推しだったキミに恋をした
金曜の夜、灯はベッドの端に座ったまま、スマホの画面を見つめていた。
時刻は20時56分。いつもならもう少し気を抜いている時間だった。お風呂も済ませて、髪も乾かして、あとは明日の予定をぼんやり考えながら布団に入るだけ。日曜は基本的に外へ出ないから、土曜の夜は少しだけ気が楽だ。けれど今日は、心臓だけが落ち着かない。
スマホの画面には、長谷流司の名前が表示されている。
数日前から短いメッセージのやり取りは続いていた。
最初に届くのは、いつも流司の方からだった。朝になると『おはよう』とだけ送られてくる。灯が少し迷ってから『おはようございます』と返すと、すぐに『また敬語』と返ってきた。
仕事の合間なのか、『昼食べた?』と短く聞かれた日もある。灯が『食べました』と返すと、『偉い』とだけ返ってきて、画面の前でしばらく固まった。子ども扱いされたようで困るのに、不思議と嫌ではなかった。
どれも恋人同士の甘いやり取りというほどではない。けれどただの知り合いに送るには少し近い。その距離感に戸惑いながら、灯はいつも数分遅れて返事をした。
自分から何かを送る勇気はまだない。けれど、流司からのメッセージを待っていないと言えば嘘になる。
『今夜、少しだけ話せない?』
そうメッセージが届いたのは、夕方だった。
人目を避けて会うことも考えたらしい。けれど流司の仕事終わりが遅く、外で会うには時間も場所も難しい。個室の店を使ったとしても同じ入口から入れば見られる可能性はあるし、彼は誰かに気づかれる立場の人だ。だから今日は通話にしようということになった。
ただの通話。
そう思いたいのに、落ち着かなかった。
灯は画面を伏せ、膝の上で指を組んだ。部屋にはドライヤーを使った後の少しあたたかい空気が残っている。ベッド脇の小さなライトだけをつけたせいで、壁の影がいつもより柔らかく見えた。外からは車の音が遠く聞こえる。部屋着の袖口を握っている自分に気づき、灯は慌てて手を離した。
その瞬間、スマホが震えた。
表示された名前を見ただけで、胸が跳ねる。
――長谷流司。
灯は一度だけ深く息を吸い、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
自分の声が、思ったより小さく出た。
数秒の沈黙のあと、耳元に低い声が届く。
『灯?』
名前を呼ばれただけで、指先が少し熱くなった。文字で見るのとは違う。舞台やインタビューで聞いた声とも違う。スマホ越しなのに、すぐそばで囁かれたみたいに感じる。
「はい。聞こえてます」
『よかった』
流司の声に、ほっとしたような息が混じった。それだけで、彼も少し緊張していたのだと分かる。灯はスマホを耳に当て直し、視線を膝の上に落とした。
「お仕事、おつかれさまです」
『またそれ』
「え?」
『10年ぶりに会ったときも、お疲れ様ですって言ってた』
流司が小さく笑う。灯の頬が熱くなった。あの日、反射で出てしまった言葉。何度思い出しても意味が分からないのに、彼はなぜかそれを楽しそうに覚えている。
「あれは、忘れてください」
『無理。可愛かったから』
「可愛くないです」
『可愛かったよ』
即答されると返す言葉がなくなる。灯が黙ってしまうと、流司は電話の向こうで少しだけ息を吐いた。笑っていた空気が、ふと静かになる。
『ごめん』
唐突に落ちた言葉に、灯は顔を上げた。
「え?」
『あの日のこと』
頭の中で順番に浮かんだ。カフェのチョコレート、指先、エレベーター、空中庭園、頬に触れた唇。灯はスマホを持つ手に力を込める。
『ほんとにごめん。やりすぎた』
流司の声は低かった。いつもの少し悪戯っぽい調子ではなく、言葉の端に迷いがある。
『怖がらせるつもりはなかった。でも、結果的に怖かったなら、本当にごめん』
灯はすぐに返事ができなかった。
謝られるのはこれが初めてではない。空中庭園で連絡先を登録した時にも、流司は一度、あの日のことを謝ってくれた。けれどあの時は名前を呼ばれたことや、10年前の記憶を覚えていると言われたことに気を取られて、ちゃんと受け止めきれなかった。電話越しに改めて言われると、胸の奥に残っていた硬いものが少しだけ形を変える。
「……怖かった、というより」
灯は言葉を探した。嘘は言いたくない。けれど、どう言えばいいのか分からない。
「びっくりしました。すごく」
『うん』
「ありえないことが一気に起きて、何をどう考えたらいいのか分からなくなって」
『うん』
「でも、嫌だったって言い切れるかというと、そうでもなくて」
言ってから、灯は息を止めた。
自分で言ってしまった言葉に驚いた。嫌ではなかった。少なくとも、そういう意味になる。電話の向こうで、流司が一瞬黙った。
『……そっか』
その声が、少しだけ震えているように聞こえた。
『それなら、よかったって言いたいけど』
流司はそこで言葉を切る。耳元に、小さな呼吸音だけが残った。
