追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第35話 女狐め……【王妃視点】


 香の煙が、ゆらりと揺れている。
 王妃の私室は、常に整えられているはずだった。磨き上げられた床、重厚な天蓋、壁に掛けられた王家の肖像画。
 だがその日、その空間には苛立ちが充満していた。

「……また、宝石を?」

 報告を読み上げるメイドの一人の声が、僅かに震えている。

「は、はい……南方産の大粒ルビーを三点。加えて新調の舞踏会用ドレスを五着。すべて国庫払いでの申請が――」
「馬鹿なの、あの女は」

 思わず、扇子を机に叩きつけた。
 乾いた音が、部屋に響く。

「いま王都がどのような状況か、理解しておらぬのか?」

 市場の混乱に物価の上昇。そして地方からの不満。
 それらの報告は、当然、私の耳にも届いている。

 それなのに――

「【王妃】になるのだから相応しい装いが必要、ですと」

 メイドが恐る恐る補足する。

「……女狐(エリス)

 歯の奥で、言葉を噛み潰す。

「王族の顔に泥を塗る気か……!」

 エリスーー元は貴族の娘。
 扱いやすく、欲深く、そして虚栄心の強い女。
 だからこそ、駒としては都合がよかった。
 王太子の目を引き、セレスティアを揺さぶる存在として育てた。
 多少の甘言と飴を与えれば、思い通りに動く。

 ――はずだった。

 だが最近はどうだ。
 自分こそが次期王妃だと信じ込み、政務には顔も出さず、社交と装飾にうつつを抜かす。

「……教育係は何をしているのですか?」
「何度も政務への出席を促しておりますが……『意味がわからない』『退屈だ』と」

 メイトはそのように言うとは目を伏せた。

「会議の最中に欠伸をなさり、退出されたことも……」

 額に青筋が浮くのを感じた。

「今すぐ呼び、叩き直しなさい」
「は、はい……」
「王妃になる器量がないなら、無理にでも身につけさせよ」

 声が低く落ちる。

「それが出来ぬなら……」

 言葉を切る――駒は、替えがきく。
 そう思った瞬間、自分の胸の奥に小さな棘が刺さった。

 ――替えが、きく?

 ふと、別の女の姿が浮かぶ。

 ――セレスティア・アルセインの顔が浮かんだ。

 あの忌々しい女。
 彼女はいつも冷ややかな目が、いつも私を見ていた。礼を尽くしながら、決して媚びぬ。
 あれはただの若い娘の目ではない。まるで国を背負う者の目のようだった。

 ……憎かった。

 息子を支配するかのような聡明さが。
 王族に匹敵する気品が。
 私の言葉にさえ、理で返してくるその冷静さが。
 だからこそ、排した。
 時期王太子妃としては【強すぎた】存在だった。
 だからこそ、捨てたのだ。理由をつけて、追放したはずだ。
 エリスをレオンハルトの誘惑させ、そして彼女を追放させるように仕向けたはずだった。
 反逆の疑いが持ち上がり、証拠が並び、感情が先走った。
 これでよかった、そのように思っていた。

 今、王城を見渡してみよ。
 政務は滞り、官吏は疲弊し、民は不満を募らせている。
 エリスは宝石を数え、息子は書類に埋もれ、私は火消しに追われている――皮肉なものだ。
 いつの間にか彼女の名を私は呟いていた。

「……セレスティアは」

 記憶が、静かに蘇る。
 深夜の執務室。机に向かい、山のような書類を整理していた姿。

『こちらは地方からの税の申請です。三ヶ月後に不足が出ます。今のうちに調整を』

 淡々と、しかし確実に先を読んでいた。

『この商人ギルドは貯蔵量をごまかしています。査察を入れるべきです』

 証拠を揃え、感情を挟まず、王国のために動いていた。
 私情ではなく、国政を見ていた――忌々しいほどに。

「今更ながら……エリスよりは、マシだったか」

 小さく漏れた本音に、自分で驚く。
 いや、違う。
 まし、ではない。

 ――適していたのだ。

 それだけだ。
 私は感傷に浸る女ではない。だが現実は、目を逸らしても消えぬのだ。

 その夜、貴族たちの小規模な会合があった。笑顔の裏で、囁きが飛ぶ。

「最近の宮廷は乱れているな」
「次期王妃候補があの有様ではな……」
「……王家の品格が地に堕ちたのか?」

 耳に入らぬふりをしても、言葉は刺さる。
 王家の品格。
 それは私が最も守ろうとしてきたものだ。
 権威。威厳。揺るがぬ姿――それが今、揺れている。

「……放ってはおけぬ」

 会合を終え、私は低く呟く。
 エリスは制御を失いかけている。
 だが、完全に切り捨てれば、今度は息子が暴れるだろう。レオンハルトは、感情に脆い。だからこそ、私は支えてきた。

(――国のため)
「そう、国のためだ……」

 私は常に国を優先してきた。
 セレスティアを排したのも、王家の安定のため。エリスを押し上げたのも、息子の心を繋ぎ止めるため。全ては王国のため。
 ……そうでなければならない。
 静かに、窓の外を見やる。
 その目に映ったのは、王都の灯りがどこか頼りなく揺れている姿だった。
 もし、もしあの女(セレスティア)が、まだ王太子妃候補のままだったなら、王都は今ほど軋んでいただろうか。

「……甘い考えだな」

 自嘲するように笑う。
 過去は戻らぬ。

「エリスを徹底的に教育せよ」

 低く命じる。

「王妃の器に仕立て上げる。何としても」

 そうでなければ、王家は崩れる。
 そしてもし、あの女が再び王都へ戻るようなことがあれば――その時は。その時こそ、完全に芽を摘まねばならぬ。
 王妃は、静かに目を閉じた。
 国政の重みは、時に人を狂わせる。
 だがそれでも、自分は正しい、と。そう信じなければ、この玉座には座れないのだから。
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