硝子の鍵
Key·8 言えないままの朝
朝になって、陽斗の熱は三十七度台まで下がっていた。
それだけで、世界が少しだけ普通に戻った気がした。
カーテンの隙間から入る朝の光は、夜の東京タワーとは違って、何も隠してくれない。
部屋の中にあるものを、静かに全部見せる。
ベッドの横に敷いた布団。
飲みかけの水。
使い終わった体温計。
陽斗の額からはがれかけた冷却シート。
そして、眠れなかった私の顔。
「お母さん」
陽斗が、かすれた声で私を呼んだ。
「ん?」
「学校、休み?」
「今日は休もう」
「佐伯先生に言っといて」
「うん」
「漢字プリント、机の中」
「それは先生に怒られるやつ」
「だから言っといて」
熱が下がっても、口は元気だった。
私は少し笑って、陽斗の髪を撫でた。
「分かった。言っておく」
陽斗は安心したように目を閉じた。
その顔を見ながら、私はスマホを手に取った。
学校への欠席連絡。
いつもなら音葉がしてくれる。
でも今日は、自分でしようと思った。
母として。
そんな当たり前のことに、少しだけ覚悟がいる自分が情けない。
学校に電話を入れると、事務の人が出た。
陽斗の名前とクラスを伝える。
しばらくして、尚さんにつながった。
はい、佐伯です。
昨日とは違う、仕事中の声だった。
「おはようございます。陽斗の母です」
言ってから、胸が少しだけ熱くなった。
陽斗の母。
昨日までは隠していた言葉。
今朝は、自分から言った。
おはようございます。熱、どうですか?
「三十七度台まで下がりました。でも今日は休ませます」
その方がいいですね。水分は?
「取れてます」
よかったです。プリントはあとで音葉さんに渡せます。あ、漢字プリント机の中ですよね。
思わず笑ってしまった。
「陽斗が言ってました」
やっぱり。あいつ、そういうところは自覚あるんですよね。
電話越しの尚さんは、いつもの軽さを少しだけ含んでいた。
でもその奥に、担任としての落ち着きがあった。
「昨日は、ありがとうございました」
何回も言わなくていいです。
「でも」
それより、ちゃんと寝ました?
私は答えに詰まった。
寝てないですね。
「先生って、電話越しでも分かるんですか」
分かります。嘘が雑なので。
そう言われて、少しだけ肩の力が抜けた。
尚さんは近い。
近すぎて怖い時もある。
でも今は、その近さに少し助けられている。
登坂には、話せそうですか。
心臓が、静かに跳ねた。
「……まだ」
でしょうね。
「その言い方、昨日も聞きました」
何回でも言います。でしょうね。
私は額に手を当てた。
「今、陽斗が熱で寝てるので」
分かってます。今すぐ言えって話じゃないです。
尚さんの声が、少しだけ真面目になる。
でも、灯理さん。時間が経つほど、言葉は重くなります。
その言葉は、朝の光みたいだった。
逃げ場がない。
「分かってます」
その“分かってます”も、何回も聞きました。
「佐伯さん、けっこう厳しいですね」
担任なので。
「私の担任じゃないです」
陽斗の担任です。だから言ってます。
返す言葉がなかった。
尚さんは、私の恋を心配しているだけじゃない。
陽斗を見ている。
私が嘘を重ねれば、いつか陽斗にも影が落ちるかもしれない。
尚さんはそこを見ている。
だから、彼の言葉は痛い。
痛いけれど、信用できた。
電話を切る前に、尚さんが言った。
陽斗には、今日はゆっくり休めって伝えてください。
それと、灯理さんもです。
「はい」
あと。
「はい」
登坂、昨日ちょっと様子変でした。
息が止まった。
「どういう意味ですか」
さあ。俺は本人じゃないので。
「佐伯さん」
でも、東京タワーの方を見てましたよ。朝、職員室の窓から。
それだけ言って、尚さんはいつもの調子で、
では、お大事に。
と電話を切った。
私はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
東京タワーの方を見ていた。
利月くんが。
朝の職員室で。
ただの偶然かもしれない。
窓の外を見ただけかもしれない。
でも、私の心は勝手にそこへ意味を置いてしまう。