『でも、やっぱり俺が悪い。灯が嫌って言えない子かもしれないのに、あんなふうに距離詰めた』
灯は瞬きをした。
嫌って言えない子。
その言葉は思ったより深いところに触れた。自分では気づかないふりをしているけれど、確かにそういうところはある。相手の勢いや空気に押されると、拒む前に考えてしまう。今これを言ったら相手はどう思うだろう。嫌な気持ちにさせるだろうか。場を壊すだろうか。そう考えているうちに、自分の本音が分からなくなる。
「そんな、こと」
否定しようとした声は弱かった。
流司は優しく遮る。
『あると思う。だから、これからはちゃんと聞く』
スマホ越しの声なのに、目の前でまっすぐ見られているような気がした。
『触っていいかも、近づいていいかも。灯が嫌って言ったら、止まる』
灯は膝の上の布を握りしめた。
あの日、流司は確かに強引だった。けれど、今こうして自分の反応を気にしてくれている。謝って、聞くと言ってくれている。そのことに、安心している自分がいる。
「長谷くんは」
『うん』
「どうして、そんなに」
そこまで言って、灯は口を閉じた。
どうしてそこまで私に、とは聞けなかった。聞いてしまえば、何かが進んでしまう気がした。流司は灯が飲み込んだ続きを分かっているのか、しばらく黙っていた。
『会えて嬉しかったから』
やがて、低い声が静かに落ちた。
『あの日、灯に会えて本当に嬉しかった』
灯の胸が、ゆっくり熱くなる。
『だから浮かれた。10年分、全部いっぺんに出た。カッコつける余裕もなかったし、ちゃんと順番を考える余裕もなかった』
電話の向こうで、流司が苦く笑う気配がした。
『俺、舞台の上だとだいたい何とかできるんだよ。台詞飛んでも、相手がちょっと間違えても、空気見て動ける。でも灯の前だと、びっくりするくらい駄目』
「駄目、ですか」
『駄目。すぐ触りたくなるし、近づきたくなるし、名前呼びたくなる』
あまりにも正直に言われて、灯はスマホを落としそうになった。慌てて持ち直し、口元を手の甲で隠す。部屋には自分しかいないのに、顔を見られている気がして仕方ない。
「そういうの、普通に言わないでください」
『言わない方がいい?』
「……分かりません」
『じゃあ、少しずつ言う』
「そういう問題でもないです」
流司が笑った。低い笑い声が耳元に触れる。あの日のエレベーターで肩にもたれられた時の、香水の冷たい匂いまで思い出しそうになって、灯は目を伏せた。
『でも、からかってるわけじゃない』
その言葉で、灯の指先が止まる。
『ファンサの延長でもない。そういうんじゃない』
灯が心の中で何度も自分に言い聞かせていたことを、流司は知っているみたいに否定した。
『俺が、灯に会いたかっただけ』
部屋の空気が一段静かになる。
灯はスマホを耳に当てたまま、膝の上を見つめた。言葉を返したいのに、喉の奥が詰まってしまう。嬉しいのか、怖いのか、分からない。ただ胸の奥が、あたたかいものと困ったものに同時に押されている。
「……私、何もしてないです」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
流司は少しだけ黙る。
「何もしてないのに長谷くんがそんなふうに言う理由が、分からないです」
『灯は覚えてなくても、俺は覚えてる』
「10年前のことですか?」
『うん』
10年前。握手会。
灯にとっては恥ずかしい記憶だった。若手俳優に向かって何を言っているのかと、思い返すたび少し顔が熱くなる。けれど流司にとっては違うのだろうか。
『あの日灯が言ってくれたこと、ずっと覚えてた』
灯は息を止めた。
『たまには立ち止まって、ちゃんと息してください』
自分の言葉が、流司の声で返ってくる。
それだけで、遠い昔の握手会の光景が急に近くなった。小さな会場、並んでいた人たちの気配、写真集を受け取った時の紙の重さ。握った手が思ったより冷たくて、思わず顔を上げた瞬間のこと。
『最初はびっくりしただけだった。そんなこと言われたの初めてだったから』
流司の声は、いつもより少し穏やかだった。悪戯っぽさも、甘える響きも薄れている。思い出を手で触れるみたいに、ゆっくり言葉を選んでいた。
『頑張ってとか、応援してますとか、そういう言葉が嫌だったわけじゃない。嬉しかった。本当に嬉しかった。でもあの頃の俺は、何を言われてももっと頑張らなきゃって受け取ってた』
灯は何も言えなかった。
『その中で灯だけが、立ち止まっていいって言ったんだ』
「そんな……」
『分かってる。たぶん灯は、ただ心配してくれただけだと思う』
電話越しに、流司が小さく息を吐く。
『でも、それに救われた』
灯の胸の奥が、静かに揺れた。
『舞台前に緊張した時とか稽古でうまくいかなかった時とか、仕事が増えて嬉しいはずなのに息が浅くなった時とか、何度も思い出した。立ち止まって、息しようって』
「……長谷くん」
『だから、いつかお礼を言いたかった』
流司の声が、少しだけ低くなる。
