Hotaru. ー 君と過ごした、たった一つの夏 ー
小さく息を吸って、私は一歩、彼の方へ歩き出した。
近づくにつれて、シャッターを切る音がもう一度聞こえる。
ーーカシャ。
夕焼けに染まる流蛍川に向けられたレンズ。
その横顔は、どこか静かで、少しだけ近寄りがたい雰囲気だった。
それでも、不思議と声をかけてみたくなる。
「あの…。」
私の声に、その子はゆっくりと振り向いた。
少し長めの前髪の奥から見えた瞳が、一瞬だけ私を映す。
「……。」
「えっと……。」
急に緊張してしまう。
なにを話そうとしていたんだっけ。
そんな私を見ているだけで、彼は何も言わない。
「あっ、ご、ごめんね。急に話しかけちゃって。」
「……別に。」
短い返事。
でも、冷たい言い方ではなかった。
少しだけ安心して、私は笑う。
「この町の人?」
彼は少しだけ考えるように空を見上げたあと、
「……たぶん。」
そう答えた。
「たぶんって何?」
思わず、くすっと笑ってしまう。
「町の人なら『うん』でいいじゃん。」
「住んではいる。」
「うん。」
「でも、この町のこと全部知ってるわけじゃないし。」
「なるほど。」
少し変わった人だ。
そう思いながら、私は欄干にもたれる。
目の前には、夕焼けに染まる流蛍川。
「すっごく綺麗……。」
思わず漏れた言葉に、彼は川の方を見る。
「毎日見てるけど。」
「え?」
「そんなに珍しい景色じゃない。」
私は首を横に振る。
「ううん。私、初めて見た。」
「……。」
「初めて光ヶ丘に来たの。」
その言葉に、彼は少しだけ驚いたような顔をした。
「初めて?」
「うん。おばあちゃんがこの町に住んでるんだけど、来るのは今年が初めて!」
「へぇ。」
また短い返事。
でも今度は、さっきより少しだけ柔らかかった。
「君は?」
「……。」
「名前!」
「あぁ。」
彼は少し間を置いてから、小さく口を開く。
神崎(かんざき)。」
「神崎くん?」
(みなと)。」
「湊くんかぁ。」
私は嬉しくなって自分も名乗る。
「私は、星野(ほしの)ほたる!」
すると湊くんは、一瞬だけ目を丸くした。
「……ほたる?」
「うん。ひらがなの『ほたる』。」
「そう。」
「変かな?」
「いや。」
湊くんはそう言って、ふっと流蛍川へ目を向ける。
「いい名前だと思う。」
その言葉が不意打ちだった。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「ありがとう。」
照れ隠しに笑うと、風が橋の上を吹き抜けた。
その時だった。
ぐぅぅ……
静かな橋に、間の抜けた音が響く。
「……。」
「……。」
「あっ!」
思わずおなかを押さえる。
「ご、ごめん!」
恥ずかしくて顔が熱くなる。
湊くんは少しだけ目を瞬かせると、
「……腹、減ってるの?」
「実は、お昼が早かったから……。」
私がそう言うと、湊くんは橋の先を指さした。
「あっち。」
「?」
夕凪海岸(ゆうなぎかいがん)。」
「海?」
「近い。」
「えっ、本当⁉」
「歩いてすぐ。」
私はぱっと顔を明るくした。
「行ってみたい!」
「……。」
湊くんは少しだけ困ったように前髪をかき上げる。
「案内くらいなら。」
「本当⁉」
「迷われても困るし。」
「ありがとう!」
私は思わず笑顔になる。
その笑顔を見た湊くんは何も言わず、静かに歩き始めた。
私はその少し後ろを、小走りで追いかける。
夏の風が二人の間を通り抜ける。
この時の私は、まだ知らなかった。
この何気ない出会いが、この夏を、そして私の人生を大きく変えることになるなんて。
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