その低い声で、私の嘘をほどかないで

第2話 聞かれてはいけない本音

午後五時十五分。

終業を知らせるチャイムが庁舎に流れると、市民課の空気が少しだけゆるんだ。

「お疲れさまでした」

「お先に失礼します」

職員たちの声が遠ざかり、窓口のシャッターが半分下ろされる。昼間は絶え間なく鳴っていた番号札の音も止まり、残ったのはコピー機の低い作動音だけだった。

私はデスクに残った転入届をそろえ、システムに受付番号を入力していく。

今日中でなくてもいい。
けれど明日に回せば、明日の私が困る。

そう思うと、どうしても帰れなかった。

市民課には毎日、いろいろな人生が持ち込まれる。

結婚する人。
離婚する人。
引っ越す人。
生まれた子の名前を届ける人。
誰かが亡くなったことを、淡々と紙に書いてくる人。

私はそれを受け取り、確認し、必要なら説明する。

余計な感情は挟まない。
それが仕事だ。

「藤野さん」

背後から名前を呼ばれ、肩が跳ねた。

振り向くと、課長席に佐伯怜司がいた。まだ残っていたらしい。

「まだ残業ですか」

「今日中に入力しておきたいものがあって」

「急ぎでなければ、明日でも構いません」

「あと少しなので」

できるだけ普通に答えたつもりだった。

けれど、静かな執務室で聞く佐伯課長の声は、昼間よりずっと近く響いた。低くて、落ち着いていて、耳の奥に残る声。

その声で名前を呼ばれるだけで、胸の内側が小さく震える。

「確認します」

「え?」

佐伯課長は私の隣に立ち、書類と画面を見比べた。

近い。

白いシャツの袖口から、清潔な柔軟剤のような匂いがした。

「この世帯主欄、旧住所と新住所で表記が違いますね」

「あ、本当ですね。修正します」

「お願いします」

たったそれだけの言葉なのに、指先がぎこちなくなる。

私は急いで入力し直し、保存した。

「藤野さんは、残業が多いですね」

「人より作業が遅いだけです」

笑ってごまかすと、佐伯課長は少し黙った。

「作業が遅い人は、窓口であれほど正確に対応できません」

思いがけない言葉に、手が止まる。

褒められたのだろうか。

けれど次の瞬間、佐伯課長は静かに続けた。

「ただ、抱え込みすぎです」

「……気をつけます」

「気をつけるだけでは、変わらないと思います」

その声が、少しだけやわらかかった。

胸がまた落ち着かなくなる。

だめだ。
これ以上そばにいられると、変なことを言ってしまいそうだ。

「課長、確認ありがとうございました。あとは私一人で大丈夫です」

遠回しに離れてほしいと伝えたつもりだった。

佐伯課長は私を見たあと、静かにうなずく。

「わかりました。無理はしないでください」

また、その声。

また、その言い方。

私は思わず、小さく息を吐いた。

「……だから、そういう声がずるいんです」

独り言のつもりだった。

声に出したつもりもなかった。

けれど、誰もいない執務室では、消しゴムが落ちる音さえ響く。

空気が止まった。

私はゆっくり顔を上げる。

佐伯課長が、こちらを見ていた。

「そういう声?」

低い声で聞き返される。

最悪だ。

よりによって、その声で。

「いえ、今のは」

「俺の声が、どうかしましたか」

責めるでもなく、からかうでもない。
ただ確かめるような声だった。

だから余計に逃げられない。

私は書類を握りしめる。

「……少し、苦手なんです」

「苦手」

「はい」

嘘ではない。
でも、本当でもない。

「不快でしたか」

「違います」

即答してしまった。

その速さに、自分で驚く。

佐伯課長の視線が、静かに私へ向けられる。

もう、ごまかせない。

私は机に視線を落としたまま、小さく言った。

「不快じゃないです。むしろ……その逆です」

沈黙が落ちた。

顔が熱い。

今すぐ席を立って帰りたい。明日から別の課に異動したい。できるなら、この会話ごと消えてほしい。

けれど佐伯課長は笑わなかった。

からかいもしなかった。

ただ、少しだけ声を落とした。

「藤野さんは、俺の声に弱いということですか」

「……言わないでください」

「すみません」

謝っているのに、声がやさしい。

そのやさしさが、また困る。

私は慌てて書類をそろえた。

「今日は帰ります。お先に失礼します」

「送ります」

「大丈夫です。駅、近いので」

「雨が強くなっています」

窓を見ると、外は本降りになっていた。ガラスに雨粒が細かく打ちつけている。

断る理由を探したけれど、見つからない。

「……では、玄関まで」

「はい」

佐伯課長は鞄を取った。

私はその背中を見ながら、深く後悔していた。

聞かれてはいけない本音を、聞かれてしまった。

しかも、よりによって本人に。

明日から、あの声で名前を呼ばれるたび、今日のことを思い出すのだろう。

そう考えただけで、胸の奥がまた熱くなった。
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