昨夜のことを思い出していたのだろうか。
美紗子先生のことを。
私のことを。
それとも。
まだ言えなかった、私の秘密の気配を。
リビングに戻ると、音葉が朝食を整えていた。
おかゆと、薄い味噌汁。
陽斗用のゼリー飲料。
私用には、なぜか温かいほうじ茶だけ。
「私は?」
「まず飲んでください」
「食べ物は?」
「食べる気、あります?」
「……ない」
「では、まず飲んでください」
この人は本当に、私の体調まで管理している。
私はほうじ茶を受け取り、ソファに座った。
湯気が上がる。
その向こうに、朝の東京タワーがかすかに見えた。
夜の赤い光とは違う、薄い輪郭。
昨夜、利月くんが立っていた場所。
美紗子先生の言葉が、私たちの間に落ちた場所。
「登坂先生から、連絡は?」
音葉が聞いた。
私はスマホを見る。
夜中に届いた最後のメッセージ。
そばにいてあげてください。
子どもは、起きていなくても分かるので。
その一文を、何度も読んだ。
利月くんは知らない。
その子どもが、彼の学校にいる陽斗だということ。
時々廊下で注意している、図書室で本の話をする、あの陽斗だということ。
知らないまま、こんなに優しい言葉をくれる。
それが苦しかった。
「返したんですか」
「まだ」
「なぜ」
「なんて返せばいいか分からない」
音葉はため息をついた。
「普通に返せばいいんです」
「普通って何」
「ご心配ありがとうございます、でいいです」
「それだけ?」
「それだけです。全部を一度に告白しようとするから動けなくなるんです」
たしかに、そうかもしれない。
私はいつも、言うなら全部言わなければと思ってしまう。
だから怖くなって、何も言えなくなる。
まずは、返事。
それだけでいい。
私はスマホを開いた。
昨日はありがとうございました。
熱は少し下がりました。
そばにいられてよかったです。
送信する前に、何度も読み返す。
母であることは、まだ直接言っていない。
でも、隠してもいない。
“そばにいられてよかった”
それは本当だった。
私は送信ボタンを押した。
すぐには既読にならなかった。
それだけで、胸がざわつく。
仕事なら、返信が遅くても気にならない。
相手にも都合がある。
そう割り切れる。
でも利月くんからの返事だけは、数分がやけに長い。
私はスマホを伏せた。
「見ない」
「五秒で見ますよね」
「見ない」
「三」
「やめて」
「二」
スマホが震えた。
音葉が、ほらという顔をした。
私は負けた気持ちで画面を見る。
利月くんからだった。
よかったです。
灯理さんも、少し休んでください。
灯理さん。
その呼び方が、胸に落ちる。
社長ではなく。
母でもなく。
私が彼に見せた、いちばん軽い名前。
でも今の私は、その名前だけでは立っていられない。
私は返事を打ちかけて、やめた。
また、言葉を選びすぎている。
それでも今は、これ以上近づくのが怖かった。
昼過ぎ、陽斗の熱はさらに下がった。
食欲は少しだけ戻り、おかゆを半分食べた。
そのあと、眠いと言ってまた寝室に戻った。
私は彼の寝顔を確認してから、リビングで仕事の資料を開いた。
数字が並んでいる。
売上。
人件費。
契約更新。
新規事業の予定。
どれも大事なことだ。
でも、頭に入ってこない。
ペンを持ったまま、私は何度も東京タワーの方を見てしまう。
高い部屋から見る東京タワー。
足元から見上げる東京タワー。
私はどちらの場所に立ちたいのだろう。
社長としての私がいるのは、高い場所だ。
守るものが多くて、遠くまで見えすぎる場所。
利月くんと会う東京タワーの下は、足元を見る場所。
嘘を抱えたままでも、地面に立っていることを思い出せる場所。
美紗子先生は、私に足元を教えてくれた。
利月くんも、同じ言葉を持っていた。
だから怖い。
私が隠しているものまで、いつか見つけられてしまいそうで。
夕方、陽斗が目を覚ました。
「お母さん」
「ん?」
「明日、学校行けるかな」
「熱が下がって、朝元気だったらね」
「休むとプリントたまる」
「そこ気にするんだ」
「佐伯先生、すぐ言うもん」
「何て?」
「陽斗、あとで泣くの自分だぞって」
私は笑ってしまった。
