硝子の鍵

Key·27 手の温度

手を離したあとも、温度は残っていた。

不思議だった。

もう繋いでいないのに。
もう隣にはいないのに。
家に帰って、コートを脱いで、陽斗に「楽しかった」と話して、いつもの部屋に戻ったあとも。

手のひらだけが、まだ冬の遊歩道にいた。

利月くんの手は、思っていたより温かかった。

強引ではなくて、でも頼りなくもなくて。
いつでも離せるようにしてくれているのに、私が少し握り返すと、ちゃんとそこにいてくれる手だった。

次は、転ばなくても繋いでいいですか。

あのメッセージを見た瞬間、私はスマホを落としかけた。

それから何度も読み返した。

転ばなくても。

つまり、理由がなくても。

私はベッドの上で、手のひらを見つめた。

大人なのに。

社長なのに。

陽斗の母なのに。

手を繋いだだけで、こんなに眠れなくなるなんて思わなかった。

「お母さん」

翌朝、陽斗が食卓で私を見るなり言った。

「寝てないでしょ」

「寝たよ」

「目が寝てない」

「目が?」

「うん。あと、にやにやしてる」

私はカップを持つ手を止めた。

「してない」

「してる」

「してない」

「してるってば」

陽斗はトーストをかじりながら、じっと私を見た。

「昨日、ほんとに歩いただけ?」

心臓が跳ねた。

「歩いただけ」

嘘ではない。

でも、全部でもない。

陽斗は目を細める。

「その顔、絶対なんかあった」

「なんかって何」

「知らないけど」

「知らないなら言わない」

「大人ってずるい」

私は言葉に詰まった。

ずるい。

たしかに、そうかもしれない。

全部は言えない。
でも、嘘はつきたくない。

その境目で、私はいつも少しだけずるくなる。

「陽斗」

「なに」

「昨日ね」

言いかけて、止まった。

手を繋いだ。

それを言うべきなのか。
言わない方がいいのか。

陽斗にとって利月くんは先生だ。

そこは守らなければならない。

でも、陽斗はもう私が利月くんに会っていることを知っている。

そして、嘘は嫌だと言った。

私は深く息を吸った。

「少しだけ、手を繋いだ」

言った瞬間、顔が熱くなった。

陽斗は、トーストを持ったまま固まった。

「え」

「え、って何」

「お母さんが?」

「そう」

「登坂先生と?」

「うん」

陽斗はしばらく黙った。

その沈黙が怖かった。

でも、私は逃げなかった。

やがて陽斗は、ぽつりと言った。

「小学生みたい」

私はテーブルに突っ伏しそうになった。

「それ言う?」

「だって、手繋いだだけでその顔でしょ」

「その顔って何」

「にやにやと泣きそうが混ざってる」

「そんな顔してる?」

「してる」

陽斗は少しだけ笑った。

怒ってはいない。

嫌そうでもない。

でも、考えている顔だった。

「嫌だった?」

私が聞くと、陽斗はすぐには答えなかった。

それから、トーストを皿に置いた。

「嫌っていうか」

「うん」

「変な感じ」

胸が少し痛む。

「そうだよね」

「登坂先生は先生だから」

「うん」

「でも、お母さんの好きな人でもあるんでしょ」

その言葉に、息が止まった。

好きな人。

陽斗の口から、その言葉を聞くと、胸の奥が変なふうに震えた。

「……うん」

私は頷いた。

「好きな人」

陽斗は、ふうん、と言った。

それから、少しだけ視線を落とした。

「先生は学校では先生でいてくれるんだよね」

「うん」

「俺にも普通にするんだよね」

「うん」

「じゃあ、まあ」

陽斗はまたトーストを持った。

「いいんじゃない」

あまりにもあっさりしていて、私は少し驚いた。

「いいの?」

「だって、俺がダメって言ったらやめるの?」

痛いところを突かれた。

すぐに答えられない。

陽斗はそれを見て、少しだけ大人みたいに笑った。

「ほら」

「でも、陽斗が本当に嫌なら、ちゃんと考える」

「考えるって、やめるとは違うじゃん」

「うん」

「なら、ちゃんと考えて」

その言葉は、子どものわがままではなかった。

むしろ、私よりずっと冷静な言葉だった。

「俺も、ちゃんと考える」

胸が痛かった。

こんなふうに言わせてしまうことが。

でも、少しだけ救われてもいた。

陽斗は、私を拒絶していない。

利月くんを拒絶していない。

ただ、ちゃんと考えてと言っている。

「分かった」

私は頷いた。

「ちゃんと考える」

陽斗は満足したように頷き、それから急に言った。

「でも学校で手繋いだらやだ」

「繋がないよ」

「廊下でとか絶対やめて」

「しないって」

「図書室もなし」

「しません」

「佐伯先生に見られたら終わる」

思わず笑ってしまった。

「尚さん、もう知ってるけどね」

「知ってても見られたら終わる」

「確かに」

陽斗も少し笑った。

その笑いで、張りつめていた空気がほどけた。

朝の光が、テーブルに落ちている。

冬の朝は冷たいけれど、今日の部屋は少しだけ温かかった。

会社に着くと、私はすぐに利月くんへメッセージを送った。

今朝、陽斗に少し話しました。
手を繋いだこと。

送ったあとで、心臓が鳴る。

重かっただろうか。

でも、隠したくなかった。

利月くんからの返事は、昼前に来た。

話してくれたんですね。
ありがとうございます。

そのあとに、もう一通。

陽斗は、どうでしたか。

私は少し考えてから返した。

小学生みたいって言われました。

既読。

少しして、

それは、少し分かります。

私は吹き出しそうになった。

分かるんですか?

