硝子の鍵
Key·9 話したいこと
はい。
俺も、話したいことがあります。
利月くんから届いたその返事を、私は何度も読み返した。
俺も、話したいことがある。
その「俺も」が、胸の奥に引っかかって離れない。
私が話したいことは、はっきりしていた。
本当の年齢。
社長であること。
陽斗の母であること。
そして、最初の夜に同じ歳くらいだと言われて、否定しなかったこと。
嘘をついた、というより、
嘘にしてしまったこと。
けれど利月くんの「話したいこと」は、何なのだろう。
美紗子先生のこと。
東京タワーのこと。
それとも、私のこと。
考えれば考えるほど、答えは夜の中に沈んでいった。
「お母さん」
寝室から陽斗の声がした。
私はスマホを伏せて立ち上がる。
「なに?」
「明日、学校行けそう」
ベッドの上で、陽斗は体温計を見せてきた。
三十六度七分。
「下がったね」
「うん。登坂先生に本返さなきゃ」
その名前に、胸が小さく跳ねる。
「本、そんなに大事?」
「だって返却日過ぎたら言われるし」
「細かいって言ってたもんね」
「細かい。でもさ」
陽斗は少し考える顔をした。
「登坂先生、怒るっていうより、ちゃんと覚えてるんだよね」
「覚えてる?」
「誰が何借りたとか、誰がどこで止まってるとか。俺が星の本好きなのも覚えてたし」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
利月くんは、陽斗を見ている。
担任ではない。
でも、図書室で、廊下で、学校の小さな場所で、陽斗をちゃんと見てくれている。
私が知らなかった陽斗を。
そのことが、嬉しくて、苦しかった。
「いい先生だね」
私が言うと、陽斗は少し照れたように布団を直した。
「まあね。でも佐伯先生の方が面白い」
「尚先生は面白いんだ」
「うるさいけどね」
「うるさい先生多くない?」
「学校ってそういうとこ」
陽斗は当たり前みたいに言った。
その言い方に笑ってしまう。
この子の世界には、ちゃんと学校がある。
先生がいて、友達がいて、プリントがあって、返さなきゃいけない本があって、廊下を走ると注意してくれる人がいる。
私はその世界に、母としてどれだけ立てていたのだろう。
考えかけて、やめた。
責めるだけでは何も変わらない。
戻ろうとする人のことよ。
母の言葉が、ふと浮かぶ。
私は、戻ろうとしている。
まだうまくできなくても。
「明日、無理そうなら休むんだよ」
「分かってる」
「ほんとに?」
「お母さんもしつこい」
「母親だから」
そう言うと、陽斗は少しだけ笑った。
「今日のお母さん、母親っぽい」
「いつもでしょ」
「今日は濃い」
「母親濃度?」
「そう」
陽斗の雑な言葉に、私は笑った。
その笑い声が、部屋の中で少しだけやわらかく響く。
久しぶりに、母として笑えた気がした。
陽斗が眠ったあと、私はリビングに戻った。
窓の外には、東京タワーが見える。
今夜は行かない。
会う約束は、明日の夜になった。
眠れない夜じゃなくても、
また東京タワーで会えますか。
そう送った私に、利月くんは「はい」と返した。
逃げ道のない返事だった。
音葉がキッチンから顔を出す。
「明日ですか」
「何が」
「東京タワー」
「……なんで分かるの」
「社長がさっきから東京タワーを睨んでいるので」
「睨んでない」
「睨んでます。恋の敵みたいに」
「東京タワーに負ける恋って何」
音葉は少しだけ笑い、温かいお茶を私の前に置いた。
「明日、話すんですね」
「うん」
「全部?」
その言葉に、私は湯呑みを持つ手を止めた。
全部。
簡単な二文字なのに、重い。
「全部、話せるかな」
「話すしかないと思います」
「そういう正論、今はいらない」
「では、優しい言葉を言います」
音葉はまっすぐ私を見た。
「怖くても、灯理さんは話せます」