『10年前のあの日、ありがとう』
その一言が、灯の中に深く落ちた。
自分では、恥ずかしいことを言ってしまったと思っていた。若手俳優に向かって、分かったようなことを言ってしまったと、思い出すたびに少しだけ顔を背けたくなる記憶だった。けれど彼の中では、その言葉が全く違う形で残っていた。
「……そんな、大したこと言ってないです」
『大したことだったよ』
即答だった。
『少なくとも、俺には』
灯は唇を噛んだ。
そんなふうに言われる覚えはない。10年も覚えられるようなことをしたつもりもない。けれど流司の声は冗談ではなく、そこに軽さはなかった。
『その話、ちゃんとしたい』
流司の声が少し柔らかくなる。
『でも、電話だとたぶん長くなるな』
「長くなるんですか」
『なる。俺の中では10年分あるから』
灯は息を呑んだ。
10年分。そんな重さを向けられる覚えはない。けれど流司は、冗談ではない声でそう言った。
『だから今日はまず謝りたかった。先に、それだけはちゃんと言いたかった』
流司は一呼吸置き、静かに続ける。
『ごめん。怖がらせるつもりはなかった。会えて嬉しくて、順番を間違えた』
灯は目を閉じた。
順番を間違えた。
その言い方に、胸の奥が少しほどける。あの出来事をなかったことにするのではなく、軽い冗談で流すのでもなく、彼はちゃんと間違えたと言っている。自分の衝動を、灯のせいにしていない。
「……はい」
灯は小さく返事をした。
「謝ってくれて、ありがとうございます」
『敬語』
「今は敬語でいいじゃないですか」
『だめとは言ってない』
「言ってるようなものです」
『言ってない。ちょっと寂しいだけ』
また、そうやって甘える。
灯は言葉に詰まった。謝罪の空気が少し緩み、流司の声にいつもの甘えた響きが戻ってくる。反省しているはずなのに、すぐ近づいてくる。触れない距離にいるからこそ、その声だけが妙に近い。
『灯』
名前を呼ばれて、背筋が小さく伸びた。
『今日、声聞けて嬉しい』
「……さっきから、そういうことばっかり」
『本当のことだから』
「本当のことでも、言われる方は困ります」
『困ってる灯も可愛い』
「長谷くん」
『ごめん』
謝るのが早い。そのせいで、少しだけ笑ってしまいそうになる。灯は唇を結び、こぼれそうになった笑いを隠した。
電話越しなら顔を見られない。
その安心感が、少しだけ灯を素直にさせた。
「……私も」
言いかけて、心臓が強く鳴った。
流司が黙る。
「私も、声を聞いて少し安心しました」
それが精いっぱいだった。
けれど流司には十分だったらしい。電話の向こうで息を止める気配がした。しばらくして、低く小さな声が返る。
『すごく嬉しい』
灯の胸がまた熱くなる。
沈黙が落ちた。気まずいわけではない。けれど、何かを言えば余計に近づいてしまいそうな沈黙だった。灯はベッドの端から少しだけ体をずらし、枕元に置いていたクッションを抱き寄せる。布の感触が手のひらにあると、少し落ち着いた。
流司の方も、何かをしている気配がした。紙が擦れる音。小さな水音。それから、グラスを置くような硬い音がして、電話の向こうの空気が少しだけ生活の匂いを帯びる。
「……もう帰れたんですか?」
聞いてから、踏み込みすぎただろうかと少しだけ迷った。けれど流司は気にした様子もなく、近くで小さく笑う。
『うん。帰ってきたとこ。明日は朝から稽古』
「忙しいですね」
『忙しい。でも、今日は話したかった』
また胸にまっすぐ入ってくる言い方をする。
灯はクッションを抱く腕に力を込めた。
「長谷くんは、そういうのを普通に言う人なんですか」
『そういうの?』
「会いたかったとか、嬉しいとか」
『誰にでもは言わない』
即答だった。
言った本人も少し気まずくなったのか、電話の向こうで小さく咳払いをする。
『……灯には、言う』
声が少しだけ低くなる。
『言わないと、またどこか行きそうだから』
その言葉に、灯は目を伏せた。
どこか行きそう。自分ではそんなつもりはない。けれど連絡先も登録できず、紙だけを持ち歩いていたのは事実だ。自分から近づく勇気も、完全に離れる勇気もなく、ずっと曖昧な場所にいた。
「どこにも」
行きません、と言いかけて止まった。
言い切れなかった。
流司もそれに気づいたのかもしれない。責めることはせず、ただ静かに待っている。
「……まだ、分からないんです」
『うん』
「長谷くんのことも、自分のことも」
『うん』
「だから、すぐにどうこうは言えないです」
灯がそう言うと、流司は少しだけ息を吐いた。落胆ではなく、受け止めるような呼吸だった。
『分かった』
「すみません」
『謝んないで。ちゃんと考えてくれてるなら、それでいい』
その言葉は、思ったより優しかった。
流司は強引だ。距離感がおかしい。甘えるのも早いし、言葉の温度も近すぎる。けれど、灯が迷っていることを急かそうとはしなかった。登録してほしいと懇願した時でさえ、最後のところでは灯に選ばせた。
怖い人ではない。