はい。
俺も、昨日から少し落ち着かないので。

胸が跳ねた。

利月くんも。

昨日から落ち着かなかった。

その事実だけで、手のひらにまた温度が戻った気がした。

登坂さんも?

はい。

手を繋いだだけなのに?

少し意地悪だったかもしれない。

返事は、しばらく来なかった。

やがて届いた。

だけ、ではなかったです。

私は画面を見つめたまま、動けなくなった。

だけ、ではなかった。

利月くんにとっても、あれはちゃんと特別だったのだ。

私は泣きそうになりながら、ゆっくり返す。

私もです。

すぐに既読がついた。

返事は短かった。

よかったです。

それだけ。

でも、十分だった。

夕方、陽斗が学校から帰ってきた。

いつも通り、玄関で靴を脱ぎながら言う。

「ただいま」

「おかえり」

「今日、登坂先生ふつうだった」

その報告が最近の定番になっている。

「そっか」

「でも、ちょっと手見た」

私は固まった。

「手?」

「俺の手じゃなくて、自分の手」

「自分の?」

「うん。なんか見てた」

陽斗は鞄を置きながら、少しだけにやっとした。

「お母さんと一緒じゃん」

顔が熱くなる。

「陽斗」

「なに」

「それ、登坂先生に言わないで」

「言わないよ。俺そんなに子どもじゃないし」

「子どもです」

「でも空気は読む」

「読まなくていい空気もある」

陽斗は笑った。

「登坂先生、今日も返却日言ってきた」

「普通だね」

「うん。普通」

普通。

その言葉が、こんなにありがたいなんて。

利月くんは、ちゃんと学校で先生でいてくれている。

私とのことを知った陽斗にも、変に近づきすぎず、遠ざけず。

普通にする。

それは簡単なようで、きっと難しい。

夜、私は陽斗と夕食を食べた。

今日は肉だった。

陽斗の希望通り。

「お母さん、ちゃんと食べてる」

「食べてます」

「登坂先生に報告しとく?」

「しなくていい」

「でも心配するよ」

「陽斗が心配しすぎ」

「登坂先生もうつった」

「逆じゃない?」

二人で笑った。

こんな会話ができる日が来るとは思わなかった。

もちろん、すべてが解決したわけじゃない。

陽斗はまだ子どもで、私は母で、利月くんは先生だ。

その線は、いつも目の前にある。

でも、その線を見ないふりしないからこそ、少しだけ進めるのかもしれない。

夜、陽斗が寝たあと、利月くんから電話が来た。

珍しかった。

画面に名前が出た瞬間、心臓が跳ねた。

私は少し深呼吸してから出た。

「はい」

今、大丈夫ですか。

「大丈夫です」

すぐに言って、笑ってしまう。

「これは本当に大丈夫です」

なら、よかったです。

電話越しの声は、少し低くて落ち着いている。

でも、どこか緊張しているようにも聞こえた。

「珍しいですね。登坂さんから電話」

そうですね。

「何かありました?」

少し間があった。

手のことを、陽斗に話したと聞いて。

「あ……はい」

俺も、ちゃんと言っておきたくて。

「何を?」

電話の向こうで、利月くんが息を吸う気配がした。

昨日、手を繋いだことを、軽く考えていません。

胸が、静かに震えた。

灯理さんにも、陽斗にも、学校にも、ちゃんと向き合うつもりです。

「はい」

声が震えた。

でも、それとは別に。

「はい」

手を繋げて、嬉しかったです。

涙が出た。

本当に、この人は。

遅くて、不器用で、でもちゃんと届くところまで来る。

「私も」

私は小さく答えた。

「嬉しかったです」

はい。

「昨日から、手の温度が残ってます」

言ってしまってから、顔が熱くなる。

電話でよかった。

目の前だったら、きっと言えなかった。

利月くんは、しばらく黙った。

それから、少しだけかすれた声で言った。

俺もです。

その一言で、胸の奥がいっぱいになる。

「登坂さん」

はい。

「次は、転ばなくても繋いでいいって言いましたよね」

言いました。

「……覚えてます?」

覚えています。

「じゃあ」

言葉が喉で止まる。

言いたい。

でも、恥ずかしい。

それでも、言いたい。

「次、ちゃんと繋いでください」

電話の向こうが静かになった。

長い沈黙。

でも、もう怖くはなかった。

少しして、利月くんが言った。

はい。

たった一文字。

でも、ちゃんと約束の音がした。

次は、ちゃんと繋ぎます。

私は目を閉じた。

涙が頬を伝う。

「はい」

小さく答えた。

その夜、電話を切ったあとも、しばらく眠れなかった。

でも、不安で眠れないのではなかった。

手の温度が、まだ残っていたから。

窓の外に、東京タワーが光っている。

その上の空には、薄い月。

欠けていても、そこにある月。

離れていても、残っている手の温度。

硝子の鍵は、またひとつ鳴った。

今度の鍵は、離したあとの手の中にあった。

繋いだ時間よりも長く、
心に残り続ける、
温かい鍵だった。
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