その言葉は、思っていたより優しかった。
私は顔を上げる。
「何それ」
「優しい言葉です」
「ちょっと泣きそうになるからやめて」
「泣いてもいいです」
「それもやめて」
音葉は黙って、私の隣に座った。
この人は、私が社長として立っている姿を一番近くで見てきた。
人前で泣かないことも、
弱音を言う前に仕事を片づけてしまうことも、
陽斗の学校行事の案内を見て、一瞬だけ手を止めることも。
たぶん、全部知っている。
「音葉」
「はい」
「私、ひどいよね」
「どの件ですか」
「多すぎる?」
「はい」
思わず笑ってしまう。
音葉は少しも笑わなかった。
「でも、ひどい人は、自分をひどいと思って苦しんだりしません」
「それ、慰め?」
「事実です」
「音葉って、優しいのか厳しいのか分からない」
「両方です」
そう言って、彼女は湯呑みに視線を落とした。
「灯理さんは、社長であることも、母であることも、年齢も、全部隠していました」
「うん」
「でも、それは相手を騙して遊びたかったからではないでしょう」
私は小さく頷いた。
「ただ、少しだけ身軽になりたかった」
音葉が言った。
その言葉に、胸が痛む。
そうだ。
私は身軽になりたかった。
社長でもなく、母でもなく、家を継いだ娘でもなく。
ただ、食事会で笑う女になりたかった。
利月くんの前でだけ。
「でも、身軽なふりをしても、抱えているものは消えません」
「うん」
「明日は、それを持ったまま立ってください」
音葉の声は静かだった。
「全部持ったまま、東京タワーの下に」
私は窓の外を見た。
東京タワーは、赤く光っている。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
美紗子先生の声がする。
私はちゃんと、足元から立てるだろうか。
嘘で閉じていた鍵を、自分で開けられるだろうか。
翌日、陽斗は学校へ行った。
朝の体温は平熱。
食欲も戻っていた。
「無理しないでね」
玄関で言うと、陽斗は少し面倒そうな顔をした。
「分かってるって」
「本当に?」
「お母さん、昨日から母親濃い」
「濃くていいの」
「まあ、いいけど」
陽斗は靴を履きながら、ふと思い出したように言った。
「登坂先生に本返してくる」
「うん」
「あと、佐伯先生に昨日休んですみませんって言う」
「偉い」
「お母さんが言えって顔してるから」
「してた?」
「してた」
陽斗はそう言って、鞄を背負った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる。
その音を聞いて、私はしばらく玄関に立っていた。
行ってらっしゃい。
ただそれだけの言葉を、私は今までどれだけ急いで言ってきただろう。
今日のその言葉は、少しだけ胸に残った。
会社に着くと、いつものように予定が詰まっていた。
午前中は会議。
昼は取引先との打ち合わせ。
午後は資料確認と決裁。
社長としての私は、きちんと働いた。
言葉を選び、数字を見て、必要な判断をした。
けれど、ふとした瞬間に東京タワーが頭に浮かぶ。
夜になったら、利月くんに会う。
そう思うたびに、胸の奥で鍵が冷たく鳴った。
夕方、音葉が資料を置きに来た。
「本日の予定は、十八時で終わりです」
「珍しい」
「終わらせました」
「音葉が?」
「はい」
彼女は当然のように言った。
「東京タワーに遅刻しないように」
私は少しだけ苦笑した。
「仕事早すぎ」
「秘書なので」
それだけ言って、音葉は一枚の封筒を差し出した。
「それと、こちら」
「何?」
「お母様から預かりました」
封筒は少し古かった。
中には、薄い年賀状が一枚入っていた。
手に取った瞬間、胸の奥が静かになった。
そこには、丁寧な文字が並んでいた。
灯理さんなら、
きっと子どもの小さな声を拾える先生になります。
登坂美紗子。
息が止まった。
