硝子の鍵

Key·17 隣りにいるのに…

翌朝、目が覚めた時、私は最初にスマホを見た。

画面には、昨夜のメッセージが残っている。

電話してくれて、ありがとうございました。

たった一文。

それなのに、何度読んでも胸の奥が少しだけ温かくなる。

昨日の夜、私は初めて利月くんに電話をした。

父の体調が悪くなって、実家に行って、社長でも母でも娘でもある自分が、全部いっぺんに重くなった夜。

利月くんは、完璧なことは言わなかった。

すぐ行きますとも言わなかった。
大丈夫ですよとも、簡単には言わなかった。

でも、電話に出てくれた。

起きています、と言ってくれた。

それだけで、私は少しだけ息ができた。

「お母さん、今日も母親濃度高い?」

玄関で陽斗が靴を履きながら聞いてきた。

「今日は普通濃度」

「何パー?」

「六十五パー」

「高めじゃん」

「最近キャンペーン中だから」

陽斗は笑いながら鞄を背負った。

「今日、佐伯先生にプリント出さなきゃ」

「忘れないでね」

「言われなくても覚えてる」

「昨日もそう言ってたよ」

「それは昨日の俺」

どこかで聞いた言い回しに、私は笑ってしまった。

「佐伯先生みたい」

「やめて。うつった」

「いい先生じゃん」

「うるさいけどね」

陽斗はそう言いながら、少しだけ嬉しそうだった。

「登坂先生には?」

聞いてから、自分でまた聞いてしまったと思った。

陽斗はちらりと私を見る。

「お母さん、登坂先生のこと好きなの?」

心臓が止まるかと思った。

「え?」

声が裏返りそうになる。

陽斗は、からかうでもなく、ただ不思議そうに私を見ていた。

「最近よく聞くから」

「先生としてね。参観日で会ったから、気になって」

苦しい。

あまりにも苦しい言い訳だ。

でも陽斗は、ふうん、と言っただけだった。

「登坂先生、今日も図書室いると思うよ」

「そうなんだ」

「うん。星座の本、まだ途中」

「そっか」

陽斗はドアを開けた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

ドアが閉まったあと、私はしばらく動けなかった。

子どもは、気づく。

大人が隠したつもりでいるものの輪郭に、何気ない顔で触れてくる。

好きなの?

