終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜
第16話 退場……だよね?
よっこらせ、と立ちあがろうとする。
が、ごろごろ転がったためか、いろんなことがありすぎて平衡感覚がどっか行ってしまったのか、またしても目眩がわたしを襲った。ふらりとよろめく。
ただ、倒れない。
「……佐倉」
いつの間にか横に膝をついていた副部長。とっさに名前呼び、やめちゃってるし。わたしの背中に手を当て、自分の肩に押し付けるようにしている。抱き寄せる、と、受け止める、の間くらい。一瞬、ちょっとふわっとした。でも即座に目が覚める。
いかん。汚れる。スーツ。ただでさえ上着にシミあるのに、わたしの全身を覆ったどろどろが移っちゃう。
「あっ、副部長、ダメです汚れます、上着も膝も、はなして……」
「黙れ」
副部長が顔を寄せ、今日いちばんの低い声を出した。反射的にびくりと固まる。至近距離で細められた目の奥から向けられる瞳の温度は、氷点下。
「後ろにいろと言ったはずだ。俺の、後ろに。なぜ飛び出た」
「……あ、あの……子どもが、危ないと、思って」
「なぜ自分も危険だと思わない。なぜ、自分をいちばんに守らない」
短く低く、ごく小さく。耳元で叱責する言葉は、だけどなんだか、柔らかい。肩をすぼめてうなだれたけれど、少しだけ胸の奥がくすぐったい。
「……ごめんなさい」
「ひと懐っこい犬だったからよかった。興奮して噛まれたかもしれなかったんだぞ。怪我でもしたら……」
続けて言われながら、わたしの口元が緩んでいることに気づいたのだろう。副部長は言葉をおさめてしばらく黙り、目元を細めて首を振った。顔をあげたわたしと目が合う。わずかな時間、正面から交わした彼の視線には、冷徹も揶揄いも感じなかった。
と、わたしたちを囲んでいた会場のひとたちがまた少しざわめいた。ふたりとも顔を振り向ける。
「……あら、あら」
千穂子さんが人混みをかき分けて姿を見せた。柔和な表情は崩していない。目元を細めながら、でも、眉根がほんのすこし寄せられていることはわたしには見えている。
歩み寄ってわたしのすぐ横にしゃがむ。そうやってじっと見られていると副部長の腕に収まっているのが恥ずかしくなり、身悶えして抜け出し、床にぺしょりと落ちた。
「なんてこと。お怪我はなかった?」
「だ、大丈夫です。わたし、あの……身体、頑丈なので」
あはは、と笑って見せたが、千穂子さんは同じ表情では返さなかった。
細めていた眼を少し見開く。顔を寄せてくる。小声で囁く。
「……美月さん。あのね、これは駄目。こういう場所では、わきまえる、ってことがとても大事なの。トラブルがあれば、それに対処するひとに任せる。できるからといってそれをしていい、ってことにはならない。みんな、それぞれすべきことがある……わかる?」
とつとつと静かに送られる言葉にぐうの音も出ない。
「……申し訳ありません」
「あなたが怪我でもしたら、あの犬を放してしまったひとがもっと大きな責任を負うことになる。もしかしたら仕事を失うかもしれない。なにかするときには、そういうことまで考えなければいけない。それが……こういう場所で、わたしたちの世界。ね?」
ぽんと肩に手を置かれる。なにも言えないわたしに千穂子さんはうんと頷いてみせてから顔を上げ、近くに立っていた弥生さんに視線を向けた。
「弥生」
その言葉だけで、弥生さんはなにか理解したらしい。青ざめたような表情で胸の前に手を合わせていたが、ぐっと飲み込んでわたしに歩みよった。手を差し伸べる。
「こちらにどうぞ。お召し替え、お手伝いします」
「あ、いえ、着替えなんて、持ってきてなくて……」
持ってきてる。ただし、半徹夜の仕事中に着ていたよれよれスーツだ。出せない、そんなもの。と、後ろから千穂子さんにまた低く短く、わたしにだけ聞こえるように声をかけられた。
「ありがとうって言って、平然と頷くの、そういうときは。いろいろと、なんとでもなるんだから」
「は、い……」
弥生さんに手をとられて立ち上がる。副部長にちょっと頭を下げて、弥生さんに案内されるままに会場を横切った。
ステージ横の出口をくぐってしばらく行ったところのドアを開く。控え室のような部屋だった。衣装棚と鏡台が並んでいる。スーツケースがたくさん置いてあるのは会場のひとのものだろう。