母が言っていた年賀状。
本当に残っていたのだ。
紙の端は少し黄ばんでいる。
それでも、文字ははっきり残っていた。
子どもの小さな声を拾える先生。
私はその言葉を、何度も目でなぞった。
あの頃の私は、そうなりたかった。
でも、なれなかった。
いや。
少しの間は、なれていたのかもしれない。
教室にいた私を、全部なかったことにしなくてもいいのかもしれない。
「持っていきますか」
音葉が聞いた。
私は年賀状をそっと封筒に戻した。
「うん」
「登坂先生に?」
「見せるかは分からない」
「でも持っていくんですね」
「お守りみたいなものかな」
音葉は静かに頷いた。
「いいと思います」
夜、私は東京タワーの下に立った。
前に来た時より、空気が冷たく感じた。
手の中には、古い封筒。
美紗子先生の文字。
私が教室を好きだった証拠。
そして、利月くんに繋がる過去の鍵。
私は何度も深呼吸をした。
逃げない。
今日は、逃げない。
足元を見る。
ちゃんと立っていることを確かめる。
その時、背後から声がした。
「灯理さん」
振り返ると、利月くんが立っていた。
黒いコート。
静かな目。
少しだけ緊張したような口元。
いつもの距離で立ち止まる。
近すぎず、遠すぎず。
でも今日は、その距離がもどかしかった。
「こんばんは」
私が言うと、利月くんも小さく頷いた。
「こんばんは」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
東京タワーの光だけが、私たちの間に落ちている。
先に口を開いたのは、利月くんだった。
「陽斗は」
心臓が、止まりそうになった。
陽斗。
利月くんの口から、その名前が出た。
私は息を呑む。
彼は、少しだけ慌てたように続けた。
「すみません。今日、学校で見かけたので。昨日休んでいたから、気になって」
そういうことか。
利月くんは、まだ知らない。
陽斗が私の息子だとは知らない。
ただ、学校で見る児童として、気にかけてくれている。
私はゆっくり息を吐いた。
「元気でしたか」
「はい。図書室で本を返していました」
利月くんは少しだけ笑った。
「星の本、面白かったって言ってました」
胸が、やわらかく痛んだ。
「そうですか」
「陽斗は、面白い子ですね」
「……どんなところが?」
聞かずにはいられなかった。
利月くんは少し考えた。
「外で走るのが好きそうなのに、雨の日は図書室で静かに本を読んでいるところとか」
「うん」
「質問が、時々大人みたいなところとか」
「たとえば?」
「月は自分で光ってないのに、光ってるって言っていいんですかって」
私は思わず息を止めた。
陽斗らしい。
そして、胸に刺さる質問だった。
「それで、登坂さんは何て?」
「見ている人が明るいと思うなら、光っているでいいんじゃないかって」
利月くんは、少し照れたように笑った。
「ちゃんとした答えではないかもしれませんけど」
「いい答えだと思います」
私はすぐに言った。
声が震えないようにするのが難しかった。
利月くんは、陽斗をちゃんと見ている。
私の知らないところで。
私の言えない秘密のすぐそばで。
もう、隠し続けるのは無理だ。
「登坂さん」
私は彼を見た。
「はい」
「私が今日話したいことは、陽斗のことです」
利月くんの表情が、少しだけ変わった。
「陽斗の?」
「はい」
心臓が大きく鳴る。
言え。
ここで言え。
私は封筒を握りしめた。
「その前に、ひとつだけ」
声が震える。
「あなたのお母さんの字を、持ってきました」
私は封筒から年賀状を取り出した。
利月くんの目が、そこに落ちる。
美紗子先生の文字。
彼はしばらく動かなかった。
「母の字です」
低い声だった。
「懐かしい」
その一言で、彼もまた、子どもに戻ったように見えた。
私は年賀状を差し出した。
利月くんは、両手でそれを受け取った。
