終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜
第12話 あなたのために。
圭太郎、と呼ばれた男性がなにかいおうとしたが、おばあちゃんは軽く手をあげてそれを遮った。ふん、と鼻を鳴らしてお皿を手にしたまま男性の横を素通りする。
なにが起こったのかわたしにはまったくわからない。え、かいちょう……って、言った? 会長? 町内、会長……とか? でもおばあちゃん、あの男性を叱ってたよね。あんまり聞き取れなかったけど、親、なのかな。とにかくきっと、ここにいるひとたちにも何か言える立場なんだ。すごいひと、なんだ。
と、その向こうから歩いてきたのは副部長。茂樹おじさんとの話が終わったんだろう。急ぎ足だったが、おばあちゃんの姿を認めて驚いたように立ち止まる。
「あっ、千穂子《ちほこ》さん」
「ああ、湊《みなと》くん。いらっしゃい。珍しいねえ、あんたが来てくれるなんて」
「ご無沙汰しています。突然お伺いしてすみません」
「なに言ってるの、わたしのとこはいつまでもあなたの実家って言ったじゃない。家に戻るのに遠慮する子供がありますか。久しぶりに会えて嬉しいわ、元気にしてたの」
「はい、おかげさまで……仕事もそれなりに順調です」
そこで副部長は、ちらっとわたしに視線を向けた。
千穂子さん、と副部長に呼ばれたおばあちゃんはそれを見つけたらしい。振り返ってもういちどわたしの顔をまじまじ眺めて、副部長に視線を戻す。手に持ったお皿をそのへんのテーブルにかちゃんと置いて、副部長に数歩、詰め寄った。彼の胸のあたりからまっすぐに顔を見上げる。
「ね、もしかして……」
副部長は少し目を見開き、ふっと息を吸い込むような表情をした。きゅっと口を引き結ぶ。知ってる。仕事で大勝負するときの、彼のくせ。
そうして、もういちどわたしに目を向ける。うん、と頷いてみせる。
あ……これ、って……わたしの、出番?
ちょこちょこと歩いて彼の横に移動する。千穂子さんの後ろに、周りにいたひとたちがなんだなんだと集まり始める。千穂子さんは手を前で重ねてにこにことわたしたちを見上げていた。
少し屈んでわたしの耳元に口を寄せ、副部長は囁くような声を出した。
「あのひとは、千穂子さん。神原千穂子」
「……は、はい」
「神原ホールディングス会長、一族の長だよ」
「ふ」
ふ、というのは笑いではない。ああ見えてきっと、どこかの会社の偉いひとのお母さんなんだろうな、びびったらダメだがんばれ美月と腹の底に溜めていたその覚悟を斜め上からさくっと両断された場合に出る声って、こんなものだ。息を止めていた肺の底から漏れるわずかな空気。
待って。待たないだろうけど、ちょいまち。
意識を飛ばしかけ、よろめくわたしの背、腰の上に手が当てられた。見えない世界で大暴れしていた心がすうっと落ち着く。服の上からでも伝わる温度。副部長。ほんと、ずるい。
ふうと息を吸って、吐いて、ん、と気合を入れる。
そうか。そうなんですね。いよいよ、だ。
わたしの仕事。
今日いちにち、買い取られた意味が、今にかかってる。
横を見る。
副部長のおだやかな表情。違う。おだやか、に、見える表情。作っているのがわたしにはよくわかる。緊張していることが手に取るようにわかる。伊達にずうっと、彼の表情を追ってないから。毎日、いつも、いつでも。
じっとりと手のひらに汗をかく。心臓が跳ねる。
絶対に、絶対に、失敗できない。
「……千穂子さん、皆さん」
副部長が抑えた声を出す。
「すこし、ご報告があります。僕はいま、こちらの佐倉さん……美月と、将来を真剣に話し合う関係にあります」
ほう、と空気が揺れた気がした。千穂子さんは何もいわずに静かに聴いている。
と、副部長がほんの一瞬、ピアノの方に目を向けたような気がした。そこにはもう、誰も座っていない。その誰かを、目で探しているように見えた。またわたしの胸の奥が小さくつつかれたが、でも、いまはそんな場合じゃない。すぐに声を繋ぐ副部長。
「……彼女は会社の後輩で、いっしょに仕事をするうちに互いに惹かれ合ったのです。いろいろご心配をおかけしましたし、いろいろなお声がけをいただいていますが、そういうことですから、どうか暖かく見守っていただければと思います」
そう言い、わたしにまた視線を向け、背を押す。
挨拶を、と言われているんだろう。
ごくんと息を呑み込む。いくぞ、美月。覚悟はできてたろう?