弥生さんはわたしを鏡台の前に座らせて、保温ケースからおしぼりを取り出して渡してくれた。ありがとうございます、と受け取るわたしの顔をじっと見つめている。
「……びっくりしました」
「あ、す……すみません」
居酒屋のおじさんのようにごりごりとタオルで顔を拭きはじめていたわたしは、そのことに驚かれたのか、さっきの振る舞いについて呆れられたのか、判断がつかなかった。顔はもう、いいじゃない。どうせわんこに舐められてぼろぼろなんだし。
と、鏡越しの弥生さんは、ふっと息をひとつついた。そうしてぺこりと頭を下げてみせる。
「こちらこそ、申し訳ありませんでした。さっきのことは主催者の手落ちです。わたしも本家筋として手伝っていましたから、わたしの責任でもあります。でも、まさか……佐倉さんが飛び出すとは思わなくて」
う、と首を縮める。
「じ、実家にも祖母の家にも大きな犬がいたから慣れてますし、ずっと運動部で、なんだろ、反射的にディフェンスしちゃうというか……」
「ディフェンス?」
「あ、小中高と、ずうっとサッカーやってたんです。守備のポジションで」
目を丸くして、弥生さんはぷっと噴き出した。
「サッカーボールと犬はずいぶん違いますね」
「ボールじゃなくて、相手選手……引きずり倒してでも止めろってよく言われて」
「へえ。サッカーって、そういう競技だったんですね。見たことなくて」
「いえ、反則です。一発退場です。わたし、よく退場になってました。ここと一緒で」
えっ、と言ったあと、弥生さんは声を立てて笑いはじめた。鈴を転がすような、っていう言葉があるけど、ほんとにそんな感じ。優しくて柔らかな声につられて、わたしも表情を崩す。
しばらく背中を震わせていたけど、そのうち止めて、いったん深呼吸をしていた。鏡越しにもういちどわたしを見つめる。
「……そっか。そういう、ことなんですね」
なにを言われているのか分からずに言葉を待つ。でも、弥生さんはひとりでうんうんと頷いて、そのまま向こうの戸棚に歩いていってしまった。
「引き出し、見てみてください。ひととおりお化粧道具は揃っています。お洋服は……たぶんわたしのものがサイズ、ちょうどいいと思います。何枚か持ってきているので、もし、お嫌じゃなければ」
「あっ、いいえ、とんでもありません、あの……ありがとうございます」
「ふふ。いまお召しになっている、湊にいさんの贈り物ほど良いものではないですけれど」
鏡台の引き出しにかけた手が止まる。
鏡のなかの弥生さんは、こちらに背を向けたままで声を続けている。
「今日、たぶん、ここへ来られる途中でお店に寄ってこられたんじゃありませんか?」
「……どう、して……それを」
「あはは、やっぱり。湊にいさん、ほんと不器用」
口元に手を当てて背を揺らしている。
「それとも、あえて、かな。一度だけ、服を買ってくれたときに連れて行ってくれたお店。それから何度もお世話になってるんです。そんなお店の服、わからないわけがないのに、ね」
「……」
「ごめんなさい、佐倉さん。直球でいきます」
動きを止めて、ちょっとこちらに振り返る。
「たぶん、湊にいさんとはまだ、そう長いお付き合いではないですよね。もしかしたら……お付き合いされてもいない。今日のために、無理やり連れてこられた、とか?」
がたり、と椅子から腰が浮く。
ま、た? え、なんで……。
千穂子さんに続いて、弥生さんにまで見抜かれて。そっか。そんなにわたし、ダメだったんだ。もう少しなんとかなってると、思ったんだけどな……。
浮かせたお尻をどすんと落として、俯く。
弥生さんはくすくすと笑っている。
「図星、ですね。だとすれば……わたしの勘の方も、きっと、当たってるな」
当たってるも、なにも。わたしは間に合わせの代替品です、って、いま認めたようなものでしょ。意地悪を言われているのだと理解したわたしは、俯いたままで鏡を上目に睨んだ。
「……佐倉さんのこと、ずいぶんわかりました。でもこれじゃ、フェアじゃない気がします。わたしのことも少し、お伝えしておきますね。そのご様子だと、わたしのこと、湊にいさんは少しもお伝えしてないんですよね」
「……は、い……?」
「だって」
服を選びながら振り返り、鏡越しにわたしと目を合わせて、弥生さんは少しいたずらっぽく眉をあげた。
「長いお付き合いになりそうですから。偽物さんに負ける気はしないけど、さっき犬に飛びついた佐倉さんには……わからない」