硝子の鍵
Key·28 佐伯尚の目
手を繋いだ翌日、陽斗はいつもより少し静かだった。
それは、私には分からなかった。
朝は普通だった。
「行ってきます」と言って、靴を履いて、鞄を背負って、少しだけ眠そうな顔で家を出た。
昨日のことも、ちゃんと話した。
手を繋いだこと。
楽しかったこと。
ちゃんと帰ってきたこと。
陽斗は「小学生みたい」と笑った。
それから、「ちゃんと考えて」と言った。
だから、私は大丈夫だと思っていた。
けれど、学校での陽斗を見ているのは、私ではない。
佐伯尚さんだった。
昼休みのあと、尚さんからメッセージが来た。
陽斗、今日は普通です。
でも、少し頑張って普通にしてます。
私はその文章を何度も読んだ。
普通。
頑張って普通。
その二つは、全然違う。
胸の奥が冷える。
私のせいですよね。
送ると、既読はすぐについた。
返事もすぐだった。
全部自分のせいにするの、灯理さんの悪い癖です。
私はスマホを握ったまま、何も返せなかった。
そのあと、もう一通。
今日、少し話せますか。
担任として。
担任として。
その言葉に、私は少しだけ身構えた。
尚さんが「担任として」と言う時は、たいてい逃げ道をふさいでくる。
夕方、会社を少し早く抜けて、学校近くの小さな喫茶店に向かった。
学校の敷地内ではない。
でも、近すぎる場所でもない。
尚さんが選んだ店だった。
中に入ると、尚さんはすでに奥の席に座っていた。
スーツの上着を椅子にかけ、手元にはコーヒー。
私に気づくと、いつもの調子で片手を上げた。
「お疲れさまです、社長」
「その呼び方、今日は重いです」
「じゃあ灯理さん」
胸が少しだけ揺れる。
尚さんは、私を灯理さんと呼ぶ時と、社長と呼ぶ時の使い分けがうまい。
近づきすぎないように。
でも、遠くもしすぎないように。
そういう人だ。
「陽斗、何かありましたか」
席につくなり聞くと、尚さんは少しだけ眉を上げた。
「早いですね」
「心配なので」
「ですよね」
尚さんはコーヒーを置いた。
「大きな問題はないです。友達とも話してるし、授業も普通。忘れ物も今日は少なめ」
「それは奇跡ですね」
「奇跡です」
少しだけ笑いが起きる。
でも、すぐに尚さんの表情が真面目になる。
「ただ、いつもより周りを見てます」
胸が痛む。
「周りを?」
「はい。俺の顔も、登坂の顔も。あと、教室の空気も」
私は唇を結んだ。
「やっぱり、私のせい」
「だから、それを今すぐ全部自分のせいにしない」
尚さんの声は少しだけ強かった。
「陽斗は賢いです。大人が思っているよりずっと見てる。だから、変化に気づくのは自然です」
「でも」
「でも、見てください」
尚さんはまっすぐ私を見た。
「陽斗が“いい子”になりすぎてる時は」
その言葉が、胸の真ん中に刺さった。
いい子。
私はその言葉が少し怖い。
陽斗は優しい。
空気を読む。
私が疲れていると、先に水を持ってくる。
それをずっと、いい子だと思っていた。
でも、それが我慢だったとしたら。
私は何を見落としてきたのだろう。
「灯理さんが恋をするのは、悪いことじゃないです」
尚さんが言った。
その言い方が、思ったより静かだった。
「でも、陽斗が“自分が大人になればいい”って思いすぎないようには、見てください」
私は頷いた。
「はい」
「そこは、登坂にも言いました」
「利月くんに?」
名前が自然に出た。
尚さんの目が、一瞬だけ揺れた気がした。
でも、すぐいつもの顔に戻る。
「はい。あいつにも言いました。陽斗を見る時に、灯理さんの息子として見すぎるなって」
「……ありがとうございます」
「俺は陽斗の担任なので」
いつもの言葉。
でも今日は、少し違って聞こえた。
担任だから。
それは本当。
でも、それだけではない気がした。
尚さんは、私を困らせないように、ずっと自分の立場をその言葉にしまっている。
ふと、そう思った。
「佐伯さん」
「はい」
「いつも、その言葉で逃げてませんか」
言った瞬間、自分でも驚いた。
尚さんも少しだけ目を開いた。
「俺が?」
「はい」
「灯理さんに言われます?」
「私も逃げてばかりなので」
尚さんは、少し間を置いて笑った。
「敵わないな」