文字を読む彼の横顔が、東京タワーの光に照らされている。
灯理さんなら、
きっと子どもの小さな声を拾える先生になります。
利月くんは、長い時間黙っていた。
「母は」
彼が静かに言った。
「こういうことを、よく書く人でした」
「優しい先生でした」
「はい」
利月くんの目が、少しだけ揺れていた。
「でも、母の字を見ると、俺はまだ少し苦しくなります」
初めて聞く痛みだった。
「どうして?」
利月くんは、年賀状を見つめたまま言った。
「母は、学校ではたくさんの子どもを見ていました。でも家では、時々とても疲れていて」
私は黙って聞いた。
「俺は子どもだったから、母が先生として頑張っていることを誇らしく思う日もあったし、寂しいと思う日もありました」
胸が痛んだ。
陽斗。
私の息子。
仕事を理由に、学校を理由に、家を継いだ責任を理由に、私はどれだけあの子に寂しい思いをさせてきたのだろう。
「だから先生になるの、少し怖かったんです」
利月くんは言った。
「母みたいになりたいと思う自分と、母みたいに大事な人を後回しにするんじゃないかって怖がる自分がいて」
東京タワーの光が、静かに揺れる。
利月くんにも、鍵があった。
先生という肩書きの中に、母への憧れと寂しさが閉じ込められている。
「登坂さん」
私はゆっくり息を吸った。
「私も、怖いです」
利月くんがこちらを見る。
「母であることと、仕事をすること。誰かを好きになること。その全部を持ったまま立つのが、怖い」
指先が冷たい。
でも、もう逃げない。
「陽斗は」
声が震える。
「私の、息子です」
言った。
ついに。
利月くんの表情が、止まった。
東京タワーの下で、時間まで止まったようだった。
「陽斗が」
彼の声は、かすかに掠れていた。
「灯理さんの……」
「はい」
私は頷いた。
「私の息子です」
その瞬間、これまで閉じていた鍵のひとつが、音を立てて回った。
けれど、扉の向こうに何があるのかは、まだ分からなかった。
俺も、話したいことがあります。
利月くんから届いたその返事を、私は何度も読み返した。
俺も、話したいことがある。
その「俺も」が、胸の奥に引っかかって離れない。
私が話したいことは、はっきりしていた。
本当の年齢。
社長であること。
陽斗の母であること。
そして、最初の夜に同じ歳くらいだと言われて、否定しなかったこと。
嘘をついた、というより、
嘘にしてしまったこと。
けれど利月くんの「話したいこと」は、何なのだろう。
美紗子先生のこと。
東京タワーのこと。
それとも、私のこと。
考えれば考えるほど、答えは夜の中に沈んでいった。
「お母さん」
寝室から陽斗の声がした。
私はスマホを伏せて立ち上がる。
「なに?」
「明日、学校行けそう」
ベッドの上で、陽斗は体温計を見せてきた。
三十六度七分。
「下がったね」
「うん。登坂先生に本返さなきゃ」
その名前に、胸が小さく跳ねる。
「本、そんなに大事?」
「だって返却日過ぎたら言われるし」
「細かいって言ってたもんね」
「細かい。でもさ」
陽斗は少し考える顔をした。
「登坂先生、怒るっていうより、ちゃんと覚えてるんだよね」
「覚えてる?」
「誰が何借りたとか、誰がどこで止まってるとか。俺が星の本好きなのも覚えてたし」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
利月くんは、陽斗を見ている。
担任ではない。
でも、図書室で、廊下で、学校の小さな場所で、陽斗をちゃんと見てくれている。
私が知らなかった陽斗を。
そのことが、嬉しくて、苦しかった。
「いい先生だね」
私が言うと、陽斗は少し照れたように布団を直した。
「まあね。でも佐伯先生の方が面白い」
「尚先生は面白いんだ」
「うるさいけどね」
「うるさい先生多くない?」
「学校ってそういうとこ」
