不吉を呼ぶ姫は愛されないはずだった
番外編【前編】お帰りなさいませ――待ち続けた屋敷
朝八時半を少し過ぎた頃。
屋敷では、ほとんどの使用人がそれぞれの仕事を始めていた。
テリーも今日一日の予定を確認しようとしていたところ、玄関の方が慌ただしくなる。
ほどなく、一人の使用人が足早にやってきた。
「テリーさん。騎士団の方がお見えです。旦那様からの伝言をお預かりしていると」
「旦那様から?」
テリーはすぐに玄関へ向かった。
玄関ホールには、すでにクララと何人かの使用人が集まっていた。
騎士の衣服には長い道のりを急いできた跡が残り、顔にも疲労が滲んでいる。
テリーが近づくと、騎士は一礼した。
「団長より、屋敷の皆様へご報告をお預かりしております」
「伺います」
騎士は一度息を整えた。
「アリス様は無事救出されました。本日夕刻頃、団長とともにこちらへお戻りになる予定です」
テリーは思わず息を止めた。
――救出。
隣に立つクララの表情も変わる。
――戻ってくる。
その言葉に安堵するより先に、別の意味が胸に落ちた。
そもそも、ウィルとともに帰国することになった時点で、何か不測の事態が起きたということだ。
「アリス様に、お怪我はないのですか?」
テリーが尋ねると、騎士はすぐに答えた。
「命に別状はございません。アリス様がおられた塔に火が放たれ、団長が塔へ入り救出いたしました。煙を吸われましたが、医師の診察を受け、現在は落ち着いておられます」
クララが息を呑んだ。
「……旦那様は?」
「団長もご無事です。お怪我もありません」
その言葉に、テリーはようやく息を吐いた。
「承知いたしました。お疲れのところ、ありがとうございました」
「いえ。それでは、私は王宮へ戻ります」
「お気をつけて」
騎士が一礼し、屋敷をあとにする。
扉が閉じられた。
その直後だった。
「……塔に火が放たれたって」
誰かが呟いた。
それをきっかけに、抑えられていた声が漏れ始める。
「アリス様、本当に大丈夫なのかしら?」
「医師が診たと言っていただろう」
「でも、煙を吸われたって……心配だわ」
「旦那様も、火の中へ入られたのか」
「まぁ、旦那様なら入るだろう……」
次第にざわめきが大きくなっていく。
テリーが口を開く。
「皆さん」
決して大きな声ではなかった。
それでも、玄関ホールはすぐに静かになった。
「お聞きの通りです。お二人とも本日の夕刻にはお戻りになります」
隣にいたクララも、使用人たちを見渡した。
「でしたら、私たちが今することは決まっているでしょう」
いつものきっぱりとした声だった。
「きちんとお迎えできるよう準備することです」
「はい」
返事が重なる。
クララは近くにいた二人へ声をかけた。
「あなたたちは、アリス様がお使いになる客間の準備をお願いします」
「はい」
二人がすぐに動き出す。
テリーも必要なことを頭の中で組み立てていった。
――まず、アリス様の身の回りの品を揃えなければ。
――それにしても、まさか塔へ火を放つとは。どれほど怖い思いをされたことか……。
そう考えかけ、すぐに意識を切り替えた。
そんな状況であれば、ゼリアへ持ち込んだものが残っているとは考えない方がいい。
トルシアの塔にも私物は残されているが、もともとこの国へは一時滞在のつもりで来ていた。衣類も、それほど多くはなかったはずだ。
テリーは近くにいたイメルダたち四人へ声をかけた。
「塔へ行って、アリス様の私物をこちらへ運んでください」
「残されているものは、すべてですか?」
「えぇ。すべてお願いします」
もう、アリスがあの塔へ戻ることはない。
「クララさん」
「はい」
「アリス様のお召し物も必要になります。当面お困りにならない程度に、洋服店へ手配をお願いできますか」
クララはすぐに頷いた。
「分かりました。アリス様の寸法も分かっておりますから、すぐに用意していただけるでしょう」
「お願いします」
その時、少し離れたところにいたバラクが口を開いた。
「夕食は長旅のあとですし、温かいものがよろしいでしょうね」
「えぇ。よろしいかと」
テリーが答えると、バラクはすでに献立を考え始めたようだった。
「それから、アリス様がお好きなものを何品か……」
ぶつぶつと呟きながら、考え込んでいる。
やがて、何かを思い出したように顔を上げた。
「イチゴのタルトも焼かなくては」
一昨日にも、まったく同じことを言っていた。
どうやら、何があってもそれだけは譲るつもりがないらしい。
「お任せします」
テリーがそう答えると、バラクは力強く頷き、足早に立ち去っていく。
その背中を見送りながら、クララがふっと笑みを浮かべた。
「随分、張り切っていますね。まだ夕食の準備には早いでしょうに」
「バラクだけではないでしょう」
テリーは周囲へ目を向けた。
先ほどまでざわついていた使用人たちは、すでにそれぞれの持ち場へ散り始めている。
けれど、いつもより足取りが速い。
誰もが、どこか落ち着かない。
アリスがゼリアへ渡ってから、もう一年近くになる。
今日、ようやく戻ってくるのだ。