硝子の鍵

Key·7 母で居る夜

タクシーの窓に、東京タワーの赤い光が流れていく。

さっきまで、私は利月くんの隣にいた。
東京タワーの下で、登坂という名前の意味を知った。

登坂美紗子先生。
私を見つけてくれた人。
私が教室に憧れるきっかけになった人。

その先生が、利月くんの母親だった。

そんな偶然があるのだろうか。

あるのだとしたら、私は何に導かれているのだろう。

でも今は、それを考えている場合じゃなかった。

陽斗が熱を出した。

その一言で、私は一瞬で母親に戻った。

社長でもない。
年齢を隠した女でもない。
東京タワーの下で恋に揺れていた私でもない。

陽斗の母。

それだけになる。

マンションに着くと、私はエレベーターのボタンをいつもより強く押した。

早く。
早く上がって。

高層階に住んでいることが、こんなに面倒に思えたのは初めてだった。

部屋に入ると、音葉が玄関まで来た。

「熱は?」

「三十八度二分です。水分は取れています。顔色は悪くないです」

「病院は?」

「今すぐ救急という感じではないと思います。でも、夜中に上がる可能性はあります」

音葉は淡々と言った。

その冷静さに助けられる。
でも同時に、胸が痛む。

本当は、私が最初にそばにいるべきだった。

「陽斗は?」

「寝室です」

私は靴を脱ぐのももどかしく、部屋へ向かった。

陽斗はベッドに横になっていた。
頬が少し赤い。
額に冷却シートを貼って、ぼんやり天井を見ている。

「陽斗」

声をかけると、彼がゆっくりこちらを見た。

「お母さん」

その声が、いつもより少しだけ弱い。

それだけで、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

「ごめんね、遅くなって」

「大丈夫」

陽斗はすぐにそう言った。

大丈夫。

その言葉に、私は一瞬動けなくなった。

私に似ている。

大丈夫じゃない時ほど、大丈夫と言うところが。

「大丈夫じゃなくていいよ」

私はベッドの横に座り、陽斗の額に手を当てた。

熱い。

子どもの熱は、どうしてこんなに怖いのだろう。
数字で見れば分かる。
症状で判断できる。
でも手のひらに触れる熱は、いつも理屈をすり抜ける。

「しんどい?」

「ちょっと」

「寒い?」

「今は平気」

「吐き気は?」

「ない」

「喉は?」

「少し痛い」

私は頷きながら、毛布を直した。

「水、飲める?」

「飲める」

音葉が横からストロー付きのコップを差し出してくれた。

陽斗が少し飲む。

その姿を見て、少しだけ安心した。

「今日、学校でしんどかった?」

「帰ってから」

「先生には言った?」

「言ってない」

「なんで」

「だって、帰れると思ったし」

小学生男子の雑な判断。

私は少しだけ呆れて、でも怒れなかった。

「次からは言って」

「うん」

陽斗は素直に頷いた。

その素直さが、熱のせいに見えて、また胸が痛んだ。

「佐伯先生に言えばよかった」

私が何気なく言うと、陽斗が目だけでこちらを見た。

「お母さん、今日佐伯先生と何話したの?」

心臓が小さく跳ねた。

「陽斗のこと」

「俺、なんかした?」

「してないよ」

「じゃあ何」

「学校で頑張ってるって」

陽斗は少し照れたように目をそらした。

「先生、余計なこと言う」

「いい先生だね」

そう言うと、陽斗は少し考える顔をした。

「佐伯先生、うるさいけど、見てる」

「見てる?」

「うん。忘れ物とかもだけど、なんか、見てる」

その言い方が、子どもらしくて、でも妙に正確だった。

尚さんは見ている。

子どもの嘘に気づく目。
寂しそうな子を見逃さない目。

彼はそう言った。

その言葉の通り、陽斗も彼に見られていることを感じている。

「登坂先生は?」

自分でも、どうして聞いたのか分からなかった。

陽斗は少し眠そうに瞬きをした。

「あんまり話さないけど、優しい」

「同じ学校なんだよね」

「うん。五年の先生。あと、委員会でたまに見る」

「そう」

それだけなのに、胸がざわつく。

陽斗の学校に利月くんがいる。

私がまだ本当を言えていない人が、息子の日常のすぐ近くにいる。

その事実は、思ったより重かった。

「お母さん、登坂先生知ってるの?」

陽斗の声に、私は息を止めた。

子どもは、ふいに核心に触れる。

「昨日、食事会で少しね」

「ふうん」

陽斗はそれ以上聞かなかった。

熱で眠いのだろう。
まぶたが少しずつ落ちていく。

「寝ていいよ」

「お母さん、いる?」

「いるよ」

「仕事は?」

「今日はここにいる」

陽斗は安心したように目を閉じた。

その顔を見て、私は胸の奥で何かが崩れるのを感じた。

母親なのに。
私は、こんな当たり前のことを、この子に確認させている。

お母さん、いる?