陽斗は当たり前みたいに言った。
その言い方に笑ってしまう。
この子の世界には、ちゃんと学校がある。
先生がいて、友達がいて、プリントがあって、返さなきゃいけない本があって、廊下を走ると注意してくれる人がいる。
私はその世界に、母としてどれだけ立てていたのだろう。
考えかけて、やめた。
責めるだけでは何も変わらない。
戻ろうとする人のことよ。
母の言葉が、ふと浮かぶ。
私は、戻ろうとしている。
まだうまくできなくても。
「明日、無理そうなら休むんだよ」
「分かってる」
「ほんとに?」
「お母さんもしつこい」
「母親だから」
そう言うと、陽斗は少しだけ笑った。
「今日のお母さん、母親っぽい」
「いつもでしょ」
「今日は濃い」
「母親濃度?」
「そう」
陽斗の雑な言葉に、私は笑った。
その笑い声が、部屋の中で少しだけやわらかく響く。
久しぶりに、母として笑えた気がした。
陽斗が眠ったあと、私はリビングに戻った。
窓の外には、東京タワーが見える。
今夜は行かない。
会う約束は、明日の夜になった。
眠れない夜じゃなくても、
また東京タワーで会えますか。
そう送った私に、利月くんは「はい」と返した。
逃げ道のない返事だった。
音葉がキッチンから顔を出す。
「明日ですか」
「何が」
「東京タワー」
「……なんで分かるの」
「社長がさっきから東京タワーを睨んでいるので」
「睨んでない」
「睨んでます。恋の敵みたいに」
「東京タワーに負ける恋って何」
音葉は少しだけ笑い、温かいお茶を私の前に置いた。
「明日、話すんですね」
「うん」
「全部?」
その言葉に、私は湯呑みを持つ手を止めた。
全部。
簡単な二文字なのに、重い。
「全部、話せるかな」
「話すしかないと思います」
「そういう正論、今はいらない」
「では、優しい言葉を言います」
音葉はまっすぐ私を見た。
「怖くても、灯理さんは話せます」
その言葉は、思っていたより優しかった。
私は顔を上げる。
「何それ」
「優しい言葉です」
「ちょっと泣きそうになるからやめて」
「泣いてもいいです」
「それもやめて」
音葉は黙って、私の隣に座った。
この人は、私が社長として立っている姿を一番近くで見てきた。
人前で泣かないことも、
弱音を言う前に仕事を片づけてしまうことも、
陽斗の学校行事の案内を見て、一瞬だけ手を止めることも。
たぶん、全部知っている。
「音葉」
「はい」
「私、ひどいよね」
「どの件ですか」
「多すぎる?」
「はい」
思わず笑ってしまう。
音葉は少しも笑わなかった。
「でも、ひどい人は、自分をひどいと思って苦しんだりしません」
「それ、慰め?」
「事実です」
「音葉って、優しいのか厳しいのか分からない」
「両方です」
そう言って、彼女は湯呑みに視線を落とした。
「灯理さんは、社長であることも、母であることも、年齢も、全部隠していました」
「うん」
「でも、それは相手を騙して遊びたかったからではないでしょう」
私は小さく頷いた。
「ただ、少しだけ身軽になりたかった」
音葉が言った。
その言葉に、胸が痛む。
そうだ。
私は身軽になりたかった。
社長でもなく、母でもなく、家を継いだ娘でもなく。
ただ、食事会で笑う女になりたかった。
利月くんの前でだけ。
「でも、身軽なふりをしても、抱えているものは消えません」
「うん」
「明日は、それを持ったまま立ってください」
音葉の声は静かだった。
「全部持ったまま、東京タワーの下に」
私は窓の外を見た。
東京タワーは、赤く光っている。
高いものだって、ちゃんと足元から立っている。
美紗子先生の声がする。
私はちゃんと、足元から立てるだろうか。
嘘で閉じていた鍵を、自分で開けられるだろうか。
翌日、陽斗は学校へ行った。
朝の体温は平熱。
食欲も戻っていた。
「無理しないでね」
