終電を逃した夜、鑑賞用の王子様は婚約者にした私を離さない
すぐ真上から落ちてくる低い声。 
同時に、後ろから伸びてきた腕と、スパイシーでウッディな香りに囲われる。

誰かなんて聞かなくても分かる。
  
「あや……と……」  
「早かったね、綾人」
「当たり前だろ」
「なんで……?」

ぐちゃぐちゃな顔を見られたくなくて、とっさにおしぼりで覆う。
無駄な抵抗と言わんばかりに、すぐに剥がされた。
歪んだ視界に、スーツ姿の綾人が映っている。  
 
「こっちのセリフだ、バカ」
「あたし……離れなきゃって……」
「だから、迎えにきた」 

あたしの手からグラスを奪い取ると、そのまま飲み干す。
まるで、ブルームーンに隠された意味ごと——。   
 
「ちゃんと返してもらうからね」
「分かってる、ありがとな勇」

綾人はあたしの荷物を持って、腕を引っ張り上げる。 

「帰るぞ」

手を振るマスターと阪野先生を後に、お店を出る。
 
夜空に浮かんだ三日月と終電のアナウンス。

繋がれた右手のぬくもりに、さっきまでの寂しさが嘘みたいに消えていった。  
< 90 / 121 >

この作品をシェア

pagetop