夢は背中に貼れない6 ~私が叫ぶ番~

夢は背中に貼れない6 ~私が叫ぶ番~

ノートを閉じた日

「咲、本当にいいのか?」
 千尋の声は、いつもと同じように低く、穏やかだった。だが、そこに込められたわずかな戸惑いを、咲は見逃さなかった。
 グラウンドを見下ろす部室の窓際。咲は、硬い表紙のノートを手にしていた。それは、彼女がマネージャーとして2年間、チームの「声」を記録し続けてきた軌跡だ。康太の熱い叫び、球児たちの作戦、美月先輩からの引継ぎ事項。すべてがぎっしりと、咲の几帳面な文字で埋まっている。
「うん」
 咲は短い返事とともに、ノートの最後のページを閉じた。
カタン、と小さな音。その音は、咲自身のマネージャー時代が終わったことを告げる、静かな号砲のように聞こえた。
 ノートの表紙には、以前、美月が冗談交じりに貼った小さな野球ボールのシールが貼ってある。その隣に、新しく加わった「キャプテン」という役割の重みが、手のひらを通じて伝わってくるようだった。
「康太先輩みたいな、うるさい声は出せないよ」
 咲は小さくつぶやいた。不安が、胸の奥でひっそりと渦を巻いている。
 千尋は、そんな咲を一瞬だけじっと見つめた。その瞳は、いつだって冷静な捕手(キャッチャー)の目だ。
「誰も、康太みたいになれとは言ってない。……お前の声でいい」
 千尋の言葉は、まるでボールがミットに収まる音のように、確かな響きを持っていた。
「でも、どうやって……」
「それは、お前自身が見つけることだ」千尋はそう言って、部室のドアを開けた。「今日からお前は、記録係じゃない。チームを導く存在だ。そのノートは、もうお前の背中を押すためのものじゃない」
 ノートを閉じた日。それは、咲が「記録する側」から「導く側」へと、静かに、そして確かに一歩を踏み出した日だった。彼女の新しい物語は、まだ一行も始まっていない。









キャプテンって、何ですか?

新体制が始動して一週間。咲は自分の胸に貼られた『キャプテン』という肩書きが、まだ誰かの冗談のように感じていた。
 グラウンドに立ち、部員たちの動きに目を凝らす。かつては、この動きを分析し、千尋や康太に静かに耳打ちするのが自分の役目だった。今は、この動き一つ一つに「声を出す」責任がある。
「咲!」
 背後から、新入生の一人が不安そうな声を上げた。一塁ベースをオーバーランしてしまい、どこに戻ればいいのか戸惑っている。
 以前の咲なら、すかさず美月から託されたマニュアルを開き、正解を教えていた。だが、今は。
(声を、出さなきゃ)
 口を開く。しかし、康太がそうしていたように、グラウンド全体に響き渡るような力強い「指示」が喉の奥で詰まる。熱血な叫びは、咲の持ち物ではない。
「そこ、戻って」と、控えめな声で言うのが精一杯だった。
 その声に、一年生は戸惑ったように二塁ベースの方向を向く。咲の声は、指示としては弱すぎた。
「咲、今のじゃ届かない」
 千尋が、クールダウンのためにベンチに戻りながら、厳しい視線を向けた。彼は咲の状況を一番よく理解している。だからこそ、甘やかしはしない。
「ごめん、千尋。康太先輩なら、今、なんて叫んでたかなって……」
「康太は康太だ。お前は、康太のモノマネをするためにキャプテンになったんじゃない」千尋はスパイクの泥を落としながら言った。「キャプテンっていうのはな、チームの代弁者だ。お前の声が、チームの意志になる。その声が、静かだろうとうるさかろうと、真ん中にあることが大事なんだ」
 代弁者。意志。真ん中。
 咲は、今まで記録してきたノートの端に、かつて康太が熱い字で走り書きしていた言葉を思い出した。
「キャプテンの仕事は、夢を諦めさせないこと」
 その言葉は、静かな咲の心に、そっと火を灯すようだった。
「キャプテンって、何ですか?」
 咲は、もう一度、問いかけた。千尋ではなく、自分自身に。
私は、誰に声を届けたい? 誰に?












声を出すのが、怖い

その日は、新チームになって初めての練習試合だった。緊張感で張り詰めた空気の中、咲の心臓は異常な速さで脈打っていた。
 マウンド上の投手が苦しい場面を迎えている。守備に指示を出し、士気を高めなければならない。ベンチに座る千尋の視線が、咲の背中に突き刺さる。
(私……何か、言わなきゃ)
 口を開きかけた瞬間、過去の記憶がフラッシュバックした。
 一年生の冬。風邪で声が枯れていた康太に代わって、美月が指示を出そうとしたとき、チームが動揺した光景。
「マネージャーの指示じゃ、球が重くなるんだよ!」
 そのとき聞いた、無遠慮な誰かの声。それは、ただの記録係だった自分には向けられなかった言葉だ。だが、今は自分が、声を出す側、叫ぶ側になった。自分の静かな声が、この緊張した場面でチームの自信を奪ってしまうのではないか。
 咲の唇は、微かに震えるだけで、結局、声にはならなかった。
 その沈黙が、チームを混乱させた。投手は次の球を大きく外し、ノーアウト満塁。タイムを取ろうとしない咲に、千尋が静かに立ち上がった。



