そう思った。
少なくとも、灯を困らせて楽しんでいるだけの人ではない。からかっているだけでもない。自分の衝動に振り回されながら、それでも灯の反応を見ようとしてくれている。
だから余計に、困る。
『灯、眠くない?』
ふいに流司が聞いた。
「まだ大丈夫です」
『明日休み?』
「はい」
『じゃあ、夜更かしできる?』
声が少し甘くなる。灯は警戒するようにクッションを抱き直した。
「何時まで話すつもりですか」
『灯が眠くなるまで』
「それ、長くなりませんか」
『俺は嬉しい』
「私は困ります」
『困ってても、切らないでくれる?』
ずるい聞き方だと思った。
切ってもいいように見せかけて、本当は切らないでほしいと言っている。灯が黙ると、流司は少しだけ声を弱めた。
『少しだけでいい。寝るまで、声聞いてたい』
灯の胸が、また変なふうに鳴った。
電話越しだから、彼の顔は見えない。けれど、きっとあの空中庭園で「お願い」と言った時と似た顔をしている気がした。押しているのか引いているのか分からない。無理にとは言わないくせに、全身で望んでいるような声。
「……少しだけなら」
灯は結局、そう答えてしまった。
流司が息を呑む気配がする。
『ほんと?』
「少しだけです」
『うん。少しだけ』
その少しだけ、がどれくらいになるのか灯には分からなかった。
それから二人は、取り留めのない話をした。流司が今日の稽古で殺陣の確認をしたこと。灯が仕事で月末処理に追われていること。ミルクティーが本当に好きなこと。流司が実は甘いものが好きじゃないこと。猫を飼っているという昔のインタビューを灯が覚えていたと言うと、流司は分かりやすく嬉しそうな声を出した。
『覚えてるんだ』
「たまたまです」
『たまたまでも嬉しい』
「……何でも嬉しがりますね」
『灯が俺のこと覚えてたら、だいたい嬉しい』
またそんなことを言う。
灯は返事に困り、クッションの端を指先で撫でた。電話越しに沈黙しても流司は急かさなかった。時々、笑う。時々、甘える。けれど以前のように一方的に距離を詰めてくることはなかった。
そのことに灯は少しずつ安心していった。
時間は思っていたより早く過ぎた。
22時を過ぎた頃、灯は一度小さく欠伸を噛み殺した。音に出したつもりはなかったのに、流司はすぐ気づいた。
『眠い?』
「少し」
『寝よっか』
「じゃあ、切りますね」
そう聞いた途端、電話の向こうが少し静かになった。
『切りたくない』
低い声が、すぐそばに落ちる。
灯の指が止まった。
「でも、寝るなら」
『繋いだままでもいい?』
「え」
『寝るまで。無理なら切る』
今度はちゃんと逃げ道をくれる。その言い方に、灯はまた困った。嫌なら切れる。そう分かっているから、余計に断れない。
ベッドに横になりながら通話を続けるなんて、恋人同士みたいだ。
そう思った瞬間、灯は慌ててその言葉を頭の外へ追い出した。恋人ではない。そういう関係ではない。ただ、少しずつ話しているだけ。そう言い聞かせながらも、スマホを耳に当てたまま布団へ入ってしまう。
「……寝るまでなら」
灯が小さく言うと、流司の声が柔らかくなった。
「うん。ありがとう」
部屋の灯りを少し暗くし、イヤホンに切り替える。布団の中はあたたかく、イヤホン越しの声は低く穏やかだった。流司はもう無理に話題を振らなかった。ただ時々『眠い?』と聞き、灯が「まだ」と答える。そのやり取りだけで、時間がゆっくり流れていく。
「灯」
眠気で輪郭がぼやけ始めた頃、流司が名前を呼んだ。
「はい」
「今日、話せてよかった」
「……私も」
半分眠りかけた声で答えると、流司が静かに息を呑むのが分かった。
「私も、話せてよかったです」
敬語だった。けれど今は、流司もそれをからかわなかった。
「おやすみ、灯」
低い声が布団の中にまで届く。
灯は目を閉じたまま、小さく返す。
「おやすみなさい、長谷くん」
「流司でいいのに」
「……まだ無理です」
「そっか」
少しだけ笑う声がした。その声は悔しそうで、嬉しそうで、やっぱり近かった。
「じゃあ、いつか」
いつか。
その言葉を最後に、灯の意識はゆっくり沈んでいった。
翌朝、灯はスマホを握ったまま目を覚ました。
通話はいつの間にか切れている。画面を見ると、夜中にメッセージが1つ届いていた。
『寝息、可愛かった。おやすみ』
灯は布団の中で固まった。
数秒後、顔に熱が集まっていく。何を聞かれていたのか。どのくらい繋がっていたのか。寝落ちるつもりなんてなかったのに、完全に寝てしまった。慌てて返信画面を開いたものの、何を書けばいいのか分からない。
結局、灯はしばらく迷ってから『おはようございます。昨日のは忘れてください』と送った。
意外とすぐに既読がつく。
返ってきたのは短い二文字だった。
『無理』
その二文字を見て、灯は枕に顔を埋めた。
怖い人ではない。からかっているだけでもない。
けれど、心臓に悪い人だ。
