硝子の鍵
Key·19 手を伸ばす夜
どちらも、今の灯理さんなので。
その一文を、私は何度も読み返した。
社長の私も。
東京タワーの下で、少し困った顔をしている私も。
陽斗の母である私も。
教室を離れたまま、まだどこかで泣いている私も。
どれかひとつだけを選ばなくていい。
利月くんは、そう言ってくれた。
本人は、きっとそんな大きなことを言ったつもりはないのだと思う。
ただ、考えて、言葉を探して、ようやく置いてくれただけ。
でも私は、その言葉に救われてしまった。
救われたくせに、また欲張りになる。
もっと会いたい。
もっと話したい。
もっと、私を見てほしい。
人の心は厄介だ。
鍵をひとつ開けても、次の扉がすぐ見える。
その夜、私は陽斗が寝たあとも、リビングで東京タワーを見ていた。
写真集は、テーブルの上に置かれている。
陽斗が開いたままにしていたページには、夜の東京タワーが写っていた。
下から見上げた赤い塔。
私はその写真の端を指でなぞった。
行きたい。
そう思った。
眠れない夜じゃなくても。
泣きたい夜じゃなくても。
言い訳がなくても。
ただ、利月くんに会いたかった。
スマホを手に取る。
メッセージ画面を開いて、閉じる。
また開く。
こんなことを何度繰り返せば気が済むのだろう。
私は深呼吸して、文字を打った。
今夜、東京タワーに行きます。
そこまで打って、指が止まる。
誘っているみたい。
いや、誘っている。
私は消そうとして、やめた。
逃げないと決めた。
だったら、会いたい時に会いたいとまでは言えなくても、行くことくらいは言ってもいい。
少し迷って、もう一文足した。
もし起きていて、無理じゃなければ。
弱い。
逃げ道だらけの誘い。
でも、今の私にはこれが精一杯だった。
送信する。
すぐに既読はつかなかった。
私はスマホを伏せた。
見ない。
見ないと決めたのに、三十秒後には見ていた。
まだ未読。
「もう」
自分に呆れて、ソファに背中を預ける。
陽斗の寝息が、寝室の方からかすかに聞こえる気がした。
私は立ち上がり、そっと寝室をのぞいた。
陽斗は布団を半分蹴って寝ていた。
「寒いよ」
小さく言って、布団をかけ直す。
その寝顔を見たら、少しだけ胸が静かになった。
私はこの子の母だ。
どこへ行くにも、この事実を置いてはいけない。
リビングに戻ると、スマホが光っていた。
利月くんから。
行きます。
それだけだった。
たった三文字。
でも、胸の奥で何かが鳴った。
行きます。
考えるより先に、指が震えた。
無理しないでください。
送ると、すぐに返事が来た。
無理ではないです。
短い。
でも、まっすぐだった。
私はコートを羽織った。
音葉にはメッセージを入れた。
少しだけ東京タワー行ってくる。陽斗は寝てる。
すぐ返事が来た。
分かりました。
逃げ道ではなく、会いに行くならいいと思います。
気をつけて。
音葉は、時々ひどいくらい分かっている。
私は小さく笑って、部屋を出た。
夜の東京タワーの下は、いつもより人が少なかった。
風が冷たい。
でも、今日はあまり怖くなかった。
私はいつもの場所に立った。
足元から見上げる東京タワー。
高い。
でも、ちゃんと下から立っている。
美紗子先生の声が、胸の奥で静かに響く。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
私は足元を見た。
ヒールの先。
街灯に照らされた舗道。
少し震える自分の手。
ちゃんと立っている。
まだ不安でも。
まだ怖くても。
私はここに立っている。
「灯理さん」
声がした。
振り返ると、利月くんがいた。
黒いコート。
少し乱れた髪。
急いで来たのか、息がほんの少しだけ白い。
「こんばんは」
私が言うと、利月くんは頷いた。
「こんばんは」
それだけで、胸がいっぱいになる。
「来てくれて、ありがとうございます」
「灯理さんが行くって言ったので」
「それだけで?」
「はい」
あまりにも普通に言うから、私は少し困った。
「それだけで来るんですか」
利月くんは、少し考えた。
「それだけ、ではないです」
「え?」
彼は東京タワーを見上げた。
「俺も、会いたかったので」
心臓が、変な音を立てた。
今、何て。
聞き返したかった。
でも、聞き返したら消えてしまいそうだった。
私は慌てて視線を東京タワーに向けた。