その声が、いつもより少し低かった。
「逃げてますよ」
静かに言った。
私は何も言えなくなる。
尚さんは、コーヒーカップの縁を指でなぞった。
「担任として、って言えば、俺が何を言っても線を越えすぎないで済むので」
心臓が小さく鳴った。
尚さんは笑っていた。
でも、その目は少しも笑っていなかった。
「でも、ひとつだけ言っていいですか」
「……はい」
「俺だったら、たぶんもっと楽でしたよ」
息が止まった。
喫茶店の音が、遠くなる。
カップの音。
店員さんの足音。
外を通る車の音。
全部が薄くなった。
尚さんは、私を見ていた。
「灯理さん、俺とは目を見て話せるし、冗談も言えるし、泣く前に笑える」
私は何も返せなかった。
「でも、登坂の前だと、笑う前に息を止めるんですよね」
胸の奥を、そっと押されたようだった。
その通りだった。
利月くんの前では、私はうまく笑えない。
目を見ようとするだけで胸がいっぱいになる。
声が震えそうになる。
だから尚さんに逃げていた。
「俺、けっこう頑張ったつもりだったんですけどね」
尚さんは軽く笑った。
軽い声。
でも、その軽さが少しだけ痛かった。
「佐伯さん」
名前を呼んだだけで、続きが出てこなかった。
尚さんは先に手を上げた。
「すみません。今の、担任じゃなくて男の方で言いました」
胸が締めつけられる。
男の方。
その言葉を、私はどう受け止めればいいのか分からなかった。
尚さんは、ずっと近くにいた。
私が利月くんの目を見られない時、話しやすい方へ逃げる場所にいてくれた。
陽斗のことも見てくれた。
利月くんの不器用さを、何度も翻訳してくれた。
でもそれは、ただの優しさではなかったのかもしれない。
「困らせたいわけじゃないです」
尚さんは言った。
「でも、何も言わないでいい人ぶるほど、俺もできた人間じゃないので」
その声に、初めて尚さんの痛みが見えた気がした。
いつも笑っている人。
軽く話して、場を和ませて、相手が逃げやすい出口を作る人。
でもその人にも、出口が必要だったのだと思った。
「私」
何か言おうとした。
でも、言葉が出てこない。
謝るのは違う気がした。
ありがとうも違う。
嬉しいと言うのも、残酷な気がした。
尚さんは、そんな私を見て、少しだけ笑った。
「ほら。灯理さん、そういう時は俺にもちゃんと言葉なくすんですね」
「……ごめんなさい」
結局、謝ってしまった。
尚さんは肩をすくめる。
「謝るところじゃないです」
それは、利月くんによく言っていた言葉だった。
尚さんの口から聞くと、少しだけ胸が痛んだ。
「登坂がちゃんとするなら、俺は引きます」
尚さんは言った。
「でも、あいつが灯理さんを泣かせるなら、俺は黙ってないです」
その言葉は、優しい脅しみたいだった。
「陽斗の担任として?」
私が聞くと、尚さんは少し笑った。
「それもあります」
「それ以外も?」
「あります」
まっすぐな答え。
私は目を伏せた。
尚さんは、今日、ちゃんと一歩踏み込んだ。
私を奪いに来たわけじゃない。
でも、自分の存在を私の前に置いた。
俺もここにいる、と。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、登坂に負けたとはまだ言いません」
心臓が跳ねる。
尚さんは笑っていた。
今度は、少しだけいつもの顔だった。
「言ったら、本当に終わるので」
「佐伯さん」
「でも、登坂の方を見てる灯理さんを無理にこっち向かせるほど、雑な男でもないです」
その言葉に、胸が痛くなる。
尚さんは、優しい。
でも、ただの優しさではない。
ちゃんと悔しさもある。
それが、彼を急に生きた人にした。
「だから、今は」
尚さんはコーヒーを飲み干した。
「陽斗の担任として、灯理さんの味方でいます」
「今は?」
「今は」
その余白が怖かった。
でも、どこかで少しだけ安心もした。
尚さんが自分の気持ちをなかったことにしなかったから。
「ありがとうございます」
私はやっと言えた。
尚さんは、ふっと笑った。
「それは、担任の方にですか。男の方にですか」
困った。
本当に困った。
「両方です」
正直に言うと、尚さんは少しだけ目を丸くした。
それから、笑った。