千尋の沈黙

試合後、部室には重苦しい沈黙が満ちていた。千尋は、その日のミスを淡々と記録したホワイトボードの前で、腕を組んだまま動かない。
「千尋、ごめん……私のせいだ」
 咲は俯いたまま謝った。千尋の肩越しに、ホワイトボードの隅に書かれた「声出しの徹底」という文字が見える。
「何が、ごめんだ」
 千尋の冷たい声が響く。
「私が、声を、出せなかったから……」
「違う。お前は声を出すのが怖いんじゃない。間違えるのが怖いんだ」千尋は顔を上げた。その目は、咲の心の奥底を見透かすように鋭い。「お前は、この二年間、康太の正解を記録し続けてきた。だから、自分の言葉が『間違い』だったら、チームを壊すことになるって怯えている。違うか、キャプテン」
 咲の胸が締め付けられる。図星だった。康太の残した完璧なノート。それをなぞることはできても、自ら新しいページを開く勇気がない。
「康太は、別に最初から正解を叫んでいたわけじゃない。あいつも失敗して、恥をかいて、それでも声を出し続けた。お前の沈黙は、チームにとって、最大の失敗だ」
 千尋はそう言い放つと、何も言わずに部室を出て行った。咲は、硬く握りしめた手のひらに、深く爪を立てていた。
















康太の応援席

週末。咲は一人、スタンドの隅に立っていた。今日は練習オフだが、前キャプテンの康太が顔を出すと聞いたからだ。
「よっ! キャプテンさん、どうした、顔が暗いぞ!」
 康太は相変わらず、グラウンド中に響き渡る声で挨拶をしてきた。
「康太先輩……私、キャプテンに向いてないかもしれません」
 咲は正直に打ち明けた。昨日千尋に言われたこと、声を出すのが怖いことを。
 康太は静かに、咲の隣に腰を下ろした。いつもの熱血漢らしからぬ、静かな口調だった。
「なあ、咲。お前、俺のノート、全部読んでくれたんだろ?」
「はい」
「あのノートに、俺が叫んだことしか書いてないって、思ってるだろ」康太は笑った。「俺が一番大事にしてたのは、試合中に声が出せなくて、ベンチで泣いた日のことだ。あの後、俺は決めた。恥ずかしくても、間違えても、声を出さなきゃって」
 康太はグラウンドを指さした。
「俺の声は、うるさいだけのノイズだったかもしれない。でも、お前の声は違う。お前は、誰よりもチームを見て、分析してる。お前の静かな声には、**説得力(ロジック)**があるんだ」
 康太は立ち上がると、咲の肩を軽く叩いた。
「俺の役割はもう終わった。今度は、俺がお前の応援席に回る番だ。咲、お前の『叫ぶ勇気』を、俺が応援してやるよ」















咲の作戦、再び

次の練習試合。咲は試合前に、一本の鉛筆と、白いルーズリーフだけを手にベンチに座った。もう、あの分厚いノートは開かない。
 試合が始まった。相手は強豪校。すぐに劣勢になる。
(今だ。声を、出すんだ)
 咲は深く息を吸い込んだ。そして、ただ大声で叫ぶのではなく、分析に基づいた、短く、必要なだけの言葉を選んだ。
「ピッチャー、外角一球でいい! 信頼して!」
「セカンド、一歩前! 打球は低い!」
 その声は、康太のような熱量はない。だが、その言葉一つ一つが、相手の配球、選手の傾向といった確かな根拠に裏付けられていた。
 一塁を守る新入生たちが、咲の声に素早く反応した。彼らの瞳に、迷いはなかった。静かな声なのに、確かに響く。それは、かつて記録係として培った、咲ならではの「観察力」が織りなす静かな作戦だった。
「咲の指示、すごいな。無駄がない」
 ベンチで千尋が呟いた。
「あれが、咲の叫びなんだ」


















ノートに書いてないこと

試合は惜敗したが、チームに後退はなかった。部室に戻った咲は、自分のルーズリーフに、今日の作戦と、その結果をわずかに記録していた。
 ふと、美月からのメールを思い出した。
<咲へ。ノートに書ききれなかったことが一つあるの>
 咲はスマホを開き、メッセージを読み進める。
<康太はね、自分の声を記録するより、咲の笑顔をノートに残したがってたんだよ。あの熱血キャプテンが、唯一、冷静な目で見ていたのは、チームの分析じゃなく、マネージャーだった咲の、静かな努力だった>
 咲は、手元のルーズリーフを見つめた。康太の声は、咲に「叫ぶ勇気」を与えた。美月のノートは、咲に「導く責任」を託した。
 だが、ノートに書き残されていなかったこと。それは、記録する側の人間も、誰かにとっての「夢」や「支え」になっていたという事実だった。
 咲は鉛筆を置いた。もう、誰かの背中をなぞる必要はない。





















