追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路
第43話 閉ざされた部屋
重たい扉が軋む音とともに、私はその部屋へと押し込まれた。
足を踏み入れた瞬間、胸の奥がひどくざわつく。
見覚えがある、ここは忘れたくても忘れられない場所。
嘗ては何度も出入りした、王城の一角――王太子妃候補として用意されていた私室の一つだ。磨き上げられた床、淡い金糸の刺繍が施された天蓋付きの寝台、壁に掛けられた風景画。何も変わっていないはずなのに、すべてが遠い過去の遺物のように感じられる。
背後で扉が閉まり、重い錠のかかる音が、やけに大きく響いた。
まるで逃げ場はない、と告げるように。
「……ここに、閉じ込めるのですか?」
振り返っても、もう誰もいない。
連れてきた騎士は何も答えず、外から鍵を掛けただけだった。
私はゆっくりと息を吐く。
「……ふぅ」
何とか息をする事は出来た気持ちになる。
怒りも恐怖も、もう何度も味わった。
けれど今は、それよりも奇妙な静けさの方が勝っている。
この部屋は、かつての私が未来を夢見た場所だった――王太子の隣に立ち、国を支える日々を思い描いた場所。その幻想が砕け散ったのも、同じ王城の中だ。
足元の絨毯の感触が懐かしくて、同時に胸を締めつける。
私はゆっくりとソファーへ歩み寄り、腰を下ろした。
柔らかなクッションが沈む。以前と同じ香が焚かれているのか、ほのかに甘い匂いが漂っている。その香りすら、今は息苦しい。
両手を膝の上で重ねると、縄の痕が赤く残っているのが見えた。
辺境の砦での夜が遠い夢のように思える。
火の匂いと怒号、揺れる松明。
そして、振り返ったときに見えたはずの将軍様の背中。
(……将軍様)
心の中でその名を呼ぶだけで、胸がきゅっと痛む。
あの人はきっと、すぐに気づいただろう?
火が陽動と、そして私がいないことに。怒っているだろうか?それとも悔しがっているだろうか?
想像すると、苦しいのに少しだけ温かい。
あの人は約束してくれた、自分を守ると。
けれど私は、守られるだけの存在でいたくなかった。
あの場で叫べば、血が流れたかもしれない。だから黙った。自分で選んだ結果だ。
「……悪い事、しちゃったよね」
静かに、そのように呟いてしまったが、それを答えるモノはいない。
目を閉じると、辺境の朝靄が浮かぶ。
冷たい井戸水に手を浸し、サーシャと笑い合った時間。
炊き出しの湯気の向こうで、子どもが「おいしい」と笑った顔。
将軍様が不器用に「ここにいろ」と言った夜のこと。
あの低い声、強くて、でもどこか優しい眼差し。
王都では得られなかったものが、あの土地にはあった。
名も身分もなくても、ただの私として笑えた日々。
「さむい、な」
軽く、腕をさする。
この王城はどうだろう?
豪奢で、広くて、冷たい――壁は立派でも、人の心は痩せ細っている。
市場の荒廃、兵の沈んだ目、荒れた畑。
ここは、私が知っていた王都ではない。
私が必死に守ろうとした国は、こんな姿だっただろうか?
もしこのまま、レオンハルトの妻として、そして王太子妃となっていたら、違う未来があったのだろうか?
そんな問いが、頭の奥で渦を巻く。
(いいえ、違う)
私はゆっくりと首を振る。
過去を仮定しても意味はない――あの日、私は捨てられた。
信じてもらえなかったし、それが事実だ。
今さら呼び戻され、再び都合よく使われるつもりはない。
私はもう、王都の道具ではない。
それでも、怖くないわけではない。
これから何を求められるのか。
再審理か、それとも別の思惑か。
王妃の【影】が動いていることは、あの騎士の目で分かった。
野心が渦巻いている。
私は深く息を吸い、ゆっくりと吐く。ここで折れれば、また同じだ。
俯けば、また奪われる。
ソファーの背にもたれ、天井を見上げる。
嘗てはここで、未来の計画を練った。
税の調整、商人との折衝、地方との連携。
レオンハルトと共に国を支えるつもりだった――あの頃の私は彼を信じていたんだ。
胸の奥が、ちくりと痛む。
「……どうして」
小さく零れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
どうして、あの時、何も言ってくれなかったのか?
どうして、庇ってくれなかったのか?
どうして、私は一人で立たされなければならなかったのか?
答えは、もう分かっている。
彼は王太子であり、同時に未熟な一人の男だった。
誇りと感情に揺れ、周囲の思惑に絡め取られた。
それと、隣に居た女性の方が、良かったのだろうとすぐに理解したから。
それだけのこと。私はそれを受け入れ前へ進んだはずだ。
――それなのに、こうして戻ってきてしまった。
不意に、廊下の向こうで足音が止まる気配がした
。重く、ためらうような歩み。
胸がどくりと鳴る。
鍵の回る音が静かな部屋に響いた。
私は立ち上がらない。
逃げ場はない。
ならば、座ったまま迎える。
扉がゆっくりと開き――光が差し込み、その向こうに立つ影が見えた。見
慣れた背丈、整った衣服、だがどこか疲れを滲ませた姿。
レオンハルトが、部屋へと足を踏み入れた。
数瞬、沈黙が落ちる。
嘗ては当たり前のように交わしていた視線が、今は妙に重い。
彼は扉の前で立ち止まって私を見つめている。
その瞳には、困惑とも後悔ともつかぬ色が揺れていた。
「……久しいな、セレスティア」
低く、かすれた声。以前よりも少しだけ重みがある。
私はゆっくりと立ち上がり、裾を整える。
震えはない。胸の奥は静かだった。
「ご無沙汰しております、レオンハルト殿下」
形式通りに、淑やかに一礼する。嘗て身につけた礼儀作法は身体が勝手に覚えている。
彼はわずかに眉を寄せた。
「その呼び方は、やめてくれ」
「……では、何とお呼びすればよろしいのでしょう」
淡々と返すと、彼は一瞬言葉を失う。
視線が揺れ、すぐに逸らされた。
「君は……相変わらずだな」
「変わったつもりでおりましたが……どうやら違うみたいです」
小さく返すと、再び沈黙が落ちる。
嘗て未来を語った相手と、こうして距離を隔てて立っている――それだけで十分に皮肉だ。
私はまっすぐ彼を見つめたまま、静かに息を整えた。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
その問いに、レオンハルトはゆっくりとこちらへ歩みを進めたのだった。