終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜
第15話 いちばんのピエロ。
え、いまそれ、言っちゃいます? 副部長。
あはは、もうバレてますよう。悪あがきはここまでですね、帰りましょ帰りましょ。
うう、そうやって明日と明後日、ガチ残業が待ってるんですよね。
いつもの、そんな言葉。浮かんだ。ちゃんと。
どれにしようかなって迷ってるうちに、でも、言えなくなった。
副部長がわたしになにかを言おうとしてたのはほんとうだ。だけど、わかってる。そんなロマンティックなことにはならないし、なにを言われたとしてもそこに深い意味なんてないってことくらい、わかってる。
それでも。なにを言ってくれるんだろうって。
わたしがここにいてもいい理由を、ほんの少しでも補強してくれるのかなって。
待ってしまっていた。
となりにいてほしい、ひと。
そんな言葉に、こんな場面に見せているべき表情なんて、わたしは持っていない。たぶん泣きべそを我慢してるみたいな顔になっていると思う。
「……そう」
息を含んだ短い言葉を、弥生さんは口にした。柔らかな表情のまま。副部長に置いている視線も動かない。ただ、少しだけ瞳が揺れたような気がした。
何秒くらいだろう。小さな深呼吸をしているようにわたしには見えたけれど、その仕草のあと、だけど彼女は笑ってみせたのだ。夏の花がぱあっと咲いたような、そんな表情で。
視線がわたしに向く。
「じゃあ、ご挨拶しておかなくちゃ。ね、よろしいかしら」
「あ、は、はい……」
副部長の背中から一歩、踏みだす。手をおなかの前に重ねる。彼女の仕草、さっきステージの上で見たそれを真似したのだ。だって、とても綺麗だったから。
彼女も同じように踏み出し、握手ができるほどの距離に立つ。
「はじめまして、佐倉、美月です。あの、ふくぶ……み、湊さんとは、同じ会社で働いています。彼が上司で、わたしは部下で」
「あら、そうなんですね。じゃあ、お仕事、割と近いのかもしれませんね。それならこういう挨拶の方がいいかもしれない」
そういいながらジャケットのポケットから名刺入れを取り出し、慣れた所作で一枚をわたしのほうに差し出した。
「お世話になっております。神原地所、アライアンス事業部の神原弥生と申します」
「あっ、お、お世話になっております。アルテミスホーム、企画部の佐倉と、申します……あの、ごめんなさい、名刺……ちょっと、クルマのなかに置いてきてしまって」
「ふふ、お気になさらないでください。こんなところで名刺を出すわたしのほうがマナー違反なんですから。ほんのちょっと、意趣返しです」
「……え」
意味が分からずにわたしが漏らした声には答えず、静かな笑顔を含んだままで弥生さんは足を引き、もう一度まっすぐに副部長を見つめる。
「佐倉さんをわたしに会わせたい、っておっしゃったのは、そういう意味、なのですよね」
副部長も一拍、置いた。でも、すぐにはっきりとした声を出す。
「そうだ。そう、受け取ってほしい」
「わかりました。湊にいさんのお隣に、いま、佐倉さんが立っておられること。湊にいさんが、それをわたしに示したいって思われたこと。ぜんぶ、承知いたしました」
「……そう、か」
副部長の言葉は、吐息とも嘆息とも取れるような呼吸のなかに掠れて聴こえた。弥生さんは表情を崩さない。しばらくそのまま彼の顔を見つめたあと、小さく頷くような仕草を見せた。
「……ええ、たしかに。では、今度はわたしからひとつ、ご確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「ん、ああ。なんだ」
「お二人は、すでに正式に婚約をなさっているのでしょうか。結納はお済ませに?」
弥生さんの視線がわたしの薬指のうえを通り過ぎ、副部長の同じ場所で止まった。思わず、ぎゅっと指を丸めて握り込んでしまう。婚約指輪なんてあるはずもない。ああ、もう、無理。もうやめようよ。
副部長はちらとわたしを見て、それでも動揺する素振りもなく首を振った。
「いや、まだだ。今日は内々での挨拶のつもりだった。将来のことは、これから……」
「では」
副部長の言葉を中途で遮り、弥生さんが胸に手を当て、目を細める。
「では、わたしもまだ、リングに立つ資格を失っていない。そういうことですね」
「……な、に?」
上擦ったような声を出す副部長。意味が通っていないのだろう。わたしもおなじ。リング、って……あの、格闘技、の……? 弥生さんが、闘う相手、って……。
