硝子の鍵

Key·18 今のわたしを見ていた

会議室を出たあとも、胸の奥がずっと熱かった。

登坂さんの方が、緊張するんです。
隣にいるだけで精一杯で。
目を見て話すと、何か全部ばれそうで。

言ってしまった。

社長として出席した地域教育の打ち合わせで、
教育支援センターの廊下の隅で、
私はまるで子どもみたいなことを利月くんに言ってしまった。

恥ずかしい。

思い出すだけで、顔が熱くなる。

でも、不思議と後悔はしていなかった。

ずっと誤解されたくなかった。

私が尚さんと話すのは、尚さんの方がいいからじゃない。
尚さんは話しやすい。
返事が怖くない。
言葉の受け皿が広くて、転んでも笑ってくれる気がする。

でも利月くんは違う。

目を見るだけで、心の奥にしまっていたものが全部光ってしまう。

だから逃げていた。

一番話したい人の隣にいるのに、
一番見たい人の目を見られなかった。

そのことを、やっと言えた。

会社に戻る車の中で、音葉が隣から私を見た。

「言えました?」

「何を」

「登坂先生に」

「……少し」

「目を見られない件ですか」

私は思わず音葉を見た。

「なんで知ってるの」

「顔に書いてあります」

「もうその顔システム怖い」

音葉は少しだけ笑った。

「登坂先生、どうでした?」

「困ってた」

「でしょうね」

「でも、笑ってた」

そう言うと、音葉は静かに頷いた。

「なら、伝わったんだと思います」

伝わった。

本当にそうならいい。

利月くんは、言葉をすぐに返す人ではない。

その場で完璧に安心させてくれるわけでもない。
でも、受け取った言葉をどこかに置きっぱなしにはしない人だ。

あとから、少し遅れて、ちゃんと考えた言葉をくれる。

私はそれを少しずつ覚え始めていた。

会社に戻ると、現実はすぐに私を社長の椅子へ座らせた。

確認する書類。
決裁の印鑑。
取引先からの電話。
社員の相談。

さっきまでの私は、目を見られない恋をしている女だった。

でも今は、社長の顔で話している。

不思議だ。

人はひとつの顔だけで生きていない。

社長の私。
母の私。
娘の私。
恋をしている私。
教室を離れたまま、まだ少し泣いている私。

全部が私なのに、私はずっと、どれかひとつだけを本当だと思ってほしかった。

利月くんの前では、ただの灯理でいたかった。

でも、もうそれだけでは立てない。

それを彼に知られてしまった。

怖い。

でも、少しだけ楽だった。

夜、家に帰ると、陽斗がリビングで東京タワーの写真集を広げていた。

「ただいま」

「おかえり」

陽斗は顔を上げる。

「お母さん、これ見て」

テーブルの上には、夜の東京タワーの写真があった。

赤い光。
暗い空。
足元に広がる小さな街の灯り。

私は息を止めた。

「綺麗だね」

「お母さん、東京タワー好きでしょ」

「うん」

「なんで?」

その質問に、すぐには答えられなかった。

なんで。

子どもの頃、美紗子先生が教えてくれたから。
高いものも、足元から立っていると知ったから。
眠れない夜に、あの光を見ると少し息ができるから。
利月くんと、何度もそこで会ったから。