その言葉が、静かに刺さる。

「いるよ」

もう一度、小さく言った。

陽斗が眠ったあと、私はしばらくその寝顔を見ていた。

十二歳。

もう小さな子どもではない。
でも、大人でもない。

甘えたい時に、甘えていいと分からなくなる年頃。

私はこの子に、どれだけ我慢を覚えさせてしまったんだろう。

部屋の外へ出ると、音葉がリビングで待っていた。

「病院の夜間相談、念のため控えてあります」

「ありがとう」

「明日の朝、熱が下がらなければ受診ですね」

「うん」

私はソファに座った。

体から力が抜ける。

さっきまで東京タワーの下にいたことが、夢みたいだった。

「登坂先生とは話せましたか」

音葉が聞いた。

私は少しだけ目を伏せた。

「美紗子先生のことは話した」

「お母様だと?」

「うん」

「それで?」

「それで、陽斗の熱で帰ってきた」

「肝心なことは?」

音葉の声は優しいのに、逃げ道がない。

私は首を横に振った。

「言えなかった」

「そうですか」

責められるかと思った。

でも音葉は、それ以上何も言わなかった。

その沈黙の方が、胸に響く。

「言おうとはしたの」

「はい」

「でも、陽斗の電話が来て」

「はい」

「言えなかった」

「はい」

「私、ずるいね」

音葉がゆっくりこちらを見た。

「ずるいです」

即答だった。

私は思わず笑ってしまった。

「そこは慰めるところじゃない?」

「慰めるだけなら誰でもできます」

音葉は静かに言った。

「私は秘書なので、現実を見ます」

「秘書って、恋愛にも厳しいのね」

「社長が恋愛で会社以上に危ない橋を渡っているので」

返す言葉がなかった。

音葉は続けた。

「でも、陽斗くんのことを隠すのは、長くは無理です」

「分かってる」

「尚先生にはもう知られています」

「うん」

「登坂先生にも、いずれ知られます」

「うん」

「社長から言うのと、他から知るのでは、傷の形が違います」

その言葉が、静かに刺さった。

傷の形。

同じ事実でも、伝わり方で傷が変わる。

私は利月くんを傷つけたくない。
でも、もう嘘をついた時点で、傷つける準備は始まっているのかもしれない。

「怖い」

思わず本音が落ちた。

音葉は何も言わず、隣に座った。

「利月くんに、本当の私を見られるのが怖い」

声にしたら、ずっと抱えていたものが形になった。

「社長で、母親で、年上で、嘘をついた女で。そんな私を見られるのが怖い」

「それが本当の灯理さんです」

「分かってる」

「本当の灯理さんを見せないまま好きになられても、苦しいだけです」

分かっている。

分かっていることばかりだ。

でも、分かっているからできるなら、人はこんなに嘘をつかない。

その時、スマホが震えた。

画面を見ると、佐伯尚さんからだった。

陽斗、大丈夫ですか?