そう思いながらも、画面の中の長谷流司という名前を灯はもう消そうとは思えなくなっていた。
時刻は20時56分。いつもならもう少し気を抜いている時間だった。お風呂も済ませて、髪も乾かして、あとは明日の予定をぼんやり考えながら布団に入るだけ。日曜は基本的に外へ出ないから、土曜の夜は少しだけ気が楽だ。けれど今日は、心臓だけが落ち着かない。
スマホの画面には、長谷流司の名前が表示されている。
数日前から短いメッセージのやり取りは続いていた。
最初に届くのは、いつも流司の方からだった。朝になると『おはよう』とだけ送られてくる。灯が少し迷ってから『おはようございます』と返すと、すぐに『また敬語』と返ってきた。
仕事の合間なのか、『昼食べた?』と短く聞かれた日もある。灯が『食べました』と返すと、『偉い』とだけ返ってきて、画面の前でしばらく固まった。子ども扱いされたようで困るのに、不思議と嫌ではなかった。
どれも恋人同士の甘いやり取りというほどではない。けれどただの知り合いに送るには少し近い。その距離感に戸惑いながら、灯はいつも数分遅れて返事をした。
自分から何かを送る勇気はまだない。けれど、流司からのメッセージを待っていないと言えば嘘になる。
『今夜、少しだけ話せない?』
そうメッセージが届いたのは、夕方だった。
人目を避けて会うことも考えたらしい。けれど流司の仕事終わりが遅く、外で会うには時間も場所も難しい。個室の店を使ったとしても同じ入口から入れば見られる可能性はあるし、彼は誰かに気づかれる立場の人だ。だから今日は通話にしようということになった。
ただの通話。
そう思いたいのに、落ち着かなかった。
灯は画面を伏せ、膝の上で指を組んだ。部屋にはドライヤーを使った後の少しあたたかい空気が残っている。ベッド脇の小さなライトだけをつけたせいで、壁の影がいつもより柔らかく見えた。外からは車の音が遠く聞こえる。部屋着の袖口を握っている自分に気づき、灯は慌てて手を離した。
その瞬間、スマホが震えた。
表示された名前を見ただけで、胸が跳ねる。
――長谷流司。
灯は一度だけ深く息を吸い、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
自分の声が、思ったより小さく出た。
数秒の沈黙のあと、耳元に低い声が届く。
『灯?』
名前を呼ばれただけで、指先が少し熱くなった。文字で見るのとは違う。舞台やインタビューで聞いた声とも違う。スマホ越しなのに、すぐそばで囁かれたみたいに感じる。
「はい。聞こえてます」
『よかった』
流司の声に、ほっとしたような息が混じった。それだけで、彼も少し緊張していたのだと分かる。灯はスマホを耳に当て直し、視線を膝の上に落とした。
「お仕事、おつかれさまです」
『またそれ』
「え?」
『10年ぶりに会ったときも、お疲れ様ですって言ってた』
流司が小さく笑う。灯の頬が熱くなった。あの日、反射で出てしまった言葉。何度思い出しても意味が分からないのに、彼はなぜかそれを楽しそうに覚えている。
「あれは、忘れてください」
『無理。可愛かったから』
「可愛くないです」
『可愛かったよ』
即答されると返す言葉がなくなる。灯が黙ってしまうと、流司は電話の向こうで少しだけ息を吐いた。笑っていた空気が、ふと静かになる。
『ごめん』
唐突に落ちた言葉に、灯は顔を上げた。
「え?」
『あの日のこと』
頭の中で順番に浮かんだ。カフェのチョコレート、指先、エレベーター、空中庭園、頬に触れた唇。灯はスマホを持つ手に力を込める。
『ほんとにごめん。やりすぎた』
流司の声は低かった。いつもの少し悪戯っぽい調子ではなく、言葉の端に迷いがある。
『怖がらせるつもりはなかった。でも、結果的に怖かったなら、本当にごめん』
灯はすぐに返事ができなかった。
謝られるのはこれが初めてではない。空中庭園で連絡先を登録した時にも、流司は一度、あの日のことを謝ってくれた。けれどあの時は名前を呼ばれたことや、10年前の記憶を覚えていると言われたことに気を取られて、ちゃんと受け止めきれなかった。電話越しに改めて言われると、胸の奥に残っていた硬いものが少しだけ形を変える。
「……怖かった、というより」
灯は言葉を探した。嘘は言いたくない。けれど、どう言えばいいのか分からない。
「びっくりしました。すごく」
『うん』
「ありえないことが一気に起きて、何をどう考えたらいいのか分からなくなって」
『うん』
「でも、嫌だったって言い切れるかというと、そうでもなくて」
言ってから、灯は息を止めた。
自分で言ってしまった言葉に驚いた。嫌ではなかった。少なくとも、そういう意味になる。電話の向こうで、流司が一瞬黙った。
『……そっか』
その声が、少しだけ震えているように聞こえた。
『それなら、よかったって言いたいけど』
流司はそこで言葉を切る。耳元に、小さな呼吸音だけが残った。
『でも、やっぱり俺が悪い。灯が嫌って言えない子かもしれないのに、あんなふうに距離詰めた』