「佐伯先生らしいね」
陽斗は枕に顔をうずめる。
「あと、登坂先生に借りた本、返す日だった」
「図書室の?」
「うん」
「何借りたの?」
「星の本」
「星?」
「太陽とか月とか、惑星とか載ってるやつ」
胸が、少しだけ鳴った。
太陽。
月。
陽斗と、利月くん。
名前だけで繋げるなんて、馬鹿みたいだと思う。
でも、物語みたいな偶然ばかりが続くと、人は少しだけ信じたくなる。
「面白かった?」
「うん。月って、自分で光ってるわけじゃないんだって」
陽斗は眠そうな声で言った。
「太陽の光を反射してるだけなんだって」
私は、返事ができなかった。
利月。
月の字を持つ人。
そして陽斗。
陽の字を持つ子。
私の胸の中で、名前が静かに並んだ。
「でもさ」
陽斗が続けた。
「光ってるように見えるなら、それでいいよね」
「……どうして?」
「だって、夜に明るいし」
陽斗の言葉はいつも、何気ないふりをして深いところに落ちてくる。
光っているように見えるなら、それでいい。
私は、そうやって生きてきたのかもしれない。
本当は自分で光れていなくても、
社長として、母として、ちゃんとして見えるなら、それでいい。
でも、利月くんの前では。
私は、反射した光じゃなくて、本当の暗さごと見られるのが怖い。
「登坂先生、星好きなの?」
私が聞くと、陽斗は少し考えた。
「たぶん。本選んでくれた」
「そうなんだ」
「これなら陽斗も読めるって」
胸の奥が、やわらかく痛んだ。
利月くんは、陽斗を知っている。
ただの児童として。
図書室に来る、星の本を借りる子として。
私の知らない陽斗を、彼は見ていた。
それが、嬉しくて、怖い。
「お母さん」
「なに?」
「登坂先生って、ちょっと静かだけどさ」
「うん」
「俺、嫌いじゃないよ」
その言葉に、私は目を伏せた。
「そっか」
「うん。佐伯先生はうるさいけど好き」
「両方好きってことね」
「まあね」
陽斗は少し照れたように布団をかぶった。
私はその横顔を見つめた。
陽斗は知らない。
母が、その静かな先生に心を揺らしていることを。
その先生に、本当のことを言えずにいることを。
この子を巻き込みたくない。
でも、もう巻き込まない恋なんてできないところまで来ている。
夜になって、陽斗はもう一度熱を測った。
三十六度八分。
「下がった」
嬉しそうに体温計を見せる陽斗に、私はほっと息を吐いた。
「よかった」
「明日学校行ける?」
「朝もう一回測ってから」
「分かった」
陽斗は少し元気を取り戻し、軽く夕食を食べた。
そのあと、また寝室へ戻る。
私はリビングで、ひとりスマホを見ていた。
利月くんとのメッセージ画面。
何か送るべきか。
送らない方がいいのか。
そんなことを考えている時点で、もう答えは出ている気がした。
会いたい。
でも、会うなら言わなきゃいけない。
私はメッセージ欄に文字を打った。
今度、東京タワーで会えますか。
話したいことがあります。
そこまで打って、指が止まった。
重い。
あまりにも重い。
でも、軽く誘うことはもうできなかった。
私は一度消した。
そして、もう一度打った。
眠れない夜じゃなくても、
また東京タワーで会えますか。
これなら、少しだけ柔らかい。
でも、意味は同じだった。
私はしばらく画面を見つめていた。
送れば、何かが進む。
送らなければ、何も変わらない。
その時、陽斗の寝室から小さな咳が聞こえた。
私は立ち上がりかけて、すぐに止まった。
大丈夫。
ただの咳だ。
でも、私はもう知っている。
そばにいることから、逃げちゃいけない。
スマホに戻り、私は送信ボタンを押した。
数分後、既読がついた。
心臓が、ゆっくり鳴る。
返事は短かった。
はい。
俺も、話したいことがあります。
私は画面を見つめたまま、動けなくなった。
俺も。
利月くんにも、話したいことがある。
それが美紗子先生のことなのか。
東京タワーのことなのか。
それとも、私のことなのか。
分からない。
でも、もう逃げられない。
硝子の鍵が、手の中で冷たく光っている。
次に東京タワーの下に立つ時、
私はきっと、ひとつ鍵を開けなければならない。