「そういうこと、急に言わないでください」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「難しいです」
いつものやり取り。
でも今夜は、その奥にほんの少し熱がある。
私は手をコートのポケットに入れた。
指先が冷えている。
「今日は、何かあったんですか」
利月くんが聞いた。
「何かがあったわけじゃないです」
「はい」
「ただ」
私は言葉を探した。
ただ、会いたかった。
そのまま言うには、まだ勇気が足りない。
でも、今夜は逃げたくない。
「今の私を見てくれたのが、嬉しかったんです」
利月くんは黙って聞いていた。
「でも、嬉しかったら、もっと会いたくなりました」
言ってしまった。
顔が熱い。
東京タワーの赤い光のせいにしたい。
利月くんは、何も言わない。
沈黙。
でも、その沈黙は前ほど怖くなかった。
利月くんは、逃げるために黙っているわけではない。
言葉を探している。
そう思えるようになっていた。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、まだうまく言えないことが多いです」
「知っています」
利月くんが少しだけ困った顔をした。
「そこ、すぐ言いますね」
「事実なので」
「音葉さんみたいです」
「それはちょっと嫌です」
彼が小さく笑った。
その笑顔を見て、私はやっと少しだけ息をした。
「でも」
利月くんが続けた。
「会いたいと言われたら、会いに来たいとは思います」
胸が、また鳴る。
「言ってないです」
「言ってませんでした?」
「もっと会いたくなった、とは言いました」
「それは、会いたいとは違うんですか」
真面目に聞いてくる。
私は負けた。
「……同じです」
利月くんは、少しだけ頷いた。
「じゃあ、来てよかったです」
その言葉が、まっすぐ胸に落ちる。
私は東京タワーを見上げた。
泣きそうだった。
最近の私は、すぐ泣きそうになる。
でも、それは弱くなったからではないのかもしれない。
今までしまっていたものが、少しずつ外に出てきているだけなのかもしれない。
「登坂さん」
「はい」
「私、まだ怖いです」
「はい」
「年齢も、陽斗のことも、社長のことも。あなたが知って、それでもここに来てくれてるのが嬉しいけど、いつかやっぱり無理だって言われるのが怖い」
利月くんは、すぐには答えなかった。
冷たい風が、私たちの間を通る。
「無理なことは、あると思います」
その答えに、胸が少し沈む。
でも、利月くんは続けた。
「でも、それは灯理さんが無理という意味じゃないです」
私は彼を見た。
「学校のこと。陽斗のこと。立場のこと。考えなきゃいけないことは、たぶんあります」
「はい」
「そこを何も考えずに、ただ好きですと言ったら、たぶん無責任です」
好き。
その言葉が彼の口から出た瞬間、胸が跳ねた。
でも彼は、告白として言ったわけではない。
それでも、その言葉は私の中で光った。
「だから俺は、考えます」
利月くんは言った。
「でも、考えることと、離れることは同じじゃないです」
涙がこぼれそうになった。
「それ、ちゃんと言ってくれるんですね」
「尚に言われました」
「尚さんに?」
「言葉が少ないって」
思わず笑ってしまった。
「言いそう」
「はい。腹が立つくらい正しかったです」
「佐伯さんは、そういうところあります」
「灯理さんも、そう思いますか」
「はい」
少しだけ二人で笑った。
尚さんの名前が出ても、今夜は変な痛みがなかった。
利月くんが、少しだけこちらを見る。
「灯理さん」
「はい」
「佐伯と話している時の灯理さんは、楽しそうです」
胸が一瞬ぎゅっとなる。
でも、逃げずに聞いた。
「はい」
「でも、今日話してくれたので、少し分かりました」
「何が?」
「俺とは、楽じゃないんですよね」
私は困って笑った。
「そこだけ言うと、すごく嫌な感じです」
「違いますか」
「違わないです」
「じゃあ」
「楽じゃないけど」
私は彼を見た。
今度は、逸らさなかった。
ほんの数秒。
それでも、私にとっては大きな数秒だった。
「会いたいのは、登坂さんです」
言った。
今度は、はっきりと。
利月くんの目が、静かに揺れた。
沈黙。
東京タワーの光が、彼の横顔に落ちる。
私は心臓の音が聞こえそうだった。
言いすぎた。
でも、もう戻せない。
「灯理さん」
「はい」
「俺も」
そこで、彼は言葉を止めた。