灯は瞬きをした。
嫌って言えない子。
その言葉は思ったより深いところに触れた。自分では気づかないふりをしているけれど、確かにそういうところはある。相手の勢いや空気に押されると、拒む前に考えてしまう。今これを言ったら相手はどう思うだろう。嫌な気持ちにさせるだろうか。場を壊すだろうか。そう考えているうちに、自分の本音が分からなくなる。
「そんな、こと」
否定しようとした声は弱かった。
流司は優しく遮る。
『あると思う。だから、これからはちゃんと聞く』
スマホ越しの声なのに、目の前でまっすぐ見られているような気がした。
『触っていいかも、近づいていいかも。灯が嫌って言ったら、止まる』
灯は膝の上の布を握りしめた。
あの日、流司は確かに強引だった。けれど、今こうして自分の反応を気にしてくれている。謝って、聞くと言ってくれている。そのことに、安心している自分がいる。
「長谷くんは」
『うん』
「どうして、そんなに」
そこまで言って、灯は口を閉じた。
どうしてそこまで私に、とは聞けなかった。聞いてしまえば、何かが進んでしまう気がした。流司は灯が飲み込んだ続きを分かっているのか、しばらく黙っていた。
『会えて嬉しかったから』
やがて、低い声が静かに落ちた。
『あの日、灯に会えて本当に嬉しかった』
灯の胸が、ゆっくり熱くなる。
『だから浮かれた。10年分、全部いっぺんに出た。カッコつける余裕もなかったし、ちゃんと順番を考える余裕もなかった』
電話の向こうで、流司が苦く笑う気配がした。
『俺、舞台の上だとだいたい何とかできるんだよ。台詞飛んでも、相手がちょっと間違えても、空気見て動ける。でも灯の前だと、びっくりするくらい駄目』
「駄目、ですか」
『駄目。すぐ触りたくなるし、近づきたくなるし、名前呼びたくなる』
あまりにも正直に言われて、灯はスマホを落としそうになった。慌てて持ち直し、口元を手の甲で隠す。部屋には自分しかいないのに、顔を見られている気がして仕方ない。
「そういうの、普通に言わないでください」
『言わない方がいい?』
「……分かりません」
『じゃあ、少しずつ言う』
「そういう問題でもないです」
流司が笑った。低い笑い声が耳元に触れる。あの日のエレベーターで肩にもたれられた時の、香水の冷たい匂いまで思い出しそうになって、灯は目を伏せた。
『でも、からかってるわけじゃない』
その言葉で、灯の指先が止まる。
『ファンサの延長でもない。そういうんじゃない』
灯が心の中で何度も自分に言い聞かせていたことを、流司は知っているみたいに否定した。
『俺が、灯に会いたかっただけ』
部屋の空気が一段静かになる。
灯はスマホを耳に当てたまま、膝の上を見つめた。言葉を返したいのに、喉の奥が詰まってしまう。嬉しいのか、怖いのか、分からない。ただ胸の奥が、あたたかいものと困ったものに同時に押されている。
「……私、何もしてないです」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
流司は少しだけ黙る。
「何もしてないのに長谷くんがそんなふうに言う理由が、分からないです」
『灯は覚えてなくても、俺は覚えてる』
「10年前のことですか?」
『うん』
10年前。握手会。
灯にとっては恥ずかしい記憶だった。若手俳優に向かって何を言っているのかと、思い返すたび少し顔が熱くなる。けれど流司にとっては違うのだろうか。
『あの日灯が言ってくれたこと、ずっと覚えてた』
灯は息を止めた。
『たまには立ち止まって、ちゃんと息してください』
自分の言葉が、流司の声で返ってくる。
それだけで、遠い昔の握手会の光景が急に近くなった。小さな会場、並んでいた人たちの気配、写真集を受け取った時の紙の重さ。握った手が思ったより冷たくて、思わず顔を上げた瞬間のこと。
『最初はびっくりしただけだった。そんなこと言われたの初めてだったから』
流司の声は、いつもより少し穏やかだった。悪戯っぽさも、甘える響きも薄れている。思い出を手で触れるみたいに、ゆっくり言葉を選んでいた。
『頑張ってとか、応援してますとか、そういう言葉が嫌だったわけじゃない。嬉しかった。本当に嬉しかった。でもあの頃の俺は、何を言われてももっと頑張らなきゃって受け取ってた』
灯は何も言えなかった。
『その中で灯だけが、立ち止まっていいって言ったんだ』
「そんな……」
『分かってる。たぶん灯は、ただ心配してくれただけだと思う』
電話越しに、流司が小さく息を吐く。
『でも、それに救われた』
灯の胸の奥が、静かに揺れた。
『舞台前に緊張した時とか稽古でうまくいかなかった時とか、仕事が増えて嬉しいはずなのに息が浅くなった時とか、何度も思い出した。立ち止まって、息しようって』
「……長谷くん」
『だから、いつかお礼を言いたかった』
流司の声が、少しだけ低くなる。
『10年前のあの日、ありがとう』
その一言が、灯の中に深く落ちた。