たとえその先で、何かが壊れたとしても。
それだけで、世界が少しだけ普通に戻った気がした。
カーテンの隙間から入る朝の光は、夜の東京タワーとは違って、何も隠してくれない。
部屋の中にあるものを、静かに全部見せる。
ベッドの横に敷いた布団。
飲みかけの水。
使い終わった体温計。
陽斗の額からはがれかけた冷却シート。
そして、眠れなかった私の顔。
「お母さん」
陽斗が、かすれた声で私を呼んだ。
「ん?」
「学校、休み?」
「今日は休もう」
「佐伯先生に言っといて」
「うん」
「漢字プリント、机の中」
「それは先生に怒られるやつ」
「だから言っといて」
熱が下がっても、口は元気だった。
私は少し笑って、陽斗の髪を撫でた。
「分かった。言っておく」
陽斗は安心したように目を閉じた。
その顔を見ながら、私はスマホを手に取った。
学校への欠席連絡。
いつもなら音葉がしてくれる。
でも今日は、自分でしようと思った。
母として。
そんな当たり前のことに、少しだけ覚悟がいる自分が情けない。
学校に電話を入れると、事務の人が出た。
陽斗の名前とクラスを伝える。
しばらくして、尚さんにつながった。
はい、佐伯です。
昨日とは違う、仕事中の声だった。
「おはようございます。陽斗の母です」
言ってから、胸が少しだけ熱くなった。
陽斗の母。
昨日までは隠していた言葉。
今朝は、自分から言った。
おはようございます。熱、どうですか?
「三十七度台まで下がりました。でも今日は休ませます」
その方がいいですね。水分は?
「取れてます」
よかったです。プリントはあとで音葉さんに渡せます。あ、漢字プリント机の中ですよね。
思わず笑ってしまった。
「陽斗が言ってました」
やっぱり。あいつ、そういうところは自覚あるんですよね。
電話越しの尚さんは、いつもの軽さを少しだけ含んでいた。
でもその奥に、担任としての落ち着きがあった。
「昨日は、ありがとうございました」
何回も言わなくていいです。
「でも」
それより、ちゃんと寝ました?
私は答えに詰まった。
寝てないですね。
「先生って、電話越しでも分かるんですか」
分かります。嘘が雑なので。
そう言われて、少しだけ肩の力が抜けた。
尚さんは近い。
近すぎて怖い時もある。
でも今は、その近さに少し助けられている。
登坂には、話せそうですか。
心臓が、静かに跳ねた。
「……まだ」
でしょうね。
「その言い方、昨日も聞きました」
何回でも言います。でしょうね。
私は額に手を当てた。
「今、陽斗が熱で寝てるので」
分かってます。今すぐ言えって話じゃないです。
尚さんの声が、少しだけ真面目になる。
でも、灯理さん。時間が経つほど、言葉は重くなります。
その言葉は、朝の光みたいだった。
逃げ場がない。
「分かってます」
その“分かってます”も、何回も聞きました。
「佐伯さん、けっこう厳しいですね」
担任なので。
「私の担任じゃないです」
陽斗の担任です。だから言ってます。
返す言葉がなかった。
尚さんは、私の恋を心配しているだけじゃない。
陽斗を見ている。
私が嘘を重ねれば、いつか陽斗にも影が落ちるかもしれない。
尚さんはそこを見ている。
だから、彼の言葉は痛い。
痛いけれど、信用できた。
電話を切る前に、尚さんが言った。
陽斗には、今日はゆっくり休めって伝えてください。
それと、灯理さんもです。
「はい」
あと。
「はい」
登坂、昨日ちょっと様子変でした。
息が止まった。
「どういう意味ですか」
さあ。俺は本人じゃないので。
「佐伯さん」
でも、東京タワーの方を見てましたよ。朝、職員室の窓から。
それだけ言って、尚さんはいつもの調子で、
では、お大事に。
と電話を切った。
私はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
東京タワーの方を見ていた。
利月くんが。
朝の職員室で。
ただの偶然かもしれない。
窓の外を見ただけかもしれない。
でも、私の心は勝手にそこへ意味を置いてしまう。
昨夜のことを思い出していたのだろうか。
美紗子先生のことを。