胸が止まりそうになる。
言って。
言ってほしい。
でも、急かしたくない。
利月くんは、視線を少し落とした。
「俺も、会いたいと思って来ました」
好き、ではなかった。
でも、今の彼にとっては、きっと精一杯だった。
私はゆっくり頷いた。
「はい」
それだけで十分。
十分だと思いたい。
その時、冷たい風が強く吹いた。
思わず肩をすくめる。
「寒いですか」
利月くんが聞いた。
「少し」
私は笑ってごまかした。
「でも大丈夫です」
言った瞬間、利月くんの眉が少し寄った。
大丈夫。
私の悪い癖。
「大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言ってもいいんですよね」
彼が言った。
美紗子先生の言葉。
私が彼に話した言葉。
今度は、利月くんの口から返ってきた。
私は目を伏せた。
「寒いです」
正直に言った。
利月くんは少しだけ頷いた。
そして、自分のマフラーを外した。
「え、いいです」
「寒いなら」
「でも」
「風邪ひいたら、陽斗に怒られます」
それはずるい。
陽斗の名前を出されたら、断りにくい。
利月くんは、少し不器用な手つきで私の首元にマフラーをかけた。
近い。
近すぎる。
彼の指先が、ほんの少し私の髪に触れた。
息が止まる。
目の前に、利月くんのコートの襟。
冷たい夜気と、ほのかに残る柔らかい香り。
私は動けなかった。
「すみません」
利月くんが小さく言った。
「いえ」
声が出ない。
心臓が、うるさい。
彼は一歩下がった。
「これで少しは」
「……温かいです」
マフラーは、確かに温かかった。
でもそれ以上に、首元から胸の奥まで熱が広がっていた。
触れたわけではない。
手を繋いだわけでも、抱きしめられたわけでもない。
ただ、マフラーをかけられただけ。
それだけなのに、私の中では何かが大きく動いた。
「登坂さん」
「はい」
「こういうの、慣れてます?」
聞いてから、何を聞いているんだろうと思った。
利月くんは、少し驚いた顔をした。
「慣れてないです」
「ですよね」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「はい」
少しだけ笑う。
その笑いが、夜の中に溶けた。
しばらく二人で東京タワーを見上げていた。
私は利月くんのマフラーに顔を少しうずめた。
あたたかい。
誰かのものを身につけることが、こんなに心細くて、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
「灯理さん」
利月くんが静かに呼んだ。
「はい」
「今度は、ちゃんと明るい時間にも会いませんか」
「え?」
「東京タワーじゃない場所で」
胸が鳴った。
夜ではなく。
眠れない時でもなく。
秘密を話すためでもなく。
明るい時間に。
普通に会う。
それは、今までよりずっと恋に近い言葉だった。
「いいんですか」
思わず聞いてしまった。
「俺が誘ってます」
利月くんは、少しだけ困ったように言った。
「そうですね」
「はい」
「行きたいです」
私は答えた。
今度は、逃げ道なしで。
利月くんは、小さく頷いた。
「じゃあ、考えます」
「そこは決めてくれないんですか」
「考えます」
私は笑ってしまった。
「本当に登坂さんですね」
「すみません」
「だから、謝るところじゃないです」
何度も繰り返した言葉。
でも、今夜はその繰り返しすら愛おしかった。
帰る頃、マフラーを返そうとすると、利月くんは首を横に振った。
「今日はそのままで」
「でも」
「次に会う理由になります」
その言葉に、私は固まった。
利月くんも、自分で言ったあとに少し驚いたような顔をした。
たぶん、考えるより先に出た言葉だった。
私はマフラーを握った。
「……ずるいです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
声が震えた。
嬉しくて。
怖くて。
また会える理由が、私の首元に残っている。
東京タワーの下で、私は利月くんのマフラーを巻いたまま、タクシーに乗った。
窓の外で、彼が小さく手を上げる。
その姿が遠ざかっていく。
私はマフラーに触れた。
温かい。
今夜、硝子の鍵はひとつ開いた。
音もなく、でも確かに。
その鍵は、手を繋ぐ一歩手前にあった。
触れたいと言えない二人が、
それでも少しだけ近づくための、