玄関で言うと、陽斗は少し面倒そうな顔をした。
「分かってるって」
「本当に?」
「お母さん、昨日から母親濃い」
「濃くていいの」
「まあ、いいけど」
陽斗は靴を履きながら、ふと思い出したように言った。
「登坂先生に本返してくる」
「うん」
「あと、佐伯先生に昨日休んですみませんって言う」
「偉い」
「お母さんが言えって顔してるから」
「してた?」
「してた」
陽斗はそう言って、鞄を背負った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる。
その音を聞いて、私はしばらく玄関に立っていた。
行ってらっしゃい。
ただそれだけの言葉を、私は今までどれだけ急いで言ってきただろう。
今日のその言葉は、少しだけ胸に残った。
会社に着くと、いつものように予定が詰まっていた。
午前中は会議。
昼は取引先との打ち合わせ。
午後は資料確認と決裁。
社長としての私は、きちんと働いた。
言葉を選び、数字を見て、必要な判断をした。
けれど、ふとした瞬間に東京タワーが頭に浮かぶ。
夜になったら、利月くんに会う。
そう思うたびに、胸の奥で鍵が冷たく鳴った。
夕方、音葉が資料を置きに来た。
「本日の予定は、十八時で終わりです」
「珍しい」
「終わらせました」
「音葉が?」
「はい」
彼女は当然のように言った。
「東京タワーに遅刻しないように」
私は少しだけ苦笑した。
「仕事早すぎ」
「秘書なので」
それだけ言って、音葉は一枚の封筒を差し出した。
「それと、こちら」
「何?」
「お母様から預かりました」
封筒は少し古かった。
中には、薄い年賀状が一枚入っていた。
手に取った瞬間、胸の奥が静かになった。
そこには、丁寧な文字が並んでいた。
灯理さんなら、
きっと子どもの小さな声を拾える先生になります。
登坂美紗子。
息が止まった。
母が言っていた年賀状。
本当に残っていたのだ。
紙の端は少し黄ばんでいる。
それでも、文字ははっきり残っていた。
子どもの小さな声を拾える先生。
私はその言葉を、何度も目でなぞった。
あの頃の私は、そうなりたかった。
でも、なれなかった。
いや。
少しの間は、なれていたのかもしれない。
教室にいた私を、全部なかったことにしなくてもいいのかもしれない。
「持っていきますか」
音葉が聞いた。
私は年賀状をそっと封筒に戻した。
「うん」
「登坂先生に?」
「見せるかは分からない」
「でも持っていくんですね」
「お守りみたいなものかな」
音葉は静かに頷いた。
「いいと思います」
夜、私は東京タワーの下に立った。
前に来た時より、空気が冷たく感じた。
手の中には、古い封筒。
美紗子先生の文字。
私が教室を好きだった証拠。
そして、利月くんに繋がる過去の鍵。
私は何度も深呼吸をした。
逃げない。
今日は、逃げない。
足元を見る。
ちゃんと立っていることを確かめる。
その時、背後から声がした。
「灯理さん」
振り返ると、利月くんが立っていた。
黒いコート。
静かな目。
少しだけ緊張したような口元。
いつもの距離で立ち止まる。
近すぎず、遠すぎず。
でも今日は、その距離がもどかしかった。
「こんばんは」
私が言うと、利月くんも小さく頷いた。
「こんばんは」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
東京タワーの光だけが、私たちの間に落ちている。
先に口を開いたのは、利月くんだった。
「陽斗は」
心臓が、止まりそうになった。
陽斗。
利月くんの口から、その名前が出た。
私は息を呑む。
彼は、少しだけ慌てたように続けた。
「すみません。今日、学校で見かけたので。昨日休んでいたから、気になって」
そういうことか。
利月くんは、まだ知らない。
陽斗が私の息子だとは知らない。
ただ、学校で見る児童として、気にかけてくれている。