私のことを。
それとも。
まだ言えなかった、私の秘密の気配を。
リビングに戻ると、音葉が朝食を整えていた。
おかゆと、薄い味噌汁。
陽斗用のゼリー飲料。
私用には、なぜか温かいほうじ茶だけ。
「私は?」
「まず飲んでください」
「食べ物は?」
「食べる気、あります?」
「……ない」
「では、まず飲んでください」
この人は本当に、私の体調まで管理している。
私はほうじ茶を受け取り、ソファに座った。
湯気が上がる。
その向こうに、朝の東京タワーがかすかに見えた。
夜の赤い光とは違う、薄い輪郭。
昨夜、利月くんが立っていた場所。
美紗子先生の言葉が、私たちの間に落ちた場所。
「登坂先生から、連絡は?」
音葉が聞いた。
私はスマホを見る。
夜中に届いた最後のメッセージ。
そばにいてあげてください。
子どもは、起きていなくても分かるので。
その一文を、何度も読んだ。
利月くんは知らない。
その子どもが、彼の学校にいる陽斗だということ。
時々廊下で注意している、図書室で本の話をする、あの陽斗だということ。
知らないまま、こんなに優しい言葉をくれる。
それが苦しかった。
「返したんですか」
「まだ」
「なぜ」
「なんて返せばいいか分からない」
音葉はため息をついた。
「普通に返せばいいんです」
「普通って何」
「ご心配ありがとうございます、でいいです」
「それだけ?」
「それだけです。全部を一度に告白しようとするから動けなくなるんです」
たしかに、そうかもしれない。
私はいつも、言うなら全部言わなければと思ってしまう。
だから怖くなって、何も言えなくなる。
まずは、返事。
それだけでいい。
私はスマホを開いた。
昨日はありがとうございました。
熱は少し下がりました。
そばにいられてよかったです。
送信する前に、何度も読み返す。
母であることは、まだ直接言っていない。
でも、隠してもいない。
“そばにいられてよかった”
それは本当だった。
私は送信ボタンを押した。
すぐには既読にならなかった。
それだけで、胸がざわつく。
仕事なら、返信が遅くても気にならない。
相手にも都合がある。
そう割り切れる。
でも利月くんからの返事だけは、数分がやけに長い。
私はスマホを伏せた。
「見ない」
「五秒で見ますよね」
「見ない」
「三」
「やめて」
「二」
スマホが震えた。
音葉が、ほらという顔をした。
私は負けた気持ちで画面を見る。
利月くんからだった。
よかったです。
灯理さんも、少し休んでください。
灯理さん。
その呼び方が、胸に落ちる。
社長ではなく。
母でもなく。
私が彼に見せた、いちばん軽い名前。
でも今の私は、その名前だけでは立っていられない。
私は返事を打ちかけて、やめた。
また、言葉を選びすぎている。
それでも今は、これ以上近づくのが怖かった。
昼過ぎ、陽斗の熱はさらに下がった。
食欲は少しだけ戻り、おかゆを半分食べた。
そのあと、眠いと言ってまた寝室に戻った。
私は彼の寝顔を確認してから、リビングで仕事の資料を開いた。
数字が並んでいる。
売上。
人件費。
契約更新。
新規事業の予定。
どれも大事なことだ。
でも、頭に入ってこない。
ペンを持ったまま、私は何度も東京タワーの方を見てしまう。
高い部屋から見る東京タワー。
足元から見上げる東京タワー。
私はどちらの場所に立ちたいのだろう。
社長としての私がいるのは、高い場所だ。
守るものが多くて、遠くまで見えすぎる場所。
利月くんと会う東京タワーの下は、足元を見る場所。
嘘を抱えたままでも、地面に立っていることを思い出せる場所。
美紗子先生は、私に足元を教えてくれた。
利月くんも、同じ言葉を持っていた。
だから怖い。
私が隠しているものまで、いつか見つけられてしまいそうで。
夕方、陽斗が目を覚ました。
「お母さん」
「ん?」
「明日、学校行けるかな」
「熱が下がって、朝元気だったらね」
「休むとプリントたまる」
「そこ気にするんだ」
「佐伯先生、すぐ言うもん」
「何て?」
「陽斗、あとで泣くの自分だぞって」
私は笑ってしまった。
「佐伯先生らしいね」
陽斗は枕に顔をうずめる。
