鯨のうた
わたしが持って来た資料を手に持った雨龍課長は「ありがとね」と言いながら爽やかな笑顔を見せると、すぐ目の前の会議室へと入って行った。
突然、何の前触れもなく、雨龍課長の恋人役を演じなくてはいけなくなり、戸惑い不安になっていたはずが、雨龍課長の笑顔を見ただけで何故か許せてしまった自分に(何て単純な女なんだろう)と、呆れ果ててしまう。
(こういうところが、駄目なんだろうな···)
そんな事を思いながら、わたしは会議室の前から去り、エレベーターに乗って営業部のオフィスへと戻ったのだった。
それから、いつもと変わらぬ業務をこなし、時間は流れもうすぐ定時の18時を迎えようとしていた。
定時を迎えたらすぐ帰れるように、早々に帰り支度を始める社員も出てくる。
そんな時、後ろのデスクから女性社員たちの雑談が聞こえてきた。
「えっ、嘘ぉ!雨龍課長、彼女いるの?!」
その言葉に過剰に反応してしまい、丁度打ち込んでいた資料の文字を打ち間違える自分がいた。
(え、もう噂話が広まってる?!中原専務の口が軽さったら、本当に···)
「そうらしいよ。さっきお昼休憩の時に中原専務と吉田本部長が話してるの聞いちゃったんだよね」
「うわぁ〜、やっぱりそうだよね。雨龍課長がフリーなわけないもん。その彼女羨ましい〜」
「しかも、その彼女···うちの会社の営業部の中に居るらしいよ」
「えっ!マジ?!この中に雨龍課長の彼女いるの?!」
聞こうと思わなくとも、自然と耳に入ってきてしまう後ろの女性社員たちの会話。
わたしの心臓は、動悸でも起こしているかのようにドクンドクンと身体中に響き渡るように音を立て始めていた。
その会話はわたしだけではなく、周りの社員たちにも聞こえており、今まで色恋話がなかった雨龍課長の"彼女の存在"に次第に周りがざわめき始める。
想定よりもあまりにも早く広まってしまっている噂話···―――
わたしは早くその場から立ち去りたい気持ちでいっぱいになった。