陽斗の声が、胸の中に残る。

好き。

その言葉を、私は昨夜、電話越しに利月くんに言ってしまった。

そういうところが好きです、と。

軽い逃げ道を残した言い方だったけれど、それでも好きという言葉は外に出た。

利月くんは、すぐに同じ言葉を返さなかった。

でも、それでよかった。

たぶん、よかった。

会社に着くと、音葉がいつものように予定を確認していた。

「本日、夕方に学校の先生方との地域教育関連の打ち合わせがあります」

「え?」

私は思わず顔を上げた。

「聞いてない」

「先週お伝えしました」

「私の脳みそ、今週いろいろありすぎて書類が迷子」

「でしょうね」

音葉は淡々とタブレットを見た。

「参加者に、佐伯先生と登坂先生が入っています」

その瞬間、胸が大きく鳴った。

「二人とも?」

「はい」

「会社に来るの?」

「会場は教育支援センターです。社長は協賛企業側として出席です」

そうだった。

会社として、地域の教育活動を支援する話が進んでいた。
父の代から続く社会貢献の一部。

以前の私なら、仕事として普通に出席していたはずだ。

でも今は違う。

尚さんは、陽斗の担任で、私の嘘を最初に知った人。
利月くんは、私が好きになってしまった人で、私の本当を知って、それでも逃げていないと言ってくれた人。

その二人に、社長として会う。

胃の奥が、きゅっと縮んだ。

「無理なら、代理を立てますか」

音葉が聞いた。

私は少し考えて、首を横に振った。

「行く」

「大丈夫ですか」

「大丈夫じゃないけど、行く」

言ってから、自分で少し驚いた。

大丈夫じゃないけど。

最近の私は、その言葉を少しずつ言えるようになっている。

夕方、教育支援センターの会議室には、地域の学校関係者と企業の担当者が集まっていた。

私は会社の代表として、いつもの顔で挨拶をした。

「本日はよろしくお願いいたします」

社長としての声。

資料を受け取り、名刺を交換し、席につく。

その流れは慣れている。

慣れているはずなのに、利月くんが会議室に入ってきた瞬間、私は資料の文字が読めなくなった。

黒いスーツ。

学校で見る先生の顔とも、東京タワーの下で見る顔とも違う。

少し緊張しているように見えた。

尚さんは、その隣でいつものように自然な表情をしている。

私と目が合うと、小さく会釈した。

利月くんも、少し遅れて私を見る。

目が合った。

ほんの一瞬。

私はすぐに視線を逸らしてしまった。

だめだ。

見られない。

昨夜、電話であんなに話したのに。

「電話してくれてありがとうございました」と言ってくれたのに。

目の前にいると、やっぱり目が見られない。

隣にいるだけで、胸が忙しくなる。

見たら、好きだと全部出てしまいそうだった。

会議は淡々と進んだ。

地域の子どもたち向けの読書支援。
放課後の居場所づくり。
企業協賛による教材購入。

私は資料を見ながら、必要なところで意見を述べた。

「図書室の本を増やすなら、子どもたちが自分で選べる仕組みもあった方がいいと思います」

そう言うと、利月くんが顔を上げた。

視線を感じる。

でも、私は資料を見たまま続けた。

「大人が必要だと思う本と、子どもが手を伸ばす本は違うので」

その言葉を聞いて、利月くんが少しだけ頷いたのが分かった。

尚さんが隣から言う。

「それ、すごく分かります。うちの五年も、こっちが読ませたい本より、意外な本持ってきますからね」

会議室に少し笑いが起きた。

尚さんは、場をやわらげるのがうまい。

私はその空気に助けられるように、尚さんの方を見た。

「陽斗も、そうですか」

言ってから、しまったと思った。

会議の場で、息子の名前を出してしまった。

でも尚さんは自然に笑った。

「陽斗は、最近ずっと宇宙です。月、星座、東京タワー」

「東京タワーは宇宙ですか」

「本人の中ではたぶん繋がってます」

尚さんの軽い返しに、また少し笑いが起きる。

私は、ほっとしてしまった。

尚さんの方は見られる。

普通に話せる。

でも、隣にいる利月くんの方は見られない。

そのことに自分で気づいて、胸が痛んだ。

違う。

尚さんがいいわけじゃない。

尚さんは、話しやすい。
逃げ込める。
言葉が怖くない。

でも利月くんは、違う。

目を見るだけで、胸の奥の隠していたものが光ってしまう。

だから私は、また尚さんに逃げている。

会議が終わり、参加者たちがそれぞれ席を立った。

私は資料をまとめながら、深く息を吐いた。

「社長」

尚さんが近づいてきた。

その呼び方に、少しだけ現実に戻される。

「お疲れさまでした」

「お疲れさまです」

尚さんはいつもの調子で笑った。

「今日、ちゃんと社長でしたね」

「普段は?」

「普段も社長ですけど、今日は名刺が強かったです」

「何それ」

私は思わず笑った。

こういう会話は楽だ。

笑えばいい。
返せばいい。

尚さんは、私が笑いやすい場所を作ってくれる。

「陽斗、今日はちゃんとプリント出しましたよ」

「本当ですか」

「奇跡です」

「本人に言ってあげてください」

「言いました。褒めたら調子に乗ってました」

「目に浮かびます」

笑いながら話していると、少し離れた場所で利月くんがこちらを見ているのに気づいた。

胸が跳ねる。

でも、また視線を逸らしてしまった。

尚さんは、それを見逃さなかった。

「灯理さん」

小さな声で呼ばれる。

「はい」

「逃げてますね」

「……何から」

「登坂から」

心臓が、嫌な音を立てた。

「逃げてません」

「逃げてます」

尚さんははっきり言った。

「俺に話しかけるの、楽なのは分かりますけど」

「そんなこと」

「ありますよね」

言い返せなかった。

尚さんは、意地悪く笑うわけでもなく、ただ少し困ったように私を見る。

「登坂、あれでけっこう気にしてますよ」

「何を?」

「灯理さんが俺とは普通に話すのに、自分とは目を合わせないこと」

息が止まった。

「え……」

「たぶん、あいつは言いません。言わないで一人で考えます」