キャプテンの背中

 新入部員を前に、咲は初めて、キャプテンとして全体ミーティングに立った。
「私は、康太先輩みたいに、大きな声を出せないかもしれません」
 静かに話し始める。
「でも、誰よりも、皆の動きを見て、皆の声を記録してきました。だから、私は、皆が何を求めているかを知っています」
 咲は、かつて康太が立っていた場所ではなく、グラウンドの中心、マウンドと同じ高さに立った。
「キャプテンの仕事は、背中で語ることだと言います。でも、私は今日から、声で、皆の背中を押します」
 咲は深呼吸し、部員たち全員の顔を、一人ひとり見つめた。
「チームは、皆の夢が集まってできた場所です。その夢を、私は絶対に諦めさせません」
 その言葉は、決して大声ではなかった。しかし、確かな意志と覚悟が乗せられていた。一年生たちは、初めて、キャプテン咲の、小さくても揺るがない背中を見た。
 ミーティング後。千尋が、静かに咲の横に来た。
「いい声だったよ、キャプテン」



















静かな円陣

ついに、夏の大会当日。
 グラウンドに向かう直前、部員たちは円陣を組む。いつもなら、康太の誰にも負けない雄叫びが、チームの魂を震わせていた。
 今回は、違う。
 円陣の中心にいるのは、キャプテンの咲だ。
 部員たちが固唾を飲んで見守る中、咲は目を閉じた。
(康太先輩。美月先輩。千尋……)
 (大丈夫。私は、一人じゃない。私の声は、みんなの意志だ)
 咲は、深く、深く息を吸い込んだ。
「行くぞ!」
 その声は、周りのチームの円陣の雄叫びと比べれば、あまりにも静かだった。しかし、その静寂の中に、一点の曇りもない、澄んだ決意が満ちていた。
「静かだけど、響く声だな」
 応援席で、康太が誰にともなく呟いた。
「静かな円陣。でも、このチームの全部が詰まってる」



















私が叫ぶ番

九回裏、一点ビハインド。ツーアウト満塁。バッターボックスに立つのは、千尋。チームの命運は、二人のキャプテンの手に託された。
 この場面で、コンタクトを取り、千尋に配球の情報を伝えるのは、キャプテンの役割だ。
 咲は、ベンチから立ち上がり、叫んだ。
「千尋!」
 彼女の声は、歓声に包まれたスタジアムの中で、かき消されそうになる。
 だが、千尋は捕手(キャッチャー)だ。静かな声を聞き分けることに長けている。千尋は、咲の方を一瞬だけ振り向いた。
 咲は、残された全力を振り絞って、叫んだ。それは、分析や指示ではない。たった一つの、強い願いだった。
「楽しめーっ!」
 初めて、康太のように、感情のすべてを乗せて叫んだ声。それは、うるさくない。でも、確実に千尋の心に届いた。
 千尋は、ニヤリと笑った。マウンドの投手に、何かをアピールするように、一度大きく頷く。
 次の瞬間、バットがボールを捉えた。快音。
 球は、レフトの頭上を越え、フェンス際へ。
 咲は立ち尽くした。涙が、頬を伝う。
 かつて、誰かの声を記録し続けたマネージャー。声を出すことに怯え、沈黙を選びかけたキャプテン。
 しかし今、咲は、記録係ではない。チームを、仲間を、自分の声で導いた、キャプテンだ。
「夢は背中に貼れない」
 だが、咲の静かな声が、今、ここにいる全員の**胸(ハート)**に、確かな夢を刻み込んだ。
 これが、私たちが叫ぶ、最後の番。










【みなさんへ】
『夢は背中に貼れない』『夢は背中に貼れない2 ~継承と革命~』『夢は背中に貼れない3 ~10番は笑ってる~』『夢は背中に貼れない4 ~背中で叫ぶ~』『夢は背中に貼れない5 ~沈黙を継ぐ者~』に引き続き、『夢は背中に貼れない6 〜私が叫ぶ番〜』を読んでくださって、ありがとうございました!!
今回も少しではありましたが、書けて嬉しかったです!!
今回は『夢は背中に貼れない』シリーズ初の女キャプテンでした!!
今までとは違い、咲らしいキャプテンだったのではないでしょうか。
そして、これを読んだあなたに希望や勇気を持ってもらえたら嬉しいです!!
今まで本当に『夢は背中に貼れない』シリーズを読んでくれてありがとう!!
感謝の気持ちでいっぱいです!!
物語はここで終了……ですが、これからも『夢は背中に貼れない』を応援してくださると、幸いです!!
今まで本当にありがとうございました!!!!!
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