言ってる」
 
 悠真の声は呆れているが、そこには心配も混じっていた。彼は流司をからかうことはあっても、無責任に煽るタイプではない。舞台の同期として、芸能界の面倒さも知っている。誰かと噂になることが、仕事や相手の生活にどう影響するかも分かっている。
 
「本気なの?」
 
 悠真が急に声を落とした。
 流司は台本を下ろす。
 
「何が?」
「その子」
 
 稽古場のざわめきが少し遠くなる。流司は答えを探すまでもなかった。
 
「本気」
 
 短く言った。
 悠真はしばらく黙ったあと、深く息を吐く。
 
「じゃあ、余計に慎重にしろ」
「分かってる」
「相手、一般人なんだろ」
「たぶん」
「たぶん?」
「ちゃんと聞いたのは名前だけ」
「お前さ」
 
 悠真が額を押さえた。
 
「何やってんの」
「色々、順番を間違えた」
「自覚あるならいいけど、よくはない」
「分かってる」
「分かってるって言うわりに、顔が分かってない」
 
 流司は何も言えなかった。
 そこへ演出助手の声が飛ぶ。
 
「長谷さん、七瀬さん、次お願いします」
 
 話はそこで切れた。流司は台本を置き、稽古場の中央へ向かう。悠真もその隣に並ぶ。仕事に入れば、余計な感情は一度奥へ押し込める。殺陣の立ち位置、相手との距離、台詞の呼吸。そういうものに意識を合わせていく。
 流司が剣を構えると、空気が変わった。
 玲奈は少し離れたところで、それを見ていた。
 やっぱり綺麗だと思う。
 三年前、初めて女優として舞台に立った時、流司は今より少しだけ若かった。それでも座長としての立ち方はもう完成されていて、稽古場で迷っていた玲奈に、何度も声をかけてくれた。
 そこ、もう少し前に出た方が照明拾うよ。
 その台詞、相手にぶつけるより自分の中で1回飲み込んだ方がいい。
 大丈夫。舞台は一人で立つ場所じゃないから。
 その1つ1つを、玲奈は今でも覚えている。
 当時の自分は、アイドルとしての仕事の延長で舞台に立っていた。演技は初めてではないけれど、女優と呼ばれるには足りないものばかりで、周りの目も厳しかった。アイドル上がりだから。顔で選ばれたんでしょ。そう言われている気がして、笑っていてもずっと怖かった。
 そんな時、流司だけは普通に教えてくれた。
 特別扱いではなかったのかもしれない。座長として、後輩を助けただけだったのかもしれない。でも玲奈には、特別に見えた。
 あの人は、私をちゃんと見てくれた。
 その記憶だけで、玲奈はアイドルを辞めたあとも女優を続けられた。事務所を移ったのも、流司と同じ場所にいればいつかまた共演できると思ったからだ。今は女性キャスト中心の舞台が多い。アイドル時代のファンを引っ張るために、事務所がそういう仕事を選んでいるのは分かっている。けれど本当は、もう一度流司の隣に立ちたかった。
 彼の相手役になりたい。
 今回は相手役ではない。立ち位置も、物語の中心から少し外れている。それでも同じ稽古場に流司がいるだけで、玲奈には十分だった。いつかもっと近い役で、できれば彼の隣に立つ役でもう一度共演したい。そのために、ここで印象を残したかった。
 稽古の合間、流司が台詞を受ける。低い声が広いスタジオに落ちた瞬間、玲奈の胸が少し熱くなる。舞台上では冷たく鋭いのに、さっきは自分に「そんなことないよ」と言ってくれた。その優しさを思い出すだけで、頬が緩む。
 やっぱり流司くんは優しい。
 忙しいから、今は仕事モードだから、少し距離があるだけ。そう思えば、玲奈は不安にならずにいられた。
 休憩を挟みながら稽古は続き、夕方に近づく頃には、場の熱も疲労も濃くなっていた。玲奈は自分の出番を終え、タオルで首元の汗を押さえながら壁際へ戻った。流司は少し離れた場所でマネージャーからスマホを受け取っている。
 何気なく見ていた。
 本当に、ただ何気なく。
 流司が画面を見た瞬間、表情が変わった。
 大きく笑ったわけではない。声を上げたわけでもない。ただ、目元がふっとやわらかくなった。舞台上の冷たさも、稽古場での集中した顔も、玲奈と話していた時の当たり障りのない笑みも、全部ほどけるみたいに消えた。
 誰かからの連絡だ。
 それも、ただの仕事相手ではない。
 玲奈は直感した。
 流司は画面を見つめたまま、親指で何かを打っている。口元が少しだけ緩んでいた。さっきまでの流司とはまるで違う顔だった。そんな顔を、玲奈は見たことがない。
 胸の奥に、小さな違和感が生まれる。
 
「流司くん」
 
 思わず声をかけると、流司は画面から顔を上げた。表情はすぐにいつものものへ戻る。
 
「何?」
「連絡、ですか?」
 
 聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。けれどもう遅い。流司は一瞬だけスマホを伏せた。
 
「うん。ちょっと」
「お仕事?」
「まあ、そんな感じ」
 
 嘘ではないのかもしれない。けれど、完全な本当でもない。
 玲奈は笑顔を作った。
 
「流司くん、忙しいですもんね」
「白石さんもでしょ」
「私はまだまだです。もっと頑張らないと」
「無理しすぎないように」
 
 優しい言葉。
 けれど、さっき画面を見た時の顔とは違う。玲奈はそれに気づいてしまった。
 流司の優しさには種類がある。
 自分に向けられるものは、角の立たない優しさだ。先輩として、同じ事務所の役者として、現場を円滑にするための言葉。三年前のあの時も、本当はそうだったのかもしれない。
 でも、さっきスマホの向こうにいた誰かへ向けた顔は違った。
 もっと無防備で、もっと近かった。
 
「ありがとうございます」
 
 玲奈は笑った。いつも通り、可愛く見える角度で。
 流司も軽く笑い返し、またスマホへ視線を落とす。その横顔を見ながら、玲奈はタオルを握る指に少しだけ力を込めた。
 誰なのだろう。
 流司くんに、あんな顔をさせる人。
 その疑問は、胸の奥で小さな棘みたいに残った。
 少し離れたところで、悠真はその一部始終を見ていた。
 流司の顔が緩んだ瞬間も、玲奈がそれに気づいた瞬間も、全部見えていた。悠真は水を一口飲み、誰にも聞こえないくらい小さく息を吐く。
 面倒なことになりそうだ。
 そう思ったが、口には出さなかった。
 稽古場にはまた、次の確認を始める声が響いている。流司はスマホを伏せ、何事もなかったように台本を手に取った。玲奈も笑顔のまま、自分の立ち位置へ戻っていく。
 けれど、ほんの少しだけ空気が変わっていた。
 火種はまだ小さい。
 小さいけれど、確かにそこに生まれていた。
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