その低い声で、私の嘘をほどかないで

第4話 その声は、私を責めなかった

その日の夕方、市民課に一本の電話が入った。

「午前中に転入届を出した者なんですが」

受話器の向こうの女性は、ひどく焦っていた。名前を聞いてシステムを開いた瞬間、私は息をのんだ。

午前中、私が処理した転入届。
小さな子どもの名前の漢字が、一画だけ違っている。

変換ミスだった。

けれど、名前だ。
間違えていいものではない。

「申し訳ございません。確認いたしますので、少々お待ちいただけますか」

保留ボタンを押した指先が冷たい。

どうして気づかなかったのだろう。最後に見直したはずなのに。

「藤野さん?」

背後から佐伯課長の声がした。

私は立ち上がり、早口で説明する。

「私の入力ミスです。お子さんの名前を誤って登録していました。今日中に保育園へ出す書類だそうで、すぐ修正して、住民票を再発行して――」

「藤野さん」

低い声が、私の言葉を止めた。

怒られると思った。
責められて当然だと思った。

けれど、佐伯課長の声は静かだった。

「まず、座ってください」

「でも」

「座って、手順を確認します」

私は椅子に座った。

佐伯課長は画面と申請書を確認し、淡々と言った。

「入力ミスですね。まず謝罪してください。修正に時間をいただくこと、三十分以内に再連絡することを伝えましょう」

「はい」

「一人で処理しないでください。私が確認します」

その一言に、胸が詰まった。

私はいつも、自分のミスは自分一人で取り戻さなければと思っていた。

でも今は違う。
相手がいる。
名前がある。

保留を解除し、私は深く頭を下げながら謝罪した。

「こちらの入力に誤りがございました。ご迷惑をおかけし、大変申し訳ございません」

電話を切ると、目の奥が熱くなった。

「すみません」

「今は反省より処理です」

佐伯課長の声は、私を責めなかった。
けれど、立ち止まらせもしなかった。

修正申請。記録作成。住民票の再発行。

隣で佐伯課長が一つずつ確認してくれる。

「焦らなくていいです。正確に」

その声が、浮き足立つ私を床へ戻してくれた。

三十分後、修正は終わった。女性はすぐ窓口に来た。

私は深く頭を下げる。

「このたびは、こちらの入力誤りによりご迷惑をおかけし、大変申し訳ございませんでした」

隣で佐伯課長も頭を下げた。

女性は正しい住民票を確認し、小さく息を吐いた。

「本当に困ります。名前なんですから」

その言葉が胸に刺さる。

「はい。おっしゃる通りです。申し訳ございません」

女性が帰ったあと、私は相談室に呼ばれた。

扉が閉まった瞬間、こらえていた息が漏れる。

「すみません」

また謝ると、佐伯課長は静かに言った。

「謝罪はお客様にしました。私には、経緯を整理してください」

私はうなずき、入力後に住所確認へ意識が向き、名前を見直したつもりになっていたことを話した。

声が震える。

「怒らないんですか」

思わず聞いていた。

佐伯課長は、少しも声を荒らげなかった。

「怒れば、同じミスがなくなりますか」

「それは……」

「必要なのは、原因と再発防止です」

正しい。
でも、その正しさは冷たくなかった。

「もちろん重大なミスです。名前は、その人自身に関わるものですから」

「はい」

「でも、あなたが軽く扱ったとは思っていません」

その一言で、涙が落ちた。

佐伯課長は何も言わず、箱ティッシュを差し出してくれた。

「藤野さん」

「はい」

「自分を責めても、仕事は戻りません。でも、改善すれば次を守れます」

その声は、私を責めなかった。

甘やかしもしなかった。

ただ、もう一度立つ場所を示してくれた。

「明日から確認方法を変えます。名前、住所、生年月日を必ず指差し確認します」

「お願いします」

低い声が、静かに返る。

私は涙を拭き、小さくうなずいた。

失敗しても、まだ続けていい。
その声に支えられて、私はもう一度、明日の窓口へ戻ろうと思えた。
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