私はゆっくり息を吐いた。
「元気でしたか」
「はい。図書室で本を返していました」
利月くんは少しだけ笑った。
「星の本、面白かったって言ってました」
胸が、やわらかく痛んだ。
「そうですか」
「陽斗は、面白い子ですね」
「……どんなところが?」
聞かずにはいられなかった。
利月くんは少し考えた。
「外で走るのが好きそうなのに、雨の日は図書室で静かに本を読んでいるところとか」
「うん」
「質問が、時々大人みたいなところとか」
「たとえば?」
「月は自分で光ってないのに、光ってるって言っていいんですかって」
私は思わず息を止めた。
陽斗らしい。
そして、胸に刺さる質問だった。
「それで、登坂さんは何て?」
「見ている人が明るいと思うなら、光っているでいいんじゃないかって」
利月くんは、少し照れたように笑った。
「ちゃんとした答えではないかもしれませんけど」
「いい答えだと思います」
私はすぐに言った。
声が震えないようにするのが難しかった。
利月くんは、陽斗をちゃんと見ている。
私の知らないところで。
私の言えない秘密のすぐそばで。
もう、隠し続けるのは無理だ。
「登坂さん」
私は彼を見た。
「はい」
「私が今日話したいことは、陽斗のことです」
利月くんの表情が、少しだけ変わった。
「陽斗の?」
「はい」
心臓が大きく鳴る。
言え。
ここで言え。
私は封筒を握りしめた。
「その前に、ひとつだけ」
声が震える。
「あなたのお母さんの字を、持ってきました」
私は封筒から年賀状を取り出した。
利月くんの目が、そこに落ちる。
美紗子先生の文字。
彼はしばらく動かなかった。
「母の字です」
低い声だった。
「懐かしい」
その一言で、彼もまた、子どもに戻ったように見えた。
私は年賀状を差し出した。
利月くんは、両手でそれを受け取った。
文字を読む彼の横顔が、東京タワーの光に照らされている。
灯理さんなら、
きっと子どもの小さな声を拾える先生になります。
利月くんは、長い時間黙っていた。
「母は」
彼が静かに言った。
「こういうことを、よく書く人でした」
「優しい先生でした」
「はい」
利月くんの目が、少しだけ揺れていた。
「でも、母の字を見ると、俺はまだ少し苦しくなります」
初めて聞く痛みだった。
「どうして?」
利月くんは、年賀状を見つめたまま言った。
「母は、学校ではたくさんの子どもを見ていました。でも家では、時々とても疲れていて」
私は黙って聞いた。
「俺は子どもだったから、母が先生として頑張っていることを誇らしく思う日もあったし、寂しいと思う日もありました」
胸が痛んだ。
陽斗。
私の息子。
仕事を理由に、学校を理由に、家を継いだ責任を理由に、私はどれだけあの子に寂しい思いをさせてきたのだろう。
「だから先生になるの、少し怖かったんです」
利月くんは言った。
「母みたいになりたいと思う自分と、母みたいに大事な人を後回しにするんじゃないかって怖がる自分がいて」
東京タワーの光が、静かに揺れる。
利月くんにも、鍵があった。
先生という肩書きの中に、母への憧れと寂しさが閉じ込められている。
「登坂さん」
私はゆっくり息を吸った。
「私も、怖いです」
利月くんがこちらを見る。
「母であることと、仕事をすること。誰かを好きになること。その全部を持ったまま立つのが、怖い」
指先が冷たい。
でも、もう逃げない。
「陽斗は」
声が震える。
「私の、息子です」
言った。
ついに。
利月くんの表情が、止まった。
東京タワーの下で、時間まで止まったようだった。
「陽斗が」
彼の声は、かすかに掠れていた。
「灯理さんの……」
「はい」
私は頷いた。
「私の息子です」
その瞬間、これまで閉じていた鍵のひとつが、音を立てて回った。
けれど、扉の向こうに何があるのかは、まだ分からなかった。