自分では、恥ずかしいことを言ってしまったと思っていた。若手俳優に向かって、分かったようなことを言ってしまったと、思い出すたびに少しだけ顔を背けたくなる記憶だった。けれど彼の中では、その言葉が全く違う形で残っていた。
「……そんな、大したこと言ってないです」
『大したことだったよ』
即答だった。
『少なくとも、俺には』
灯は唇を噛んだ。
そんなふうに言われる覚えはない。10年も覚えられるようなことをしたつもりもない。けれど流司の声は冗談ではなく、そこに軽さはなかった。
『その話、ちゃんとしたい』
流司の声が少し柔らかくなる。
『でも、電話だとたぶん長くなるな』
「長くなるんですか」
『なる。俺の中では10年分あるから』
灯は息を呑んだ。
10年分。そんな重さを向けられる覚えはない。けれど流司は、冗談ではない声でそう言った。
『だから今日はまず謝りたかった。先に、それだけはちゃんと言いたかった』
流司は一呼吸置き、静かに続ける。
『ごめん。怖がらせるつもりはなかった。会えて嬉しくて、順番を間違えた』
灯は目を閉じた。
順番を間違えた。
その言い方に、胸の奥が少しほどける。あの出来事をなかったことにするのではなく、軽い冗談で流すのでもなく、彼はちゃんと間違えたと言っている。自分の衝動を、灯のせいにしていない。
「……はい」
灯は小さく返事をした。
「謝ってくれて、ありがとうございます」
『敬語』
「今は敬語でいいじゃないですか」
『だめとは言ってない』
「言ってるようなものです」
『言ってない。ちょっと寂しいだけ』
また、そうやって甘える。
灯は言葉に詰まった。謝罪の空気が少し緩み、流司の声にいつもの甘えた響きが戻ってくる。反省しているはずなのに、すぐ近づいてくる。触れない距離にいるからこそ、その声だけが妙に近い。
『灯』
名前を呼ばれて、背筋が小さく伸びた。
『今日、声聞けて嬉しい』
「……さっきから、そういうことばっかり」
『本当のことだから』
「本当のことでも、言われる方は困ります」
『困ってる灯も可愛い』
「長谷くん」
『ごめん』
謝るのが早い。そのせいで、少しだけ笑ってしまいそうになる。灯は唇を結び、こぼれそうになった笑いを隠した。
電話越しなら顔を見られない。
その安心感が、少しだけ灯を素直にさせた。
「……私も」
言いかけて、心臓が強く鳴った。
流司が黙る。
「私も、声を聞いて少し安心しました」
それが精いっぱいだった。
けれど流司には十分だったらしい。電話の向こうで息を止める気配がした。しばらくして、低く小さな声が返る。
『すごく嬉しい』
灯の胸がまた熱くなる。
沈黙が落ちた。気まずいわけではない。けれど、何かを言えば余計に近づいてしまいそうな沈黙だった。灯はベッドの端から少しだけ体をずらし、枕元に置いていたクッションを抱き寄せる。布の感触が手のひらにあると、少し落ち着いた。
流司の方も、何かをしている気配がした。紙が擦れる音。小さな水音。それから、グラスを置くような硬い音がして、電話の向こうの空気が少しだけ生活の匂いを帯びる。
「……もう帰れたんですか?」
聞いてから、踏み込みすぎただろうかと少しだけ迷った。けれど流司は気にした様子もなく、近くで小さく笑う。
『うん。帰ってきたとこ。明日は朝から稽古』
「忙しいですね」
『忙しい。でも、今日は話したかった』
また胸にまっすぐ入ってくる言い方をする。
灯はクッションを抱く腕に力を込めた。
「長谷くんは、そういうのを普通に言う人なんですか」
『そういうの?』
「会いたかったとか、嬉しいとか」
『誰にでもは言わない』
即答だった。
言った本人も少し気まずくなったのか、電話の向こうで小さく咳払いをする。
『……灯には、言う』
声が少しだけ低くなる。
『言わないと、またどこか行きそうだから』
その言葉に、灯は目を伏せた。
どこか行きそう。自分ではそんなつもりはない。けれど連絡先も登録できず、紙だけを持ち歩いていたのは事実だ。自分から近づく勇気も、完全に離れる勇気もなく、ずっと曖昧な場所にいた。
「どこにも」
行きません、と言いかけて止まった。
言い切れなかった。
流司もそれに気づいたのかもしれない。責めることはせず、ただ静かに待っている。
「……まだ、分からないんです」
『うん』
「長谷くんのことも、自分のことも」
『うん』
「だから、すぐにどうこうは言えないです」
灯がそう言うと、流司は少しだけ息を吐いた。落胆ではなく、受け止めるような呼吸だった。
『分かった』
「すみません」
『謝んないで。ちゃんと考えてくれてるなら、それでいい』
その言葉は、思ったより優しかった。
流司は強引だ。距離感がおかしい。甘えるのも早いし、言葉の温度も近すぎる。けれど、灯が迷っていることを急かそうとはしなかった。登録してほしいと懇願した時でさえ、最後のところでは灯に選ばせた。
怖い人ではない。
そう思った。