「そういうところですよ、灯理さん」
「え?」
「ずるい」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
私はずるい。
利月くんを好きなのに、尚さんの優しさに救われている。
尚さんがいてくれることで、何度も息をしている。
それを分かっていて、手放せないでいる。
「ずるいですよね」
私が言うと、尚さんは首を横に振った。
「今のは、責めてないです」
「でも」
「ずるいくらい、人に入ってくるって意味です」
尚さんの声が少しやわらかくなる。
「だから登坂も、あんなに考え込んでるんでしょうね」
私は何も言えなかった。
尚さんは立ち上がった。
「陽斗のことは、ちゃんと見ます」
「はい」
「でも、灯理さんも見てください。陽斗が普通にしている時ほど」
「はい」
「それから」
「はい」
「登坂に、今日俺と会ったことは言っていいです」
私は顔を上げた。
「いいんですか」
「隠すと面倒になるので」
「そうですね」
「俺の気持ちまで言うかは、灯理さんに任せます」
それは、少し難しい宿題だった。
尚さんは伝票を手に取る。
「払います」
「だめです」
「今日は担任として呼んだので」
「会社の社長として来ました」
「そこ張り合います?」
「張り合います」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
結局、伝票は半分ずつにした。
店を出ると、冬の風が冷たかった。
尚さんはコートの襟を直しながら言った。
「灯理さん」
「はい」
「登坂と手、繋いだんですか」
心臓が飛び跳ねた。
「なんで」
「陽斗の顔で分かりました」
先生って怖い。
本当に怖い。
私は観念して頷いた。
「はい」
尚さんは、少しだけ空を見上げた。
「そっか」
その声は、軽かった。
でも、軽すぎた。
「佐伯さん」
「はい」
「ごめんなさい」
尚さんは、こちらを見た。
「謝るところじゃないです」
また、その言葉。
でも今度は少しだけ笑っていた。
「ただ」
「はい」
「俺も、手くらい繋ぎたかったです」
その一言は、冗談みたいに落ちた。
でも、冗談ではなかった。
私は息を止めた。
尚さんはすぐに笑った。
「今のは忘れてください」
忘れられるわけがない。
「忘れられません」
「じゃあ、覚えててください」
尚さんは、冬の空気の中で少しだけ肩をすくめた。
「俺も、ちゃんと男だったって」
その言葉を残して、尚さんは駅の方へ歩いていった。
私はその背中を、しばらく見ていた。
軽い人。
明るい人。
逃げ場みたいな人。
でも、その背中は少しだけ寂しかった。
家に帰る途中、スマホが震えた。
利月くんからだった。
今日は、陽斗は普通でしたか。
私は画面を見つめた。
すぐには返せなかった。
尚さんと会ったこと。
言われた言葉。
男の方で言いました、という声。
俺も、手くらい繋ぎたかったです、という冗談みたいな本音。
全部が、胸の中で揺れていた。
私は正直に打った。
今日、佐伯さんと話しました。
陽斗のことで。
送信。
少しして既読がつく。
返事は、いつもより早かった。
そうですか。
短い。
でも、その短さに少しだけ緊張が混じっている気がした。
私は続けて打った。
陽斗が少し頑張って普通にしている、と教えてくれました。
私も、ちゃんと見ます。
利月くんから、しばらく返事はなかった。
きっと考えている。
やがて、返事が来た。
俺も気をつけます。
佐伯が見てくれているのは、ありがたいです。
その文章を見て、胸が少し苦しくなった。
利月くんはまだ知らない。
尚さんが、担任としてだけではなく、男としても一歩踏み込んだことを。
言うべきなのか。
今はまだ、分からなかった。
窓の外には、冬の月が浮かんでいた。
欠けていても、そこにある月。
見えない気持ちも、なくなっているわけじゃない。
尚さんの気持ちも。
利月くんの不安も。
陽斗の小さな頑張りも。
私のずるさも。
全部、そこにある。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、尚さんの目の形をしていた。
明るく笑って、
でも本当は少し痛くて、