不器用で温かい鍵だった。
その一文を、私は何度も読み返した。
社長の私も。
東京タワーの下で、少し困った顔をしている私も。
陽斗の母である私も。
教室を離れたまま、まだどこかで泣いている私も。
どれかひとつだけを選ばなくていい。
利月くんは、そう言ってくれた。
本人は、きっとそんな大きなことを言ったつもりはないのだと思う。
ただ、考えて、言葉を探して、ようやく置いてくれただけ。
でも私は、その言葉に救われてしまった。
救われたくせに、また欲張りになる。
もっと会いたい。
もっと話したい。
もっと、私を見てほしい。
人の心は厄介だ。
鍵をひとつ開けても、次の扉がすぐ見える。
その夜、私は陽斗が寝たあとも、リビングで東京タワーを見ていた。
写真集は、テーブルの上に置かれている。
陽斗が開いたままにしていたページには、夜の東京タワーが写っていた。
下から見上げた赤い塔。
私はその写真の端を指でなぞった。
行きたい。
そう思った。
眠れない夜じゃなくても。
泣きたい夜じゃなくても。
言い訳がなくても。
ただ、利月くんに会いたかった。
スマホを手に取る。
メッセージ画面を開いて、閉じる。
また開く。
こんなことを何度繰り返せば気が済むのだろう。
私は深呼吸して、文字を打った。
今夜、東京タワーに行きます。
そこまで打って、指が止まる。
誘っているみたい。
いや、誘っている。
私は消そうとして、やめた。
逃げないと決めた。
だったら、会いたい時に会いたいとまでは言えなくても、行くことくらいは言ってもいい。
少し迷って、もう一文足した。
もし起きていて、無理じゃなければ。
弱い。
逃げ道だらけの誘い。
でも、今の私にはこれが精一杯だった。
送信する。
すぐに既読はつかなかった。
私はスマホを伏せた。
見ない。
見ないと決めたのに、三十秒後には見ていた。
まだ未読。
「もう」
自分に呆れて、ソファに背中を預ける。
陽斗の寝息が、寝室の方からかすかに聞こえる気がした。
私は立ち上がり、そっと寝室をのぞいた。
陽斗は布団を半分蹴って寝ていた。
「寒いよ」
小さく言って、布団をかけ直す。
その寝顔を見たら、少しだけ胸が静かになった。
私はこの子の母だ。
どこへ行くにも、この事実を置いてはいけない。
リビングに戻ると、スマホが光っていた。
利月くんから。
行きます。
それだけだった。
たった三文字。
でも、胸の奥で何かが鳴った。
行きます。
考えるより先に、指が震えた。
無理しないでください。
送ると、すぐに返事が来た。
無理ではないです。
短い。
でも、まっすぐだった。
私はコートを羽織った。
音葉にはメッセージを入れた。
少しだけ東京タワー行ってくる。陽斗は寝てる。
すぐ返事が来た。
分かりました。
逃げ道ではなく、会いに行くならいいと思います。
気をつけて。
音葉は、時々ひどいくらい分かっている。
私は小さく笑って、部屋を出た。
夜の東京タワーの下は、いつもより人が少なかった。
風が冷たい。
でも、今日はあまり怖くなかった。
私はいつもの場所に立った。
足元から見上げる東京タワー。
高い。
でも、ちゃんと下から立っている。
美紗子先生の声が、胸の奥で静かに響く。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
私は足元を見た。
ヒールの先。
街灯に照らされた舗道。
少し震える自分の手。
ちゃんと立っている。
まだ不安でも。
まだ怖くても。
私はここに立っている。
「灯理さん」
声がした。
振り返ると、利月くんがいた。
黒いコート。
少し乱れた髪。
急いで来たのか、息がほんの少しだけ白い。
「こんばんは」
私が言うと、利月くんは頷いた。
「こんばんは」
それだけで、胸がいっぱいになる。
「来てくれて、ありがとうございます」
「灯理さんが行くって言ったので」
「それだけで?」
「はい」
あまりにも普通に言うから、私は少し困った。
「それだけで来るんですか」
利月くんは、少し考えた。
「それだけ、ではないです」
「え?」
彼は東京タワーを見上げた。
「俺も、会いたかったので」
心臓が、変な音を立てた。
今、何て。
聞き返したかった。
でも、聞き返したら消えてしまいそうだった。
私は慌てて視線を東京タワーに向けた。