「あと、登坂先生に借りた本、返す日だった」
「図書室の?」
「うん」
「何借りたの?」
「星の本」
「星?」
「太陽とか月とか、惑星とか載ってるやつ」
胸が、少しだけ鳴った。
太陽。
月。
陽斗と、利月くん。
名前だけで繋げるなんて、馬鹿みたいだと思う。
でも、物語みたいな偶然ばかりが続くと、人は少しだけ信じたくなる。
「面白かった?」
「うん。月って、自分で光ってるわけじゃないんだって」
陽斗は眠そうな声で言った。
「太陽の光を反射してるだけなんだって」
私は、返事ができなかった。
利月。
月の字を持つ人。
そして陽斗。
陽の字を持つ子。
私の胸の中で、名前が静かに並んだ。
「でもさ」
陽斗が続けた。
「光ってるように見えるなら、それでいいよね」
「……どうして?」
「だって、夜に明るいし」
陽斗の言葉はいつも、何気ないふりをして深いところに落ちてくる。
光っているように見えるなら、それでいい。
私は、そうやって生きてきたのかもしれない。
本当は自分で光れていなくても、
社長として、母として、ちゃんとして見えるなら、それでいい。
でも、利月くんの前では。
私は、反射した光じゃなくて、本当の暗さごと見られるのが怖い。
「登坂先生、星好きなの?」
私が聞くと、陽斗は少し考えた。
「たぶん。本選んでくれた」
「そうなんだ」
「これなら陽斗も読めるって」
胸の奥が、やわらかく痛んだ。
利月くんは、陽斗を知っている。
ただの児童として。
図書室に来る、星の本を借りる子として。
私の知らない陽斗を、彼は見ていた。
それが、嬉しくて、怖い。
「お母さん」
「なに?」
「登坂先生って、ちょっと静かだけどさ」
「うん」
「俺、嫌いじゃないよ」
その言葉に、私は目を伏せた。
「そっか」
「うん。佐伯先生はうるさいけど好き」
「両方好きってことね」
「まあね」
陽斗は少し照れたように布団をかぶった。
私はその横顔を見つめた。
陽斗は知らない。
母が、その静かな先生に心を揺らしていることを。
その先生に、本当のことを言えずにいることを。
この子を巻き込みたくない。
でも、もう巻き込まない恋なんてできないところまで来ている。
夜になって、陽斗はもう一度熱を測った。
三十六度八分。
「下がった」
嬉しそうに体温計を見せる陽斗に、私はほっと息を吐いた。
「よかった」
「明日学校行ける?」
「朝もう一回測ってから」
「分かった」
陽斗は少し元気を取り戻し、軽く夕食を食べた。
そのあと、また寝室へ戻る。
私はリビングで、ひとりスマホを見ていた。
利月くんとのメッセージ画面。
何か送るべきか。
送らない方がいいのか。
そんなことを考えている時点で、もう答えは出ている気がした。
会いたい。
でも、会うなら言わなきゃいけない。
私はメッセージ欄に文字を打った。
今度、東京タワーで会えますか。
話したいことがあります。
そこまで打って、指が止まった。
重い。
あまりにも重い。
でも、軽く誘うことはもうできなかった。
私は一度消した。
そして、もう一度打った。
眠れない夜じゃなくても、
また東京タワーで会えますか。
これなら、少しだけ柔らかい。
でも、意味は同じだった。
私はしばらく画面を見つめていた。
送れば、何かが進む。
送らなければ、何も変わらない。
その時、陽斗の寝室から小さな咳が聞こえた。
私は立ち上がりかけて、すぐに止まった。
大丈夫。
ただの咳だ。
でも、私はもう知っている。
そばにいることから、逃げちゃいけない。
スマホに戻り、私は送信ボタンを押した。
数分後、既読がついた。
心臓が、ゆっくり鳴る。
返事は短かった。
はい。
俺も、話したいことがあります。
私は画面を見つめたまま、動けなくなった。
俺も。
利月くんにも、話したいことがある。
それが美紗子先生のことなのか。
東京タワーのことなのか。
それとも、私のことなのか。
分からない。
でも、もう逃げられない。
硝子の鍵が、手の中で冷たく光っている。
次に東京タワーの下に立つ時、
私はきっと、ひとつ鍵を開けなければならない。
たとえその先で、何かが壊れたとしても。