それでも誰かをちゃんと見ている目。
三角形の、もうひとつの角に灯る鍵だった。
それは、私には分からなかった。
朝は普通だった。
「行ってきます」と言って、靴を履いて、鞄を背負って、少しだけ眠そうな顔で家を出た。
昨日のことも、ちゃんと話した。
手を繋いだこと。
楽しかったこと。
ちゃんと帰ってきたこと。
陽斗は「小学生みたい」と笑った。
それから、「ちゃんと考えて」と言った。
だから、私は大丈夫だと思っていた。
けれど、学校での陽斗を見ているのは、私ではない。
佐伯尚さんだった。
昼休みのあと、尚さんからメッセージが来た。
陽斗、今日は普通です。
でも、少し頑張って普通にしてます。
私はその文章を何度も読んだ。
普通。
頑張って普通。
その二つは、全然違う。
胸の奥が冷える。
私のせいですよね。
送ると、既読はすぐについた。
返事もすぐだった。
全部自分のせいにするの、灯理さんの悪い癖です。
私はスマホを握ったまま、何も返せなかった。
そのあと、もう一通。
今日、少し話せますか。
担任として。
担任として。
その言葉に、私は少しだけ身構えた。
尚さんが「担任として」と言う時は、たいてい逃げ道をふさいでくる。
夕方、会社を少し早く抜けて、学校近くの小さな喫茶店に向かった。
学校の敷地内ではない。
でも、近すぎる場所でもない。
尚さんが選んだ店だった。
中に入ると、尚さんはすでに奥の席に座っていた。
スーツの上着を椅子にかけ、手元にはコーヒー。
私に気づくと、いつもの調子で片手を上げた。
「お疲れさまです、社長」
「その呼び方、今日は重いです」
「じゃあ灯理さん」
胸が少しだけ揺れる。
尚さんは、私を灯理さんと呼ぶ時と、社長と呼ぶ時の使い分けがうまい。
近づきすぎないように。
でも、遠くもしすぎないように。
そういう人だ。
「陽斗、何かありましたか」
席につくなり聞くと、尚さんは少しだけ眉を上げた。
「早いですね」
「心配なので」
「ですよね」
尚さんはコーヒーを置いた。
「大きな問題はないです。友達とも話してるし、授業も普通。忘れ物も今日は少なめ」
「それは奇跡ですね」
「奇跡です」
少しだけ笑いが起きる。
でも、すぐに尚さんの表情が真面目になる。
「ただ、いつもより周りを見てます」
胸が痛む。
「周りを?」
「はい。俺の顔も、登坂の顔も。あと、教室の空気も」
私は唇を結んだ。
「やっぱり、私のせい」
「だから、それを今すぐ全部自分のせいにしない」
尚さんの声は少しだけ強かった。
「陽斗は賢いです。大人が思っているよりずっと見てる。だから、変化に気づくのは自然です」
「でも」
「でも、見てください」
尚さんはまっすぐ私を見た。
「陽斗が“いい子”になりすぎてる時は」
その言葉が、胸の真ん中に刺さった。
いい子。
私はその言葉が少し怖い。
陽斗は優しい。
空気を読む。
私が疲れていると、先に水を持ってくる。
それをずっと、いい子だと思っていた。
でも、それが我慢だったとしたら。
私は何を見落としてきたのだろう。
「灯理さんが恋をするのは、悪いことじゃないです」
尚さんが言った。
その言い方が、思ったより静かだった。
「でも、陽斗が“自分が大人になればいい”って思いすぎないようには、見てください」
私は頷いた。
「はい」
「そこは、登坂にも言いました」
「利月くんに?」
名前が自然に出た。
尚さんの目が、一瞬だけ揺れた気がした。
でも、すぐいつもの顔に戻る。
「はい。あいつにも言いました。陽斗を見る時に、灯理さんの息子として見すぎるなって」
「……ありがとうございます」
「俺は陽斗の担任なので」
いつもの言葉。
でも今日は、少し違って聞こえた。
担任だから。
それは本当。
でも、それだけではない気がした。
尚さんは、私を困らせないように、ずっと自分の立場をその言葉にしまっている。
ふと、そう思った。
「佐伯さん」
「はい」
「いつも、その言葉で逃げてませんか」
言った瞬間、自分でも驚いた。
尚さんも少しだけ目を開いた。
「俺が?」
「はい」
「灯理さんに言われます?」
「私も逃げてばかりなので」
尚さんは、少し間を置いて笑った。
「敵わないな」