「そういうこと、急に言わないでください」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「難しいです」
いつものやり取り。
でも今夜は、その奥にほんの少し熱がある。
私は手をコートのポケットに入れた。
指先が冷えている。
「今日は、何かあったんですか」
利月くんが聞いた。
「何かがあったわけじゃないです」
「はい」
「ただ」
私は言葉を探した。
ただ、会いたかった。
そのまま言うには、まだ勇気が足りない。
でも、今夜は逃げたくない。
「今の私を見てくれたのが、嬉しかったんです」
利月くんは黙って聞いていた。
「でも、嬉しかったら、もっと会いたくなりました」
言ってしまった。
顔が熱い。
東京タワーの赤い光のせいにしたい。
利月くんは、何も言わない。
沈黙。
でも、その沈黙は前ほど怖くなかった。
利月くんは、逃げるために黙っているわけではない。
言葉を探している。
そう思えるようになっていた。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、まだうまく言えないことが多いです」
「知っています」
利月くんが少しだけ困った顔をした。
「そこ、すぐ言いますね」
「事実なので」
「音葉さんみたいです」
「それはちょっと嫌です」
彼が小さく笑った。
その笑顔を見て、私はやっと少しだけ息をした。
「でも」
利月くんが続けた。
「会いたいと言われたら、会いに来たいとは思います」
胸が、また鳴る。
「言ってないです」
「言ってませんでした?」
「もっと会いたくなった、とは言いました」
「それは、会いたいとは違うんですか」
真面目に聞いてくる。
私は負けた。
「……同じです」
利月くんは、少しだけ頷いた。
「じゃあ、来てよかったです」
その言葉が、まっすぐ胸に落ちる。
私は東京タワーを見上げた。
泣きそうだった。
最近の私は、すぐ泣きそうになる。
でも、それは弱くなったからではないのかもしれない。
今までしまっていたものが、少しずつ外に出てきているだけなのかもしれない。
「登坂さん」
「はい」
「私、まだ怖いです」
「はい」
「年齢も、陽斗のことも、社長のことも。あなたが知って、それでもここに来てくれてるのが嬉しいけど、いつかやっぱり無理だって言われるのが怖い」
利月くんは、すぐには答えなかった。
冷たい風が、私たちの間を通る。
「無理なことは、あると思います」
その答えに、胸が少し沈む。
でも、利月くんは続けた。
「でも、それは灯理さんが無理という意味じゃないです」
私は彼を見た。
「学校のこと。陽斗のこと。立場のこと。考えなきゃいけないことは、たぶんあります」
「はい」
「そこを何も考えずに、ただ好きですと言ったら、たぶん無責任です」
好き。
その言葉が彼の口から出た瞬間、胸が跳ねた。
でも彼は、告白として言ったわけではない。
それでも、その言葉は私の中で光った。
「だから俺は、考えます」
利月くんは言った。
「でも、考えることと、離れることは同じじゃないです」
涙がこぼれそうになった。
「それ、ちゃんと言ってくれるんですね」
「尚に言われました」
「尚さんに?」
「言葉が少ないって」
思わず笑ってしまった。
「言いそう」
「はい。腹が立つくらい正しかったです」
「佐伯さんは、そういうところあります」
「灯理さんも、そう思いますか」
「はい」
少しだけ二人で笑った。
尚さんの名前が出ても、今夜は変な痛みがなかった。
利月くんが、少しだけこちらを見る。
「灯理さん」
「はい」
「佐伯と話している時の灯理さんは、楽しそうです」
胸が一瞬ぎゅっとなる。
でも、逃げずに聞いた。
「はい」
「でも、今日話してくれたので、少し分かりました」
「何が?」
「俺とは、楽じゃないんですよね」
私は困って笑った。
「そこだけ言うと、すごく嫌な感じです」
「違いますか」
「違わないです」
「じゃあ」
「楽じゃないけど」
私は彼を見た。
今度は、逸らさなかった。
ほんの数秒。
それでも、私にとっては大きな数秒だった。
「会いたいのは、登坂さんです」
言った。
今度は、はっきりと。
利月くんの目が、静かに揺れた。
沈黙。
東京タワーの光が、彼の横顔に落ちる。
私は心臓の音が聞こえそうだった。
言いすぎた。
でも、もう戻せない。
「灯理さん」
「はい」
「俺も」
そこで、彼は言葉を止めた。
胸が止まりそうになる。
言って。