理由はいくつもある。

でも、陽斗に全部は言えない。

「そこにあると、安心するからかな」

私が答えると、陽斗は少し考えた。

「ふうん。山みたいな感じ?」

「山?」

「遠くにあって、いつも見えるやつ」

「それ、ちょっと分かる」

陽斗はページをめくった。

「登坂先生も好きって言ってた」

胸が、小さく鳴った。

「東京タワーを?」

「うん。下から見るのがいいって」

私は黙った。

陽斗は何も知らずに続ける。

「お母さんも、下から見たことある?」

「あるよ」

「上った?」

「昔、一度だけ」

「どっちが好き?」

私は窓の外を見た。

遠くに東京タワーが見える。

高い部屋から見る光。

でも、私が本当に息をしやすいのは、きっとあの足元だった。

「下からかな」

陽斗は得意げに笑った。

「登坂先生と一緒じゃん」

その言葉に、私は思わず目を伏せた。

一緒。

その響きだけで、胸が忙しくなる。

「お母さん、顔赤い?」

「赤くない」

「赤い」

「照明」

「便利だね、照明」

陽斗は笑った。

子どもは、本当に油断ならない。

夕食のあと、陽斗が宿題をしている間に、スマホが震えた。

利月くんからだった。

今日、話してくれてありがとうございました。

私は画面を見つめた。

短い。

でも、それだけで胸が揺れる。

こちらこそ、変なことを言ってすみません。

送ると、少し間が空いた。

変ではなかったです。

その一文に、私は少しだけ息を吐いた。

続けて、もう一通。

ただ、少し驚きました。

やっぱり。

私は苦笑して返す。

ですよね。

今度はすぐに既読がついた。

でも返事は、少し遅かった。

その間、私はまたスマホを見つめてしまう。

早く返してほしい。

でも、軽く返してほしくない。

どちらも本音で、自分でも面倒だと思う。

ようやく届いたメッセージは、利月くんらしく、少し不器用だった。

俺は、灯理さんが佐伯と話している方が自然に見えていました。
だから、そういうことなのかと思っていました。

胸が痛んだ。

やっぱり、そう見えていた。

私はすぐに返信した。

違います。
尚さんは話しやすいだけです。

送ってから、少し考える。

そして、もう一文足した。

登坂さんは、話す前に緊張します。

既読。

しばらく沈黙。

私はスマホを握ったまま、呼吸を浅くした。

返ってきたのは、短い文章だった。

それは、悪いことですか。

私は少し驚いた。

悪いこと。

考えたことがなかった。

緊張することは、怖いことだと思っていた。
うまく話せないことは、失敗だと思っていた。

でも、悪いことなのだろうか。

私はゆっくり文字を打った。

悪いことではないと思います。
でも、うまくできない自分が恥ずかしいです。

送信。

すぐに既読がついた。

そしてまた、少し待った。

利月くんは、たぶん考えている。

そう思うと、待つ時間が少しだけ怖くなくなる。

俺も、うまくできていません。

その一文に、胸が止まった。

返事も遅いですし、安心させる言葉もあまり出てきません。
でも、灯理さんを困らせたいわけではないです。

涙が出そうになった。

分かっている。

分かっているけれど、本人の口から言われると、心の中のほどけていない糸が少し緩む。

分かっています。
困らせたい人じゃないって、分かってます。

私はそう返した。

少し迷ってから、もう一文。

でも、たまにヤキモキします。

既読がついて、しばらくしてから返事が来た。

すみません。

また謝る。

私は笑ってしまった。

そこは謝るところじゃないです。

難しいです。

このやり取りに、私は少し救われる。

完璧じゃない会話。

でも、続いている会話。

それが嬉しかった。

その時、陽斗がテーブルの向こうから顔を上げた。

「お母さん、にやにやしてる」

「してない」

「してる」

「漢字やって」

「ごまかした」

私はスマホを伏せて、陽斗のノートを見る。

「ここ、書き順違う」

「細かい」

「登坂先生みたい?」

「お母さん、今ちょっと嬉しそうに言った」

「言ってない」

陽斗はじっと私を見た。

「やっぱりお母さん、登坂先生好きなの?」

心臓が跳ねる。

「先生として」

「ふうん」

陽斗はそれ以上言わなかった。

でも、その目は少しだけ何かを考えているように見えた。

子どもは、知らないふりをすることもある。

私はそれを知っている。

宿題が終わり、陽斗が寝室へ行ったあと、私はもう一度スマホを開いた。

利月くんから、メッセージが届いていた。

陽斗に、今日東京タワーの話をされました。

私は少し笑った。

家でも写真集を見ていました。

そうですか。

少し間が空く。

陽斗が、「お母さんも下から見る方が好きだって」と言っていました。

私は画面を見つめた。

陽斗。

言ったんだ。

利月くんと、私の話を。

知らないまま、私たちの間に小さな橋をかけている。

そう言いました。

私が返すと、利月くんからすぐに返事が来た。

俺も、下から見る方が好きです。

知っている。

それはもう、何度も聞いた。

でも今日は、その一文が少し違って見えた。

同じものを、同じ角度から見ている。

それだけで、心が少し近づく。

さらにもう一通、届いた。

灯理さんは、上から見る東京タワーも似合いそうですけど。

私は首を傾げた。

どういう意味ですか?

少し間が空いた。

すみません。
うまく言えません。

利月くんらしい。

私は待った。

今度は、画面を急かさずに。

数分後、返事が来た。

社長として、高い場所からいろいろ見ている灯理さんも、たぶん灯理さんなので。
でも、東京タワーの下で少し困った顔をしている灯理さんも、同じ人だと思います。

胸が、静かに震えた。

社長の私。

東京タワーの下で、ただの灯理になりたかった私。

その両方を、同じ人だと言ってくれた。

どちらも、今の灯理さんなので。

その一文で、私は息ができなくなった。

今の灯理。

若く見える私ではなく。
嘘をつく前の私でもなく。
教室を離れる前の私でもなく。

今の私。

社長で、母で、年上で、嘘をついてしまって、でも向き合おうとしている私。

その私を、利月くんは見ようとしてくれている。

涙がこぼれた。

私は震える指で返信した。

そう言われると、泣きます。

既読。

すぐに返事が来た。

すみません。

また謝る。

私は泣きながら笑った。

だから、謝るところじゃないです。

少しして、返事。

本当に難しいです。

私はスマホを胸に当てた。

利月くんは、安心させるのが上手な人ではない。

欲しい言葉を、欲しい瞬間にくれる人でもない。

でも時々、何気なく、私の一番深いところを肯定する。

それが嬉しくて、苦しい。

私はまだ、自分の全部を好きにはなれない。

でも、今の私を見てくれる人がいる。

そのことが、夜の中で小さな灯りになった。

窓の外で、東京タワーが光っている。

私はその光を見ながら、ゆっくり息を吐いた。

硝子の鍵は、またひとつ増えた。

今度の鍵は、今の私を見ていた。

若くも、軽くも、綺麗なだけでもない。

たくさんの嘘と本当を抱えた、
今ここにいる私の形をしていた。
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