追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第44話 君が必要だ。【王太子視点】

 母上の私室の前で、私は立ち止まっていた。
 扉の向こうから、低く抑えた声が聞こえる。女官の報告と、そして母上の短い指示。

「……例の女は、あの部屋へ」
「はい。厳重に」
「レオンハルトにはまだ――」

 そこで、私は扉を押し開けた。
 女官たちが一斉に息を呑み――母上は一瞬だけ目を細めたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻った。

「セレスティアを、連れてきたのですね」

 問いではなく、確認だ。母上はわずかに視線を逸らす。

「ええ、国のためです」

 その一言で、胸の奥がざわついた。
 国のため――その言葉を、私は何度も自分に言い聞かせてきた。
 彼女を切り捨てたあの日も、そうだ。感情ではない、秩序のためだと。王太子として正しい判断だと。
 だが今、王都はどうだというのだ?
 市場は荒れ、官吏は疲れ、貴族は不満を募らせている。私の机の上には処理しきれぬ書類が山のように積まれ、どれもが後手に回っている。税の調整は遅れ、地方からの嘆願は滞り、商人たちは好き勝手に値を吊り上げる。
 私は毎夜、紙の山と睨み合いながら、自分の未熟さを噛み締めている。
 あの頃は、違った。
 セレスティアがいた頃は、私が目を通す前に整理され、要点は簡潔にまとめられていた。先回りして問題を洗い出し、対策案まで添えられていた。私は最終判断を下すだけでよかった。それを当然だと思っていたからだ。
 彼女がいるのが当たり前で、支えられている自覚すらなかった。
 母上の声が、現実へ引き戻す。

「今は感傷に浸っている場合ではありません。王家の威信が揺らいでいるのです」
「……分かっています」

 だが、足はすでに動いていた。
 私は母上の言葉を背に、廊下を早足で進む。鼓動が早い。
 焦りが、胸を締めつける。
 あの部屋の前で立ち止まった時、一瞬だけ躊躇した。
 何を言えばいいのだろうか?
 謝罪か? 
 弁明か? 
 いや、そんなものはもう遅い――鍵を開け、中へ入る。
 彼女はソファーに座っていた。私に気づくと立ち上がる素振りもないが、静かに一礼する。
 その姿は変わらず美しく、だが、以前よりも強く見えた。

「ご無沙汰しております、レオンハルト殿下」

 その呼び方が、胸に刺さる。距離を示す響き。私は思わず眉を寄せた。

「その呼び方は、やめてくれ」
「では、何とお呼びすればよろしいのでしょう?」

 淡々とした声。感情を抑えた声音。
 私は数歩、彼女に近づく。
 彼女は逃げない。
 ただ、まっすぐに私を見る。
 その瞳に、かつて私へ向けられていた柔らかな光はない。

 ――私は、何を失ったのだろうか?

 言葉を探す。
 だが、胸に浮かぶのは国の現状ばかりだ。

「……王都は、見ただろうか?」

 彼女はわずかに視線を伏せた。

「ええ、見ましたわ」
「このままでは、持たない、徐々に終わりを迎えるだろう」

 声が擦れてしまう。
 誇り高い王太子であるはずの私が、こんな声を出すとは。

「――君がいなければ、この国は終わる」

 それは、本音だ。
 愛の告白ではない。
 切実な現実――彼女の瞳が揺れたのを見た。
 だが、喜びではない。

「それは、私が必要だから……ですか」

 問いかけは静かだった、だが鋭い。
 私は息を詰まらせる。
 必要だ、そうだ、必要だ。
 彼女の才覚が、冷静さが、先見の明が。今の王国にはそれが欠けている。

「……ああ」

 認めるしかない。

「もう一度、私の傍にいてくれ」

 言葉が、思ったよりも低く落ちる。懇願に近い。

「婚約者として、伴侶として……いや、それ以上に……この国を支える者として」

 彼女の表情は変わらない。
 だが、その沈黙が私を追い詰める。
 私は一歩、さらに近づく。

「私は……」

 言いかけて、言葉が途切れる。
 何を言うのか?
 愛している、とでも? 
 違う。
 それは違う。
 私が求めているのは、彼女の心ではなく彼女の力だ。
 自分でも分かっている。
 その事実が、情けなく、そして焦りを募らせる。

「私には、君が必要なんだ」

 もう一度、繰り返す。
 それは愛の言葉ではない。
 国を救うための、切実な要請。
 私は彼女を見つめたまま――静かに、彼女の唇が動いた。

「私に、この国を支える【道具】になれとおっしゃっているんですね、殿下」
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