その声が、いつもより少し低かった。
「逃げてますよ」
静かに言った。
私は何も言えなくなる。
尚さんは、コーヒーカップの縁を指でなぞった。
「担任として、って言えば、俺が何を言っても線を越えすぎないで済むので」
心臓が小さく鳴った。
尚さんは笑っていた。
でも、その目は少しも笑っていなかった。
「でも、ひとつだけ言っていいですか」
「……はい」
「俺だったら、たぶんもっと楽でしたよ」
息が止まった。
喫茶店の音が、遠くなる。
カップの音。
店員さんの足音。
外を通る車の音。
全部が薄くなった。
尚さんは、私を見ていた。
「灯理さん、俺とは目を見て話せるし、冗談も言えるし、泣く前に笑える」
私は何も返せなかった。
「でも、登坂の前だと、笑う前に息を止めるんですよね」
胸の奥を、そっと押されたようだった。
その通りだった。
利月くんの前では、私はうまく笑えない。
目を見ようとするだけで胸がいっぱいになる。
声が震えそうになる。
だから尚さんに逃げていた。
「俺、けっこう頑張ったつもりだったんですけどね」
尚さんは軽く笑った。
軽い声。
でも、その軽さが少しだけ痛かった。
「佐伯さん」
名前を呼んだだけで、続きが出てこなかった。
尚さんは先に手を上げた。
「すみません。今の、担任じゃなくて男の方で言いました」
胸が締めつけられる。
男の方。
その言葉を、私はどう受け止めればいいのか分からなかった。
尚さんは、ずっと近くにいた。
私が利月くんの目を見られない時、話しやすい方へ逃げる場所にいてくれた。
陽斗のことも見てくれた。
利月くんの不器用さを、何度も翻訳してくれた。
でもそれは、ただの優しさではなかったのかもしれない。
「困らせたいわけじゃないです」
尚さんは言った。
「でも、何も言わないでいい人ぶるほど、俺もできた人間じゃないので」
その声に、初めて尚さんの痛みが見えた気がした。
いつも笑っている人。
軽く話して、場を和ませて、相手が逃げやすい出口を作る人。
でもその人にも、出口が必要だったのだと思った。
「私」
何か言おうとした。
でも、言葉が出てこない。
謝るのは違う気がした。
ありがとうも違う。
嬉しいと言うのも、残酷な気がした。
尚さんは、そんな私を見て、少しだけ笑った。
「ほら。灯理さん、そういう時は俺にもちゃんと言葉なくすんですね」
「……ごめんなさい」
結局、謝ってしまった。
尚さんは肩をすくめる。
「謝るところじゃないです」
それは、利月くんによく言っていた言葉だった。
尚さんの口から聞くと、少しだけ胸が痛んだ。
「登坂がちゃんとするなら、俺は引きます」
尚さんは言った。
「でも、あいつが灯理さんを泣かせるなら、俺は黙ってないです」
その言葉は、優しい脅しみたいだった。
「陽斗の担任として?」
私が聞くと、尚さんは少し笑った。
「それもあります」
「それ以外も?」
「あります」
まっすぐな答え。
私は目を伏せた。
尚さんは、今日、ちゃんと一歩踏み込んだ。
私を奪いに来たわけじゃない。
でも、自分の存在を私の前に置いた。
俺もここにいる、と。
「灯理さん」
「はい」
「俺は、登坂に負けたとはまだ言いません」
心臓が跳ねる。
尚さんは笑っていた。
今度は、少しだけいつもの顔だった。
「言ったら、本当に終わるので」
「佐伯さん」
「でも、登坂の方を見てる灯理さんを無理にこっち向かせるほど、雑な男でもないです」
その言葉に、胸が痛くなる。
尚さんは、優しい。
でも、ただの優しさではない。
ちゃんと悔しさもある。
それが、彼を急に生きた人にした。
「だから、今は」
尚さんはコーヒーを飲み干した。
「陽斗の担任として、灯理さんの味方でいます」
「今は?」
「今は」
その余白が怖かった。
でも、どこかで少しだけ安心もした。
尚さんが自分の気持ちをなかったことにしなかったから。
「ありがとうございます」
私はやっと言えた。
尚さんは、ふっと笑った。
「それは、担任の方にですか。男の方にですか」
困った。
本当に困った。
「両方です」
正直に言うと、尚さんは少しだけ目を丸くした。
それから、笑った。
「そういうところですよ、灯理さん」
「え?」