言ってほしい。
でも、急かしたくない。
利月くんは、視線を少し落とした。
「俺も、会いたいと思って来ました」
好き、ではなかった。
でも、今の彼にとっては、きっと精一杯だった。
私はゆっくり頷いた。
「はい」
それだけで十分。
十分だと思いたい。
その時、冷たい風が強く吹いた。
思わず肩をすくめる。
「寒いですか」
利月くんが聞いた。
「少し」
私は笑ってごまかした。
「でも大丈夫です」
言った瞬間、利月くんの眉が少し寄った。
大丈夫。
私の悪い癖。
「大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言ってもいいんですよね」
彼が言った。
美紗子先生の言葉。
私が彼に話した言葉。
今度は、利月くんの口から返ってきた。
私は目を伏せた。
「寒いです」
正直に言った。
利月くんは少しだけ頷いた。
そして、自分のマフラーを外した。
「え、いいです」
「寒いなら」
「でも」
「風邪ひいたら、陽斗に怒られます」
それはずるい。
陽斗の名前を出されたら、断りにくい。
利月くんは、少し不器用な手つきで私の首元にマフラーをかけた。
近い。
近すぎる。
彼の指先が、ほんの少し私の髪に触れた。
息が止まる。
目の前に、利月くんのコートの襟。
冷たい夜気と、ほのかに残る柔らかい香り。
私は動けなかった。
「すみません」
利月くんが小さく言った。
「いえ」
声が出ない。
心臓が、うるさい。
彼は一歩下がった。
「これで少しは」
「……温かいです」
マフラーは、確かに温かかった。
でもそれ以上に、首元から胸の奥まで熱が広がっていた。
触れたわけではない。
手を繋いだわけでも、抱きしめられたわけでもない。
ただ、マフラーをかけられただけ。
それだけなのに、私の中では何かが大きく動いた。
「登坂さん」
「はい」
「こういうの、慣れてます?」
聞いてから、何を聞いているんだろうと思った。
利月くんは、少し驚いた顔をした。
「慣れてないです」
「ですよね」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
「はい」
少しだけ笑う。
その笑いが、夜の中に溶けた。
しばらく二人で東京タワーを見上げていた。
私は利月くんのマフラーに顔を少しうずめた。
あたたかい。
誰かのものを身につけることが、こんなに心細くて、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
「灯理さん」
利月くんが静かに呼んだ。
「はい」
「今度は、ちゃんと明るい時間にも会いませんか」
「え?」
「東京タワーじゃない場所で」
胸が鳴った。
夜ではなく。
眠れない時でもなく。
秘密を話すためでもなく。
明るい時間に。
普通に会う。
それは、今までよりずっと恋に近い言葉だった。
「いいんですか」
思わず聞いてしまった。
「俺が誘ってます」
利月くんは、少しだけ困ったように言った。
「そうですね」
「はい」
「行きたいです」
私は答えた。
今度は、逃げ道なしで。
利月くんは、小さく頷いた。
「じゃあ、考えます」
「そこは決めてくれないんですか」
「考えます」
私は笑ってしまった。
「本当に登坂さんですね」
「すみません」
「だから、謝るところじゃないです」
何度も繰り返した言葉。
でも、今夜はその繰り返しすら愛おしかった。
帰る頃、マフラーを返そうとすると、利月くんは首を横に振った。
「今日はそのままで」
「でも」
「次に会う理由になります」
その言葉に、私は固まった。
利月くんも、自分で言ったあとに少し驚いたような顔をした。
たぶん、考えるより先に出た言葉だった。
私はマフラーを握った。
「……ずるいです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
声が震えた。
嬉しくて。
怖くて。
また会える理由が、私の首元に残っている。
東京タワーの下で、私は利月くんのマフラーを巻いたまま、タクシーに乗った。
窓の外で、彼が小さく手を上げる。
その姿が遠ざかっていく。
私はマフラーに触れた。
温かい。
今夜、硝子の鍵はひとつ開いた。
音もなく、でも確かに。
その鍵は、手を繋ぐ一歩手前にあった。
触れたいと言えない二人が、
それでも少しだけ近づくための、
不器用で温かい鍵だった。