鯨のうた
Last Story
まだ少し風冷たい春の季節がやってきた。
桜の木には蕾がつき、あともう少しで花開きそうだ。
あれからわたしたちは、あの会社を退職した。
あの後、優作さんには降格の末に他支店への異動が命じられ、わたしにも異動が命じられた。
しかし、既に退職の決意をしていたわたしたちは、二人揃い、退職届を提出したのだ。
突然の退職でみんなに迷惑をかけてしまう事は心苦しかったが、周りの社員たちは温かくわたしたちの退職を受け入れてくれ、わたしたちの未来が明るいものであるように願ってくれた。
それからのわたしたちは、山に囲まれ、海も見える田舎へと引っ越し、結婚した。
以前に老夫婦が経営していたとされている一戸建ての喫茶店を買い取り、リノベーションをして、一階に喫茶店"鯨のうた"をオープンさせ、二階はわたしたちの新居となった。
店内は、砂浜をイメージしたアイボリーの壁に貝殻を埋め込み、床の木材は海をイメージしたブルーに彩って、カウンターには鯨の模型を飾っている。
その地域に喫茶店は珍しく、周辺に住む住民だけではなく、少し離れた場所からも車で訪れてくださるお客さんもいて、朝はモーニングコーヒーを飲みに来てくれるお客さんもいれば、昼はランチタイムでお店は有難い事に毎日賑わいでいる。
お店の目の前には、野花が広がっており、海も見渡せる壮大な風景だ。
わたしたちはこの風景に一目惚れし、即決でこの場所に決めたのだった。
「千衣!」
わたしが開店前に家の前で野花を摘んでいると、開店準備を終えた優作さんがやって来た。
「寒くない?」
そう言って、わたしの肩にカーディガンを掛けてくれる優作さん。
わたしは「ありがとう」と言った後で摘んだ野花を優作さんに見せた。
「どう?綺麗でしょ?」
「うん、綺麗だね。でも、千衣の方が綺麗だけど」
「またそんな事言って」
「本当だよ。俺は嘘つかないから」
そんな事を話しては、ふざけて笑い合うわたしたち。
のどかで穏やかで、ゆっくり時間が流れるこの場所が大好きだ。
忙しなく、便利な都会の生活とは全く違うけれど、わたしは今のこの暮らしが気に入っている。
何より、優作さんの傍にいられている事が幸せだった。
「そういえば今日、航がお店に来るって言ってましたよ」
「え、竹浪くんが?」
「国枝さんと一緒に来るって」
「あいつも来るのかぁ。ちょっと久しぶりだなぁ」
そう話し、「寒いから戻ろう」と言って、優作さんはわたしの肩を抱いた。
そしてさり気なく、わたしにキスをする。
「誰かに見られちゃいますよ」
「大丈夫、誰にも見られてないよ。それに、俺は見られても構わない」
そう言って、優作さんは再びわたしにキスをし、それから耳元でこう囁くのだ。
「千衣、大好きだよ。愛してる―――」
―END―


