泣きたくなったら、こっちへおいで
 

 きっとそんなこととはつゆ知らず。
 それじゃあ今日も田中のために契約取ってくるわ! といつも通り眩しく笑うと、晴永はすぐに他の社員に話し掛け、あるいは話し掛けられ、明るい声をオフィスに響かせながら忙しなく私の元を去っていく。

 彼から手渡された書類を内心げっそりしながらめくり始めると、隣のデスクの先輩に苦笑された。

「たまにはノってあげなよ田中ちゃん」

「えー……一応お礼は言いましたよ」

 ……しがない事務員にあのノリと勢いは難易度が高すぎる。返事をしただけ良しとしてほしい。

 晴永はよく笑い、よく喋り、よく人を褒める。
 田中大好き! とか、神様仏様田中様! とか、俺は田中がいないと生きていけない! とか。いつも恥ずかしげもなく、馬鹿みたいに大袈裟だ。
 きっと取引先でも大盤振る舞いしていることだろう。

 朝から晩までずっと元気。ずっと全力。ずっと笑顔。
 毎日あの調子で気疲れしないのかな、と苦手ながらに見ていて思う。
 まあ彼は私なんかとは違って元来ああいう人なのだから、余計なお世話だろうけれど。







 月末は営業の追い込みがかかり、その事務処理に追われるため慌ただしい。
 「仕事は定時に終わらせる」を目標にはしているが、なかなかそうはいかないのが現実。終業間際に新たな急ぎの案件を捩じ込まれ、今日の目標を「日付が変わるまでには帰宅する」に切り替える。

「ごめん、じゃあ先に上がるね」

 隣で一緒に残業していた先輩が、バタバタと荷物をまとめて席を立った。今晩は遠方に住んでいる恋人がたまたま仕事で近くに来ており、食事の約束をしていたらしい。

「お疲れ様です。間に合いそうですか?」

「うん、ギリ大丈夫そう! 田中ちゃんも早めに帰りなよ」

「頑張りますー」

 駆け足でオフィスを後にする先輩を見送り、私はパソコンのキーボードから一度手を離してぐっと伸びをする。
 先輩がいなくなると急に静かになった。
 現在21時過ぎ。パソコンの画面と書類に集中していて気付かなかったけれど、この時間まで残っていたのは私たちだけだったらしい。
 忘れていた疲労感が、どっと押し寄せる。

 ……私ももう帰ろうかな。
 何の予定もないけれど。

 急ぎの案件といっても、別に全てを今日中に終わらせろと言われたわけではない。
 ただでさえ遅すぎる時間に頼まれているのだから、せめて明日の午前中までに仕上げれば上出来だろう。

 先輩だってそうしてるし、ちょうどキリも良いし。そう自分を納得させて、私はついにパソコンを閉じようとした。

 
「──あれ、田中?」


 
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