追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第10話 旅立ちの朝

 空気が冷たい――冬でもないというのに、肌を刺すような朝だった。
 王都の南門へと向かう石畳の道を、私は護衛の兵に囲まれて歩いていた。
 最後に袖を通したのは、簡素な濃紺のドレス。王宮で過ごした日々にふさわしい豪奢さなどそこにはない。
 けれど、これでいいと思った。
 もう私は、セレスティア・アルセイン【侯爵令嬢】ではないのだから。
 ゆっくりと歩を進めるたび、空気が少しずつ変わっていくのがわかった。
 王城を出て貴族街を抜け、庶民の暮らす街路へと入った途端――人々の視線が、私に向いた。

 誰も、声はかけてこない。

 ただ、じっと見ていた。遠巻きに、まるで【何か(ゴミ)】を見るように。

(……まるで、見せ物みたいじゃない)

 心の中でそう呟いた瞬間、喉がぎゅっと締まる。
 まるで冷たい空気が肺に刺さるようで、何処か息をするのも少し苦しい。
 あれほど民の声に耳を傾けてきたのに。
 貴族たちの利権を押しのけて、税の是正に尽力したこともあった。
 農民の陳情に耳を傾け、読み書きができない子どもたちに学びの場を……でも、それらは今、何一つも思い出されていないらしい。

「……信じてくれる人なんて、もう……誰も、いないのね」

 ぽつりと漏れた声は自分のものとは思えないほど、か細かった。
 まるで小石が水面に落ちたように、すぐに静寂の中に吸い込まれていったかのように。
 ふと、遠巻きに並ぶ人々の姿が見えた。
 表情は見えないが、その口元がわずかに動くたび、耳の奥に幻のような声が響く。

「……国を裏切ったんだって」
「隣国に国を売ったらしいわよ」
「王妃になれなかった、哀れな女だな」
「結局、家柄だけだったんじゃないの?」

 風のせいにしたかった。幻聴だと思いたかった。でも、それはきっと――この国の【本音】なんだ。
 何人かと、目が合うが、皆、すぐに視線を逸らした。
 中には、こちらに背を向けて――まるで初めから私を知らなかったかのように、そっと踵を返す者もいた。

「……そうよね。私が何をしてきたかなんて、関係ないのよね。【反逆者】だって言われればそれが真実になるし……そんな国に……私は仕えていたのね」

 誰に言うでもない声が、馬車の前で止まった私の足元にぽとりと落ちる。
 護衛の兵が、無言のまま扉を開く。兵の顔すら、未だに見えない。
 中にあるのは、小さな荷物とくたびれた毛布が一枚だけ。

「……これが、私の最後の荷物なのね」

 フフっと静かに笑った時、喉が痛んだ。言葉を絞り出すたび、何かがちぎれる気がした。
 それでも、私は振り返らなかった。
 見送る者など、誰一人としていないのだから。

「……これでよかったのよ。私がいなくなればあの国も……少しは、落ち着くでしょう」

 自分にそう言い聞かせる声は、あまりにも弱々しくて、そのまま涙に変わってしまいそうだった。
 乗り込んだ馬車の扉が、音を立てて閉じられる。
 小さな音なのに、心の奥底では何かが壊れる音に聞こえた。
 それが、私にとっての終わりの鐘だった。
 馬車が動き出す。
 硬い石畳が車輪を通して足元に伝わり、音もなく遠ざかっていく王都の景色。何百回と歩いたはずのこの道も、もう二度と戻ることはないだろう。
 それでも私は、顔を上げていた――涙を見せるのは、もっと先でいい。

 その時だった。
 市門の少し手前――道の端に、小さな影が立っていた。
 その姿は少年だった。ぼろぼろの上着を着た、小さな子供。
 彼は誰に促されるでもなく、手の中の花を、馬車の進行方向にそっと投げた。
 白い、野花――街路に咲くような、何でもない、小さな花。

「……ありがとう、セレスティア様」

 その声は、風に紛れて私の耳には届かなかった。
 けれど、花が舞った気配には気づいた。
 馬車の窓を開けて外を見れば――道に、一輪の花が落ちていた。

「……」

 誰が置いたのか、誰が何のために投げたのか、それを確かめる術はない。
 けれど、心の奥で何かがほんの少し、緩んだ。
 私はそっと、顔を伏せる。

「……っ」

 頬を、一筋の涙が伝っていく。
 どんな言葉よりも、何よりも、あの花が――誰かがまだ私を覚えていてくれたという、それだけが、嬉しくて、悔しくて、痛かった。
 もう私は、この国にはいらない。戻ってくる事もきっとないだろう。
 でも、私は生きていかなければならない。あの花のように、どこかの地で静かに咲いてみせる。
 ゆっくりと、静かな音を立てながら、王都が遠ざかる。
 街の喧騒が背後に消え、視界には広い街道と空が広がった。

 ――私は、ただ前を向いた。

 拳を握りしめながら、静かに前を向くのだった。
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