尚さんは少しだけ肩をすくめた。

「それで勝手に、灯理さんは俺といる方が楽なんだろうなって思います」

違う。

すぐに心の中で叫んだ。

違うのに。

楽なのは、そうかもしれない。

でも好きだから話せない人と、楽だから話せる人は、全然違う。

「違います」

小さく声が出た。

尚さんは、少しだけ笑った。

「俺に言ってどうするんですか」

その通りだった。

言う相手が違う。

私は資料を胸に抱えたまま、利月くんの方を見た。

彼は他の先生と短く話していた。
けれど、どこか静かで、少し遠い。

東京タワーの下では、あんなに近くに立ってくれたのに。

ここではまた、先生と社長の距離に戻ってしまう。

私がそうしている。

私が、目を逸らしている。

「行ってください」

尚さんが言った。

「今?」

「今じゃないと、また逃げます」

「佐伯さん、厳しい」

「担任なので」

「私の担任じゃないです」

「知ってます」

そのやり取りに少しだけ笑えた。

でも足は重かった。

私は利月くんの方へ歩いた。

近づくたびに、胸がうるさくなる。

利月くんが私に気づいた。

「灯理さん」

名前を呼ばれる。

その声だけで、目を逸らしたくなる。

でも、今日は逃げない。

少しだけ顔を上げた。

目が合う。

たったそれだけで、息が詰まった。

「お疲れさまでした」

私が言うと、利月くんは頷いた。

「お疲れさまでした」

会話が止まる。

何を言えばいいのか分からない。

昨夜は電話で話せた。

好きだと言ってしまった。
声を聞けて落ち着いたと言った。

なのに、目の前にいると何も出てこない。

「今日の話」

利月くんが先に言った。

「よかったです」

「え?」

「子どもが自分で本を選べる仕組み」

「ああ」

私は少しだけほっとした。

仕事の話なら、話せる。

「昔、学校で働いていた時に思っていたんです。大人が読ませたい本だけじゃなくて、子どもが自分で見つける本も大事だなって」

利月くんは静かに聞いていた。

「陽斗も、そういうタイプですしね」

「はい」

利月くんの声が少しやわらかくなる。

「星座の本、楽しそうに借りていきました」

「ありがとうございます。いつも見てくれて」

言ってから、胸が少し熱くなった。

利月くんは、少しだけ視線を落とした。

「見すぎないようにします」

その言い方が真面目すぎて、私は思わず笑ってしまった。

「そこ、そんなに反省してるんですか」

「はい」

「陽斗、嫌がってないですよ」

「でも、変だと思われたみたいなので」

「ちょっとだけ」

利月くんが本気で困った顔をした。

その顔を見て、少しだけ力が抜ける。

やっぱり、この人は不器用だ。

でも、その不器用さが好きなのだと思う。

私は勇気を出して、言った。

「今日、私が佐伯さんとばかり話していたの」

利月くんの表情が、少しだけ止まる。

「はい」

「違うんです」

言葉が足りない。

でも、言わなきゃ。

「佐伯さんの方がいいとか、話したいとか、そういう意味じゃなくて」

胸が苦しい。

目を見て話せない。

でも、逸らしたら伝わらない。

私は震えそうになる視線を、なんとか利月くんに戻した。

「登坂さんの方が、緊張するんです」

言った瞬間、顔が熱くなった。

利月くんは何も言わなかった。

私は慌てて続ける。

「隣にいるだけで精一杯で。目を見て話すと、何か全部ばれそうで」

声が小さくなる。

「だから、楽に話せる佐伯さんの方を向いてしまっただけです」

これで伝わるのだろうか。

言えば言うほど、恥ずかしい。

大人なのに。
社長なのに。
陽斗の母なのに。

こんな中学生みたいなことを、私は会議室の隅で言っている。

利月くんは、しばらく私を見ていた。

そして、小さく息を吐いた。

「そうだったんですね」

「はい」

「俺は」

彼は少しだけ視線を逸らした。

「灯理さんは、佐伯と話している方が楽しそうだと思っていました」

胸が痛んだ。

やっぱり。

「違います」

私はすぐに言った。

「楽なんです。楽しいんじゃなくて、楽」

「楽」

「はい」

「俺は、楽じゃないんですか」

その質問が、あまりにまっすぐで、私は一瞬固まった。

「楽じゃないです」

正直に言うと、利月くんが少しだけ目を見開いた。

「すみません」

「違う、悪い意味じゃなくて」

私は慌てた。

「楽じゃないけど、嫌じゃないです。むしろ……」

むしろ。

好きだから。

そこまで言いそうになって、止まる。

でも、もう一度だけ勇気を出した。

「むしろ、近くにいると嬉しすぎて、困ります」

言ってしまった。

顔が熱い。

資料で隠したい。

いや、もう隠せない。

利月くんは、しばらく黙っていた。

それから、少しだけ困ったように笑った。

「灯理さん」

「はい」

「そういうことを、急に言うのは」

「ずるいですか」

「はい」

私は、少しだけ笑った。

「知ってます」

利月くんも、ほんの少し笑った。

その笑顔を見た瞬間、胸の奥の張りつめていたものがほどける。

目はまだ、長くは見られない。

でも、一瞬なら見られた。

その一瞬だけで、今日は十分だった。

帰り際、尚さんが遠くからこちらを見て、親指を立てた。

私は慌てて目で怒った。

尚さんは笑っていた。

利月くんは、その様子を見て少しだけ首を傾げる。

「佐伯、何かしました?」

「何もしてません」

「してますね」

「してません」

利月くんが、少しだけ笑った。

その笑い方に、もう嫉妬や不安は見えなかった。

たぶん、少しだけ伝わったのだと思う。

私は帰りの車で、東京タワーを見た。

夜の光が、遠くに浮かんでいる。

隣にいるのに話せない人。

目を見るだけで胸がいっぱいになる人。

でも今日は、そのことを少しだけ伝えられた。

硝子の鍵は、またひとつ増えた。

今度の鍵は、隣にいるのに震えるほど近い、
そんな距離の形をしていた。
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