「ずるい」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
私はずるい。
利月くんを好きなのに、尚さんの優しさに救われている。
尚さんがいてくれることで、何度も息をしている。
それを分かっていて、手放せないでいる。
「ずるいですよね」
私が言うと、尚さんは首を横に振った。
「今のは、責めてないです」
「でも」
「ずるいくらい、人に入ってくるって意味です」
尚さんの声が少しやわらかくなる。
「だから登坂も、あんなに考え込んでるんでしょうね」
私は何も言えなかった。
尚さんは立ち上がった。
「陽斗のことは、ちゃんと見ます」
「はい」
「でも、灯理さんも見てください。陽斗が普通にしている時ほど」
「はい」
「それから」
「はい」
「登坂に、今日俺と会ったことは言っていいです」
私は顔を上げた。
「いいんですか」
「隠すと面倒になるので」
「そうですね」
「俺の気持ちまで言うかは、灯理さんに任せます」
それは、少し難しい宿題だった。
尚さんは伝票を手に取る。
「払います」
「だめです」
「今日は担任として呼んだので」
「会社の社長として来ました」
「そこ張り合います?」
「張り合います」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
結局、伝票は半分ずつにした。
店を出ると、冬の風が冷たかった。
尚さんはコートの襟を直しながら言った。
「灯理さん」
「はい」
「登坂と手、繋いだんですか」
心臓が飛び跳ねた。
「なんで」
「陽斗の顔で分かりました」
先生って怖い。
本当に怖い。
私は観念して頷いた。
「はい」
尚さんは、少しだけ空を見上げた。
「そっか」
その声は、軽かった。
でも、軽すぎた。
「佐伯さん」
「はい」
「ごめんなさい」
尚さんは、こちらを見た。
「謝るところじゃないです」
また、その言葉。
でも今度は少しだけ笑っていた。
「ただ」
「はい」
「俺も、手くらい繋ぎたかったです」
その一言は、冗談みたいに落ちた。
でも、冗談ではなかった。
私は息を止めた。
尚さんはすぐに笑った。
「今のは忘れてください」
忘れられるわけがない。
「忘れられません」
「じゃあ、覚えててください」
尚さんは、冬の空気の中で少しだけ肩をすくめた。
「俺も、ちゃんと男だったって」
その言葉を残して、尚さんは駅の方へ歩いていった。
私はその背中を、しばらく見ていた。
軽い人。
明るい人。
逃げ場みたいな人。
でも、その背中は少しだけ寂しかった。
家に帰る途中、スマホが震えた。
利月くんからだった。
今日は、陽斗は普通でしたか。
私は画面を見つめた。
すぐには返せなかった。
尚さんと会ったこと。
言われた言葉。
男の方で言いました、という声。
俺も、手くらい繋ぎたかったです、という冗談みたいな本音。
全部が、胸の中で揺れていた。
私は正直に打った。
今日、佐伯さんと話しました。
陽斗のことで。
送信。
少しして既読がつく。
返事は、いつもより早かった。
そうですか。
短い。
でも、その短さに少しだけ緊張が混じっている気がした。
私は続けて打った。
陽斗が少し頑張って普通にしている、と教えてくれました。
私も、ちゃんと見ます。
利月くんから、しばらく返事はなかった。
きっと考えている。
やがて、返事が来た。
俺も気をつけます。
佐伯が見てくれているのは、ありがたいです。
その文章を見て、胸が少し苦しくなった。
利月くんはまだ知らない。
尚さんが、担任としてだけではなく、男としても一歩踏み込んだことを。
言うべきなのか。
今はまだ、分からなかった。
窓の外には、冬の月が浮かんでいた。
欠けていても、そこにある月。
見えない気持ちも、なくなっているわけじゃない。
尚さんの気持ちも。
利月くんの不安も。
陽斗の小さな頑張りも。
私のずるさも。
全部、そこにある。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、尚さんの目の形をしていた。
明るく笑って、
でも本当は少し痛くて、
それでも誰かをちゃんと見ている目。
三角形の、もうひとつの角に灯る鍵だった。