その低い声で、私の嘘をほどかないで

第3章 名前を呼ばれるたび、逃げられない

翌朝、私はいつもより十五分早く出勤した。

昨夜のことを思い出すたび、胸の奥が熱くなる。

――藤野さんは、俺の声に弱いということですか。

あの低い声で、そんなことを言われた。

今日は、佐伯課長と余計な会話をしない。そう決めていた。

けれど、執務室の扉を開けた瞬間、その決意は崩れた。

「おはようございます、藤野さん」

課長席から声がした。

佐伯怜司は、もう出勤していた。いつも通り落ち着いた顔で、書類に目を通している。

「……おはようございます」

声が裏返らなかっただけ、まだよかった。

私は自分の席に座り、パソコンを起動する。とにかく仕事に集中しようとした。

「藤野さん」

また呼ばれる。

それだけで、心臓が跳ねた。

「昨日の確認書類、こちらで預かっています」

差し出された書類を受け取るとき、指先が少し触れた。

「すみません」

反射的に手を引くと、佐伯課長がわずかに目を細める。

「そんなに警戒しなくても」

「警戒はしていません」

「では、緊張ですか」

「……仕事中ですので」

答えになっていない。

佐伯課長はそれ以上追及せず、机の上のファイルに視線を落とした。

「今日も窓口は混みそうです。山下さんのフォローをお願いします。ただし、全部引き受けないように」

「わかっています」

「本当に?」

少し柔らかい声。

その一言で、また胸が揺れる。

昨日までは、ただの業務連絡だった。
今は違う。

彼は知っている。
私が、彼の声に弱いことを。

午前中の市民課は、予想通り混み合った。

住民票、転入届、印鑑登録。番号札の表示はなかなか減らない。私は窓口と新人の山下さんのフォローを行き来した。

「藤野さん、この委任状って、ここでいいんですか」

「日付と署名を確認して。本人確認書類もね」

山下さんは真面目だけれど、まだ窓口に慣れていない。少し強く言われると、すぐ手元が止まる。

そのたびに、私は横から入った。

「お客様、こちらで一度確認いたします」

笑顔で対応しながら、視線を感じる。

少し離れた場所で、佐伯課長がこちらを見ていた。

怒っているわけではない。
ただ、私がまた抱え込んでいないか、確かめているようだった。

昼休み、給湯室で小野さんに捕まった。

「香澄、今日なんか変」

「そう?」

「課長に呼ばれるたびに固まってる」

「固まってないよ」

「もしかして、意識してる?」

「してない」

即答すると、小野さんはにやりと笑った。

「その即答が怪しい」

逃げようとした、そのときだった。

「藤野さん」

低い声が、給湯室の入口から届いた。

私は固まった。

佐伯課長は資料を手に立っている。

「午後三時の相談対応、同席をお願いします」

「はい、わかりました」

「無理のない範囲で構いません」

その声が、妙に優しい。

「大丈夫です」

「本当に?」

「……大丈夫です」

佐伯課長が去ると、小野さんが私の肩をつついた。

「今の何?」

「何でもない」

「耳まで赤いけど」

「暑いだけ」

「今日、涼しいよ」

何も言い返せなかった。

午後三時の相談は、離婚届に関するものだった。

窓口に来た女性は、バッグを握りしめていた。

「相手が勝手に出したら、受理されてしまうんですか」

私は制度を説明する。

「不受理申出という手続きがあります。ご本人が申し出れば、本人確認なしの届出を防ぐことができます」

女性はうなずいたけれど、不安そうだった。

「でも、夫に知られたら……」

その先を、無理に聞くことはできない。

私が言葉を探していると、隣の佐伯課長が静かに口を開いた。

「急がなくて構いません。ご自身の安全を一番に考えてください」

低く、落ち着いた声。

その瞬間、女性のこわばった肩が少し下がった。

私は気づいた。

この声に安心するのは、私だけじゃない。

相談を終えた女性が帰ったあと、私は思わずつぶやいた。

「課長の声って、安心しますね」

言ってから、はっとする。

佐伯課長がこちらを見る。

「昨日は、ずるいと言っていました」

「忘れてください」

「難しいです」

淡々とした声なのに、少し笑っているように聞こえた。

私は書類を抱えて立ち上がる。

「戻ります」

「藤野さん」

また呼び止められる。

逃げたい。

なのに、足が止まる。

「俺は、あなたを困らせたいわけではありません」

その声は、いつもより少し低かった。

「ただ、昨日のことをなかったことにはしたくない」

胸が縮む。

「……どういう意味ですか」

「あなたが何に安心して、何に緊張するのか。知っておきたいと思いました」

それは上司としてですか。

そう聞きかけて、やめた。

聞いてしまったら、何かが変わってしまう気がした。

私は視線を落とす。

「そういうところが、困るんです」

「声ですか」

「声も、です」

今度は、はっきり言ってしまった。

佐伯課長は何も言わなかった。

でも、その沈黙は嫌ではなかった。

名前を呼ばれるたび、逃げられない。
けれど本当は、逃げたいだけではないのかもしれない。

呼び止められるたび、少し安心している自分に、私はもう気づいてしまっていた。
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