小さく前に出て、手を重ねてゆっくりと頭を下げる。
いざ。おのおのがた、いざ。
「は、はじめまして……あの、佐倉、美月と、申します。どうぞ、よろしくお願いいたしすっ」
はい終了。
いたしす。どの時代に生きてるんだよわたし。声、裏返ったし。もうやだ。ほんとやだ。頭を下げたままで顔じゅうの血管が膨張してゆくのを感じている。誰かわたしに塩をかけてください。だいじょうぶ軟体動物なのでそれで消えることができます。
と、横で副部長がわたしと同じ高さまで頭を下げた。こちらに目を向けないまま、ほんの小さく短く、声を出す。声には笑いが含まれていた。
「大丈夫だ。ありがとう」
「……っ」
柔らかな声に、ちょっと涙ぐみそうになる。その空気がきっと伝わったんだろう。小さな拍手のようなものがぱらぱらと起こって、おめでとう湊くん、可愛いお嫁さんだ、というような声がいくつかかけられた。
副部長はわたしを促して顔を上げさせ、再び下げる。集まっていたひとたちは副部長の肩を叩いたりしてからまた歓談に戻って行った。それを笑顔で見送り、残るのは千穂子さんだけ。
副部長と顔を見合わせる。ん、と目を細めて頷いてくれた。
お……わった、の、かな。
と、ふうっと眩暈を感じた。額に手をあてる。副部長がすぐに背を支えてくれた。
「大変。湊くん、お水、持ってきてくれる? 美月さん、ほらこっち」
二人に導かれて隅の椅子に腰掛ける。副部長はすぐに向こうに行ってしまった。隣の椅子に千穂子さんがちょこんと腰を落としてわたしの背中に手を沿わせる。
「大丈夫? 少し座っていたらいいわ」
「も、申し訳ありません……大丈夫です、ちょっと、緊張してたみたいで……」
「ふふ。そうよねえ」
そう言って、千穂子さんは細めた目の奥でくりんと瞳を動かし、わたしの耳元に口を寄せた。囁くような声を出す。
「……大変だったでしょ、湊くんの婚約者のふり、するの。ご苦労さま」
「ふぁぅ」
思わず大きな声が出た。ばんと仰け反り、背高の椅子の背に後頭部を強打する。痛ったあ、と手を当てたわたしの背を、千穂子さんはくつくつと喉の奥を鳴らしながらぽんぽん叩く。
「うふふ、わからないと思った? わたしもねえ、何年かは湊の家族をやってたのよ。ましてやあんな、嘘のつけない子」
「……う、え……」
「それから、嘘をつけないのはあなたもおんなじ。ふふ、ふふふ。可愛いわねえ、二人とも。ま、あの子がなにを考えてるかはわかるけど、今日だけにしておきなさいね。あとはわたしが、うまくやっておくから。ね?」
そういって千穂子さんは立ち上がり、わたしの正面に立って手を伸ばしてきた。握手を求めてるっぽい。でも、だけど、動けない。動かない。硬直したその手を、千穂子さんはがっちりと握ってぶんぶんと思い切り振ったのだ。
「お名前は? ほんとに、美月さん?」
「……あ、そ、そう、です……」
「そう。またどこかで、会えればいいわね。でも……」
そういって、千穂子さん……会長さんは、すうと笑顔を収めた。
細めた目の奥からわたしを射抜いたのは、温度のない瞳の色。
「ここは、あなたの世界じゃない。あなたのために言うのよ」