少なくとも、灯を困らせて楽しんでいるだけの人ではない。からかっているだけでもない。自分の衝動に振り回されながら、それでも灯の反応を見ようとしてくれている。
だから余計に、困る。
『灯、眠くない?』
ふいに流司が聞いた。
「まだ大丈夫です」
『明日休み?』
「はい」
『じゃあ、夜更かしできる?』
声が少し甘くなる。灯は警戒するようにクッションを抱き直した。
「何時まで話すつもりですか」
『灯が眠くなるまで』
「それ、長くなりませんか」
『俺は嬉しい』
「私は困ります」
『困ってても、切らないでくれる?』
ずるい聞き方だと思った。
切ってもいいように見せかけて、本当は切らないでほしいと言っている。灯が黙ると、流司は少しだけ声を弱めた。
『少しだけでいい。寝るまで、声聞いてたい』
灯の胸が、また変なふうに鳴った。
電話越しだから、彼の顔は見えない。けれど、きっとあの空中庭園で「お願い」と言った時と似た顔をしている気がした。押しているのか引いているのか分からない。無理にとは言わないくせに、全身で望んでいるような声。
「……少しだけなら」
灯は結局、そう答えてしまった。
流司が息を呑む気配がする。
『ほんと?』
「少しだけです」
『うん。少しだけ』
その少しだけ、がどれくらいになるのか灯には分からなかった。
それから二人は、取り留めのない話をした。流司が今日の稽古で殺陣の確認をしたこと。灯が仕事で月末処理に追われていること。ミルクティーが本当に好きなこと。流司が実は甘いものが好きじゃないこと。猫を飼っているという昔のインタビューを灯が覚えていたと言うと、流司は分かりやすく嬉しそうな声を出した。
『覚えてるんだ』
「たまたまです」
『たまたまでも嬉しい』
「……何でも嬉しがりますね」
『灯が俺のこと覚えてたら、だいたい嬉しい』
またそんなことを言う。
灯は返事に困り、クッションの端を指先で撫でた。電話越しに沈黙しても流司は急かさなかった。時々、笑う。時々、甘える。けれど以前のように一方的に距離を詰めてくることはなかった。
そのことに灯は少しずつ安心していった。
時間は思っていたより早く過ぎた。
22時を過ぎた頃、灯は一度小さく欠伸を噛み殺した。音に出したつもりはなかったのに、流司はすぐ気づいた。
『眠い?』
「少し」
『寝よっか』
「じゃあ、切りますね」
そう聞いた途端、電話の向こうが少し静かになった。
『切りたくない』
低い声が、すぐそばに落ちる。
灯の指が止まった。
「でも、寝るなら」
『繋いだままでもいい?』
「え」
『寝るまで。無理なら切る』
今度はちゃんと逃げ道をくれる。その言い方に、灯はまた困った。嫌なら切れる。そう分かっているから、余計に断れない。
ベッドに横になりながら通話を続けるなんて、恋人同士みたいだ。
そう思った瞬間、灯は慌ててその言葉を頭の外へ追い出した。恋人ではない。そういう関係ではない。ただ、少しずつ話しているだけ。そう言い聞かせながらも、スマホを耳に当てたまま布団へ入ってしまう。
「……寝るまでなら」
灯が小さく言うと、流司の声が柔らかくなった。
「うん。ありがとう」
部屋の灯りを少し暗くし、イヤホンに切り替える。布団の中はあたたかく、イヤホン越しの声は低く穏やかだった。流司はもう無理に話題を振らなかった。ただ時々『眠い?』と聞き、灯が「まだ」と答える。そのやり取りだけで、時間がゆっくり流れていく。
「灯」
眠気で輪郭がぼやけ始めた頃、流司が名前を呼んだ。
「はい」
「今日、話せてよかった」
「……私も」
半分眠りかけた声で答えると、流司が静かに息を呑むのが分かった。
「私も、話せてよかったです」
敬語だった。けれど今は、流司もそれをからかわなかった。
「おやすみ、灯」
低い声が布団の中にまで届く。
灯は目を閉じたまま、小さく返す。
「おやすみなさい、長谷くん」
「流司でいいのに」
「……まだ無理です」
「そっか」
少しだけ笑う声がした。その声は悔しそうで、嬉しそうで、やっぱり近かった。
「じゃあ、いつか」
いつか。
その言葉を最後に、灯の意識はゆっくり沈んでいった。
翌朝、灯はスマホを握ったまま目を覚ました。
通話はいつの間にか切れている。画面を見ると、夜中にメッセージが1つ届いていた。
『寝息、可愛かった。おやすみ』
灯は布団の中で固まった。
数秒後、顔に熱が集まっていく。何を聞かれていたのか。どのくらい繋がっていたのか。寝落ちるつもりなんてなかったのに、完全に寝てしまった。慌てて返信画面を開いたものの、何を書けばいいのか分からない。
結局、灯はしばらく迷ってから『おはようございます。昨日のは忘れてください』と送った。
意外とすぐに既読がつく。
返ってきたのは短い二文字だった。
『無理』
その二文字を見て、灯は枕に顔を埋めた。
怖い人ではない。からかっているだけでもない。
けれど、心臓に悪い人だ。
そう思いながらも、画面の中の長谷流司という名前を灯はもう消そうとは思えなくなっていた。