追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第41話 遅すぎた【将軍視点】

 焦げた木の匂いは、戦場を思い出させる。
 だが今夜のそれは、敵軍の放った火ではない。
 俺の砦の中で上がった火だ。南倉庫の屋根が赤く染まり、火の粉が夜空へ舞い上がる。
 兵の怒号、水桶のぶつかる音、板が爆ぜる乾いた響き。混乱は一見、火事そのものに集中しているように見える。だが俺の背筋は、最初から別の何かを警戒していた。
 火の勢いにしては、燃え広がり方が妙だ。油の匂いが強すぎる。
 倉庫の配置からして、あそこだけが燃えるのは不自然だ。風向きも読まれている。偶然じゃねぇ。

「っち……」
 
 俺は舌打ちをし、そして歯噛みしながら命令を飛ばす。

「南門を閉めろ!見張りを増やせ、火元から目を離すな!」
「将軍、火は抑えきれそうです!」
「抑えろ。だが火だけ見るな!」

 兵たちの動きは悪くないし訓練は積んできた。
 だが混乱の中では、どうしても視野が狭くなる。火があれば、人は火を見る。
 それを狙う奴は、必ず別の場所を抜く。
 嫌な胸騒ぎが、どんどん強くなる。

「……セラはどこだ」

 気づけば、口に出していた。近くにいた兵がきょとんとする。

「え……?さきほど中庭で――」
「何?……セラ!」

 名前を呼んでみたが返事がない。
 兵は周囲を見回す。
 それと同時に血が一瞬、逆流する感覚がした。

「――探せ」
「は、はい!」

 俺は低く命令する。
 声が思ったより冷えているのが、自分でも分かる。
 急いで周りの兵が走る。
 そして俺も歩き出す。いや、歩いているつもりでも足は速くなっている。
 中庭を抜け、通用門へ向かう。
 火の明かりが揺れ、影が踊る。
 焦げた匂いの中に、別の匂いが混じっている気がした。
 油だけじゃない。鉄と革。外から入った匂いだ。
 通用門の脇、足跡。新しい。二人分――いや、三人か。乱れている。抵抗の跡は少ない。
 拳が自然と握られる。

「……くそ」

 声が漏れる。
 やられた。火は陽動だ。狙いは最初から一つ。

「将軍!」

 ジークが駆け寄る。煤で顔が黒い。

「セラ様の姿が見当たりません。部屋にもおりません」

 言葉の最後がわずかに震えている。俺は通用門の外を指す。

「馬を出せ。三騎、いや五騎だ。軽装で追う」
「ですが夜です、視界が――」
「言い訳するな!」

 ジークに向けて怒鳴った。
 自分でも驚くほど声が荒い。
 兵たちが一瞬、動きを止める。

「……すまん」

 再度、歯を食いしばる。
 怒鳴ってどうなる、だが抑えきれねぇ。
 俺の砦で、俺の目の届く場所で、俺が守ると決めた女を、持っていかれた。

(……セラ)

 拳を握りしめながら、俺は静かに呟く。

「必ず、取り戻す……」

 つい数刻前、自分で言った言葉が胸に刺さる。
 あの時、あいつは怖いと言った。
 それでも逃げないと言った。
 俺は守ると言った。
 その舌の根も乾かねぇうちに、これだ。

「馬だ!」

 兵が引いてくる。俺は飛び乗る。
 鐙に足をかけた瞬間、怒りが形になる。
 火事を起こし、混乱を作り、死角から抜いた。
 訓練された動き――王都の騎士団か、影か。どっちにせよ、俺の領地に無断で踏み込んだ。
 許さねぇ。

「街道を北へ。森の分岐で別れる。足跡は残ってる」
「はっ!」

 夜風が顔を打つ。
 月は雲に隠れ、道は暗い。
 だが目は慣れている。街道に出た瞬間、轍がはっきりと見えた。
 新しい蹄の跡。三頭。急いでいる。
 あいつは暴れなかったのか。
 足跡に血はない。引きずられた形跡も薄い。
 ……叫ばなかったのか。
 胸が締めつけられる。
 彼女は分かっていたはずだ、ここで騒げば戦になると――だから飲み込んだんだ。
 俺たちを巻き込まないために。

「……馬鹿が」

 怒りと、別の感情が混ざる。
 誇らしさか。悔しさか。
 どっちにせよ、胸を焼く。
 森の入口で馬を止める。足跡が分かれる。
 俺は地面を睨む。湿った土に残る蹄の深さ。荷の重さ。
 中央の一頭がやや沈んでいる。
 乗せている。

「こっちだ」

 迷わず指す。兵が頷く。
 森へ入ると、木々が音を吸い込んでいる。
 追跡は難しくなる、枝が折れている。
 葉が踏まれている、焦りの痕跡――だが追いつくには時間が足りない。
 前方で、ふいにフクロウが飛び立つ。
 それだけで、距離を悟る。
 もう街道を抜けた。
 拳で木の幹を殴る。
 鈍い痛みが走る。
 遅い。俺が遅れた。火に目を取られた。
 守ると決めたくせに。

「将軍……」

 ジークが静かに言う。

「無理に追えば、伏兵の可能性も」

 分かっている。ここで深追いすれば、逆に削られる。
 敵は陽動を仕掛ける頭を持っている。単独で動くほど甘くねぇ。
 だが。

「……王都だな」

 低く言う。
 ジークが頷く。

「王妃派でしょうか?」
「王妃の命かどうかは知らん。だが――」

 これは忠義じゃない。功績を狙う目だ。
 つまり、勝手に動いている可能性もある。

「内部も割れてるな」

 王妃派、王太子派、そして野心家。
 勝手に火をつけて勝手に行動しやがる。
 腐ってやがる。

「将軍、どうなさいますか?」

 どうする?
 決まってる。

「取り戻す」

 短く言う。
 怒りは冷えてきている。
 だが消えていない。芯のように残っている。

「王都に入る準備をする。隣国にも知らせろ。密書を急げ」
「隣国まで……?」
「ああ」

 俺は馬の首を撫でる。息が白い。

「王都がこれ以上勝手をするなら、秩序ごと壊してやる」
「……ついに、動きますか」
「ああ」
「最後まで、ついていきますよ将軍」
「……」

 ジークは静かに一礼するのを見た後、俺は静かに息を吐く。
 兵たちが息を呑むのがわかったが、誰も反論しない。
 森を抜け、砦へ戻る。
 火はほぼ消えており、倉庫の一角が焼け落ち、黒い煙が立ち上る。
 兵たちの顔に疲労が浮かぶ。
 その中で、あいつの姿だけがない。

 胸の奥が、静かに燃える。
 怒りだ。
 後悔だ。
 誓いだ。

(セラ……)

 今度は口に出さない。
 誓いは、胸に刻めばいい。
 王都がどんな理屈を並べようが関係ねぇ。
 王妃の命だろうが、王命だろうが、知るか。
 俺の砦から奪った。
 それだけで十分だ。
 夜明けはまだ遠い――だが俺の中では既に戦が始まっていた。
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