終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜
第13話 そういう、わたしを。
千穂子さんは最後にぎゅっとわたしの手を包み込むように握り、元の柔らかな表情に戻って、じゃあ、楽しんでらしてね、と一言だけ置いて行ってしまった。
副部長が戻ってきたのはそれからすぐ。
「すまない、意外と会場にはただの水が置いていなくてな、厨房までいってもらってきた……ん、どうした。千穂子さんは?」
呆然と椅子に座って正面に目を向けたまま動かないわたしに、副部長は水の入ったグラスを差し出した。が、受け取れない。答えられない。なんだろう。差し出されたグラスのなか、深い水に沈んでいるみたい。海の底で、水圧に潰されかかっているみたい。
わたしの様子がおかしいことに気づいたんだろう。副部長は隣に腰掛け、おい、と肩を小さくゆすった。その刺激でようやく、動くことができた。ううん、違う。動いてるんじゃない。震えることすらできなかったのに、やっとそれができただけ。
「どうした。なにがあった」
「……すみ、ま……せん」
ぎぎぎ、と音が鳴るように感じた。左となりの彼に顔を振り向けるのにずいぶんな時間を要したのだ。それでも、精いっぱいの苦笑を作った。筋力だけで、笑った。
「なにを謝ってる。千穂子さんからなにか言われたのか」
「……ばれ、ました」
「……なに?」
「わたしが、にせもの、だってこと……今日だけは許すけど、これっきりにしなさい、って。きっとなにか、わたし、やっちゃったのかも。へへ、やっちゃった……んですよね」
言うまでもない。心当たりしかない。ぜんぶぜんぶ、挙動不審だ。今日のわたしは。
いろんな気持ちがぐるぐるしてる。その奥に、いちばん底に、わたしは悔しいを見つけた。小さな小さな、悔しい。そりゃそうだ。一世一代の大芝居。副部長に買い取られたきょうのわたしの、唯一の仕事、存在意義。それが失敗、したからだ。
失敗……した、から?
ぎゅっと膝の上で手を握る。
違う。
わからないけど、わかってる。
まっすぐに、否定されたから。
あなたは彼の隣にいてよいひとじゃない。
あなたと彼の色は違う。
「……佐倉」
副部長も動かない。動けないよね。目論見、大失敗だもん。わたしのせいで。わたしが副部長とあまりに不釣り合いだから。身代わりすら、にせものすら、務まらないくらいに。
ごめんなさい、不出来なサンドバッグで。叩かれることすらできなかった。
動かない足を動かす。少しふらつきながら立ち上がる。
「あの、わたし、ちょっと出てますね。ええと、もう今日の……お仕事、終わりでいいんですよね。クルマのとこで待ってます」
「……」
「あ、大丈夫です、なんかすごい疲れたから寝てます。クルマで。だから、何時間でも大丈夫。寝てるの得意ですから。お気になさらず、副部長はゆっくり……」
「佐倉」
副部長はもういちど小さく囁きながら手を伸ばした。手首を柔らかく掴まれる。驚いて引こうとしたけれど、くっと力を入れられた。
戸惑って、腰掛けたままの副部長の目を見下ろす。真っ直ぐにわたしに向けられた、少し色素の薄い瞳。いつもの冷徹なそれに思えるけど、ほんの少し違う色が混ざってる。見たことがない色……見たかった、色。
と、小さく首を振る。
振っているその口元に、わずかに微笑が載っていることに気がついた。
「な、なに……笑ってるんですか。そんなにおかしいですかわたし、そりゃたしかにいろいろ……」
「違う」
副部長はいつものバリトン、抑えた声でわたしの言葉を遮り、少し早口に言葉を置いた。
「そういう君を、ここに呼んだんだ。俺が。俺の、意思で」
「……え」
「なにも失敗などしていない。君は今日ずっと、そうあってほしい君のままだった。千穂子さん……皆に見てほしかった君の、ままだった」
「……」
「だから、君はなにも謝ることなどない。そんな君を、俺は……」
副部長はそこで言葉を切った。俯いてもういちど上げた顔から微笑が消えていた。真っすぐに見つめられ、思わず目を逸らす。すう、と、彼が息を吸ったことがわかる。そうしてなにか声を出そうとした、そのとき。
ファンファーレのような音とともに、マイクを通じた大音響が会場いっぱいに響いた。
「はい、それではここで神原ホールディングス傘下、グループ企業のプレゼンテーションに移ります。どうですか皆さん、ちゃあんと用意してきましたか。年に一度、会長にまで見ていただける機会ですからねえ。普段はおっかなくて声もかけられないでしょうけれど」
わはは、という笑い声と拍手。皆が視線を向ける先にはさっきまでここにいた千穂子さんがにこにこと座っている。
呑んだ息を声として出すことに失敗したらしい副部長は、んん、となにか苦しそうな顔をしてから立ち上がった。わたしの横に並び、会場の奥、ピアノの横のステージみたいなところでマイクを握るひとのほうを向く。
そんな君を、俺は。
その、次。なんて言おうとしたんだろう、副部長。
唇をへの字に曲げて引き結び、小さく拍手を送る副部長の横顔を見上げる。
まだ、わたし、ここに居てもいいのかな。
「……では、まず最初の企業はこちら。創業五十年とグループ内では若い企業ながら国内最大手と肩を並べるまでに成長した不動産ディベロッパー、神原地所株式会社。今日は新設されたアライアンス事業部の次長さんに新規事業について報告いただきます。拍手を」
会場がすっと暗くなり、ステージの後ろのスクリーンにイメージ映像が流れはじめる。不動産ディベロッパーって、大型商業施設とかビルとか、街づくりをする会社、かな。
スクリーンを横切るように、舞台袖から人影がステージの中心に歩み出た。背景が明るいからシルエットでしか見えないけれど、たぶん女性。人影が立ち止まり、マイクを持ち上げてこちらに振り返る。会場の照明がゆっくりと戻ってゆく。
「……あ」
思わず声を上げてしまい、口を押える。
ステージの中央でマイクを握って柔らかな微笑を浮かべていたのは、上品だけどいかにもビジネスの最前線に立っているという感じのジャケット姿の女性。背のなかばまでのまっすぐな黒髪を揺らして会場を見回す。
そうしてわたしは、彼女を知っている。
さっき、ピアノを弾いていたひとだ。
真っ白のロングドレスから着替えているけど、間違いない。あの音、うねるような、叫ぶような音を出したときに激しく跳ねて、揺れていた髪。
と、わたしの左斜め上で、副部長がゆっくりと息を吐いた。その息に、かすかに音が混ざる。意識をしていないのだろう。わたしに聴こえると思っていないのかもしれない。
「……弥生《やよい》」
聴こえているけど、振り返らない。わたしはまっすぐにステージ上の女性を見つめていた。
マイクをとんとんと叩いて、彼女はゆっくりと口を開く。
「皆さん、こんにちは。ただいまご紹介にあずかりました、神原地所、アライアンス事業部の神原弥生です。どうぞよろしくお願いいたします」
柔らかな声でそういって頭を下げ、もう一度顔をあげて。
そのときに、目が合った。
気のせい、じゃない。隣の副部長を見て、わたしを見て。
ほんの少し、彼女は目を細めてみせたのだ。