私は息を止めた。

尚さんには、もう知られている。

だからこの連絡は、ただの知り合いとしてではなく、担任として来ている。

でも、昨日の食事会で笑った尚さんとしても、そこにいる。

私は返信した。

熱はありますが、水分は取れています。今は寝ました。ご心配ありがとうございます。

すぐに返事が来た。

よかった。明日休むなら学校に連絡ください。
あと、灯理さんも寝てください。

最後の一文に、少し笑ってしまった。

音葉がのぞき込む。

「尚先生ですか」

「うん」

「なんて?」

「私も寝ろって」

「正論です」

「みんな私に正論ばっかり言う」

「正論から逃げるからです」

本当に、秘書は手厳しい。

私はもう一度スマホを見た。

少し迷ってから、尚さんに返信する。

今日はありがとうございました。校門で、変に巻き込んですみません。

返事はすぐだった。

もう巻き込まれてます。
でも、陽斗の担任としては知れてよかったです。

私は画面を見つめた。

陽斗の担任としては。

そうだ。

尚さんは、私の嘘に巻き込まれた男ではなく、まず陽斗の先生なのだ。

それが、今はありがたかった。

登坂には、まだ言えてません。

送るか迷って、結局送った。

しばらく既読がつかなかった。

その数十秒が、やけに長い。

やがて、返事が来た。

でしょうね。

思わず苦笑した。

続けて、もう一通。

でも、言うなら早い方がいいです。
あいつ、たぶん気づくの遅いけど、気づいたら深く考えるタイプなので。

利月くんらしい。

気づくのは遅い。
でも、気づいたら深く考える。

そんな人だから、私は怖いのだ。

軽く流してくれない。
冗談で終わらせてくれない。
きっと、ちゃんと傷つく。

分かっています。

そう返すと、尚さんから短く来た。

分かってるなら、逃げないでください。

私はスマホを胸に当てた。

尚さんの言葉は、時々まっすぐすぎて痛い。

でも、必要な痛みだった。

その夜、私は陽斗の寝室に布団を敷いて横になった。

高層マンションの広い寝室ではなく、息子のベッドの横。
手を伸ばせば、陽斗の額に触れられる距離。

昔、陽斗がもっと小さかった頃は、よくこうして寝ていた。

熱を出すと、私は一晩中眠れなかった。
仕事のことも忘れて、ただ呼吸を数えていた。

いつからだろう。

仕事を優先して、音葉や母に頼ることが当たり前になったのは。

もちろん、そうしなければ回らない日もあった。
私ひとりでは抱えきれないことばかりだった。

でも、だからといって寂しさが消えるわけじゃない。

陽斗が小さく寝返りを打った。

「お母さん……」

寝言みたいな声。

「いるよ」

私はすぐに答えた。

陽斗は目を開けなかった。
でも、少し安心したように息を吐いた。

その瞬間、私は決めた。

利月くんに話そう。

年齢のこと。
社長であること。
母であること。

全部を一度にうまく話せる自信はない。
きっと怖くて、言葉も足りなくなる。

それでも、言わなきゃいけない。

私は、母であることを恥じているわけじゃない。
社長であることを捨てたいわけでもない。
年齢をなかったことにしたいわけでもない。

ただ、彼の前でだけ、少しだけ身軽になりたかった。

それが嘘になってしまった。

だから、今度は自分で鍵を開けなければならない。

夜中、陽斗の熱は少し下がった。

私は安心して、うとうとしかけた。

その時、スマホが静かに震えた。

画面の明かりが、暗い部屋に小さく浮かぶ。

通知は、知らない番号からだった。

登坂です。
音葉さんから連絡先を聞きました。突然すみません。
陽斗くん、大丈夫ですか。

私は目を見開いた。

利月くん。

どうして、陽斗の名前を。

一瞬、頭が真っ白になった。

すぐに分かった。

音葉だ。

きっと音葉が、必要だと思って繋げた。

心臓が大きく鳴る。

陽斗の寝息が、隣で静かに聞こえている。

私は震える指で画面を見つめた。

利月くんが、陽斗の名前を知っている。

まだ、私が母だとは知らないかもしれない。

でも、扉はもう少し開いてしまった。

私はゆっくり文字を打った。

大丈夫です。熱は少し下がりました。ご心配ありがとうございます。

送信ボタンを押す直前、指が止まった。

この返事は、何の立場でするのだろう。

知り合いとして。
母として。
嘘をついた女として。

私は一度、全部消した。

そして、打ち直した。

陽斗は大丈夫です。
私が今、そばにいます。

送った瞬間、胸の奥で鍵が鳴った。

小さく、でもはっきりと。

これは、母の鍵だった。

数分後、利月くんから返事が来た。

よかったです。
そばにいてあげてください。
子どもは、起きていなくても分かるので。

その言葉を読んだ瞬間、涙がこぼれた。

なぜ泣いたのか、自分でも分からなかった。

先生としての言葉だったからか。
利月くん自身の優しさだったからか。
それとも、私が一番言ってほしかった言葉だったからか。

私は陽斗の寝顔を見た。

そばにいる。

今夜だけじゃなく、これからも。

私はこの子の母として、利月くんの前に立たなきゃいけない。

東京タワーの下ではなく、
高い部屋の中で、
息子の寝息を聞きながら、
私は初めてそう思った。

硝子の鍵は、またひとつ増えた。

けれど今度の鍵は、閉じるためじゃない。

開けるために、手の中で冷たく光っていた。
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