そこで、弥生さんの視線が副部長からわたしに移っていることに気がついた。
ずっと微笑んだまま。目を、細めたまま。その口が小さく動く。
よろしくお願いします、って。
と、そのとき。
わあっ、という声。ステージの方からだ。慌てたように何人かの男性が走っていった。がらん、かしゃん、といろいろなものが倒れたりテーブルから落ちるような音。弥生さんも驚いたように振り返る。捕まえろ、そっちへ行ったぞ、と誰かが叫んでいる。
見ていると、人混みのなかでなにかが動いている。動いているというか、会場のあちらこちらを飛ぶように移動してる。じっと見ていると、そのうち足元を走り抜ける白い毛皮が見えた。
あ、さっきの。ステージで家族の様子を演じてたときの、犬。
ちらっと見えた毛皮は濡れて汚れているようだった。たぶん、会場の隅にいたのがなにかの拍子でびっくりして、テーブルとかひっくり返しながら走り出しちゃったんだろう。
うちの実家にも犬がいたからよくわかる。雷とかでパニックになって、よくああやって大暴れしてた。そこでリードを放しちゃうともうほんとに捕まらないのだ。
弥生さんはちょっと怯えたようにこちらに歩み寄る。こちらというか、副部長へ、だ。ただ、そのぶんだけ副部長も脚を引く。なんとなくその仕草にほっとする自分が、きもいなあと思う。その、ほ、は、どこから出てくるんだ。にせものめ。
「さく……美月、こっちに来るかもしれない、俺の後ろにいろ」
副部長が声をかけてくれる。名前呼びで心臓がぽんと爆ぜたが、頷いて足を出そうとしたとき。
人混みのなかから飛び出すように犬が走り出てきた。わっと思わず声が出る。犬はわたしたちの方へ走ってきて、でもすぐに方向転換。めちゃくちゃに走り回ってる。近くに寄ったときによく見えたけど、脂ぎったソースとかお酒とか被って、もうどろどろ。
かわいそう。はやく、捕まえて……。
と、右手のほうに走っていった犬が、反対側、左の壁側に避難していた子どもを見つけたらしい。さっき、わんわんが来たよ、って言った子だ。犬がいったん立ち止まる。尻尾がちぎれんばかりに振られる。
やばい。
わんこはたいてい、子どもが大好き。おまけに超興奮状態。
子どもの顔が引きつる。横にいるお父さんらしい男性はぼんやりと犬を眺めている。なにが起ころうとしてるか、わかってない。わたしは犬と子どもに目を走らせ、そうして、副部長の横顔をちょっと見上げた。ん、と視線を返してくる。
ごめんなさい。もう、たぶん、返せません。服。
心のなかだけで謝って、わたしは右足に体重を乗せた。膝を軽く曲げる。
副部長がわたしの仕草に気がついたらしい。おい、とこちらに手をあげるのと同時に、犬が走り出す。タイミングをはかり、ふっと息を吐き、左足で床を蹴った。どろどろの毛皮がわたしの前を通過しようとしたそのときに、身体をぶつけるようにして抱きついた。その勢いのままでごろごろと転がり、テーブルのひとつに背中をぶつける。
「……あいたっ」
痛みに顔をしかめ、きゅっと目を瞑る。と、べろりと顔中に湿ったくすぐったい感触。薄く目をあけると、わんこの大きな顔が鼻の先にあった。その向こうにぶんぶんとものすごい勢いで振られている尻尾が見える。寝転がっているわたしにのしかかるように顔を舐めまくっているのだろう。遊んでくれたと思っているのかもしれない。
「わああ、わかったわかった、あはは、やめてやめて」
もういなくなった実家の犬を思い出す。懐かしいなあ。いっつもこうやってのしかかられてた。つい、わたしも両手でわんこの両脇をぐりぐりして、首筋をもさもさと揉みまわしてしまう。首筋を舐められてくすぐったくて笑い声が出てしまう。
ひとしきりそうやったころ、ようやくリードを持った男性がやってきた。すみませんすみませんと何度もいいながら犬をわたしから引きはがし、連れていった。
やっと解放されたわたしは、よろよろと身体を起こす。床にぺたりと座りこんだかたちで、はあ、と息を吐く。周囲をゆっくり、見回す。
はい。わかってます。大丈夫。見えてます。ぜんぶ。
わんこのどろどろと抜け毛とに塗れたシルクワンピも。
めっちゃくちゃに舐められて崩壊した顔面も。
ざわめきすら失って呆然とわたしを見つめている、会場のひとびとも。
えへへ、と眉尻を下げて笑いながら、お似合いのふたり……副部長と弥生さんを見上げる、きょういちばんのピエロのわたしの、情けない表情も。