『神の手を持つ社長は、隠れ限界オタクを鍵盤の上で転がす』
第一章:完璧な私の、誰にも言えない秘密
「大塚先輩、先ほど提出した企画書の件ですが……」
「ああ、それならもう修正しておいたわ。そこのデータの整合性だけ確認して、夕方までに提出しておいて」
「えっ、もうですか!? ありがとうございます! さすが大塚先輩、本当に完璧です!」
後輩の羨望の眼差しを背中で受け止めながら、私はフッと優雅な笑みを浮かべてみせる。
大塚結衣(おおつかゆい)、二十六歳。中堅IT企業に入社して四年目。後輩もでき、社内では「デキる女」「公私ともに完璧」と噂されている。
――いや、完璧を装っている、と言った方が正しい。
「ふふ、みんな騙されてるわね……」
デスクに戻り、パソコンに向き合った私の脳内は、今、全く別のことで占められていた。
私には、誰にも言えない秘密がある。
そうなのだ。私は、特定のパーツに異常ともいえるほど萌えてしまう、筋金入りの【手・指先フェチ】。重度のパーツオタクなのである。
どれほど仕事でスマートに立ち回ろうとも、私の本性は、イケメンの美しい手を見るだけで理性が吹き飛ぶ限界オタクだ。
世間の女子が「顔が好み」「背が高い」と盛り上がる中、私の評価基準は常に「手」の一択。けれど、現実にはそう簡単に理想の手など転がっていない。爪の形、関節の節度、皮膚の質感、浮き出る血管のバランス――。私の高すぎる理想を満たす手に出会えないまま、恋愛経験はほぼゼロのまま二十六歳になってしまった。
そんな私が、一か月前、ついに「運命の神の手」に出会ってしまったのだ。
それは、仕事で大きなプロジェクトを終え、疲れ果ててふらりと立ち寄った、路地裏の隠れ家バーでのことだった。
スモーキーな琥珀色の照明が足元を照らす、大人のための静かな空間。その店の奥には、アンティーク調の古いアップライトピアノが置かれていた。
「いらっしゃいませ」
低く心地いい声に顔を上げると、カウンターではなく、そのピアノの前に一人の男性が座っていた。店のマスターの知人らしく、時折こうして店を手伝いつつ、趣味でピアノを弾いているのだという。
意識した時には、すでに遅かった。
彼がすっと白黒の鍵盤に置いた、その【手】に、私の目は完全に釘付けになった。
(な、何あの神の造形は……っ!?)
細く、長く、無駄な脂肪が一切ない、しなやかな指先。
爪は清潔に、けれど丸みを帯びて美しく整えられている。
彼が静かに最初の音を紡いだ瞬間、私の心臓は跳ね上がった。
流れ出したのは、どこか気だるく、胸を締め付けるようなJAZZの旋律だった。
音色そのものが、彼の感情を映し出すようにエモーショナルに波打っている。そして、それに合わせて動く彼の指先は、言葉を失うほどに雄弁で、エロティックだった。
アドリブの激しいステップを踏むように、鍵盤の上をめまぐるしく躍動するしなやかな指。
時に強く、激しい不協和音を刻む瞬間に、男らしくクッキリと浮き上がる手の甲の筋。
かと思えば、かすれるような切ない弱音(ピアニッシモ)に変わると、鍵盤を愛おしそうに、まるで恋人の肌を撫でるような滑らかなフェザータッチに変わる。
強さと優しさ、しなやかさ。そのすべてが、十本の指の動きだけで完璧に表現されていた。
(ああ、もうダメ……トドメを刺された……!)
カウンターの端でグラスを握りしめたまま、私は完全に息をするのを忘れていた。
心臓がドクドクと警報を鳴らす。奏でられるエモーショナルなJAZZの音色と、その極上の音を生み出す罪深い指の動きが、視覚と聴覚から私の脳内に直接流れ込んでくる。
私の理性のすべてが、あの指の動きによって木っ端微塵に打ち砕かれていく。
抱かれたいなんて、そんなおこがましいことは言わない。
私はあの指が奏でる、切ないブルーノートの1音になりたい。
一生、あの手のひらの上で転がされていたい――!
「……お口に合いましたか?」
演奏を終え、いつの間にかカウンターの中に戻っていた彼が、私にグラスを差し出しながら微笑んだ。
その瞬間も、私は彼の指先を見ていた。氷を操る長い指、グラスを持つ親指の角度。
「あ、は、はい! すごく、美味し、じゃなくて、素敵な演奏でした……!」
完璧な女の仮面はどこへやら、私は完全に挙動不審なオタクと化していた。
彼は少し意外そうに目を丸くした後、ふっと、底知れない大人の笑みを浮かべた。
「ありがとう。そんなに熱心に聴いてもらえると、弾いた甲斐があるよ。……また、聴きに来てくれる?」
「もちろんです!」
食い気味に答えた私を、彼は優しく、どこか楽しげに見つめていた。
それからというもの、私は毎週、彼の「手」と「JAZZ」の余韻に浸るためだけに、そのバーに通い詰めるようになった。仕事の原動力はすべて彼の指先。完全に彼の虜になっていた。
――だが。
そんな夢のような溺愛(一方的な崇拝)の日々は、ある朝、唐突に終わりを告げる。
「大塚主任、大至急、社長室へ向かってください。社長がお呼びです」
総務からの内線に、私は持っていたペンを落としそうになった。
「しゃ、社長室……ですか?」
「はい。理由は聞いていませんが、すぐにと」
受話器を置いた私の顔から、サァッと血の気が引いていく。
社長室!?
我が社の社長といえば、若くして会社を継いだ二代目で、メディア露出を一切しないことで有名な、まさに雲の上の存在だ。私のような末端の主任が、一生のうちに拝めるようなお方ではない。
(社長がなぜ私を!? もしかして、あのデカい案件でとんでもないヘマをした!? それとも、裏アカウントで手フェチの妄想を呟いているのがバレた!? クビ!? 懲戒解雇!?)
完璧な私の仮面が、内側からガタガタと音を立てて崩れていく。
最悪の事態を覚悟し、私は震える膝を必死に叱咤して、最上階へと向かった。
重厚な社長室の扉の前につく。心臓が口から飛び出そうだ。
私は引きつる笑顔を浮かべ、部署と名前を秘書に伝える。
秘書がインターホンを押した。
「社長、営業部の大塚さまがお見えになられました」
一呼吸置いて、スピーカーから低く、どこか聞き覚えのある心地いい声が響く。
「――通してください」
「失礼します……」
意を決して、重い扉を押し開ける。
広く洗練された室内の奥、大きなデスクに座る「雲の上の人」が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その顔を見た瞬間、私の脳内は、完全に真っ白になった。
「よく来てくれたね、結衣さん」
そこにいたのは、まさかの、あの夜のバーで私の理性を狂わせた、あのバーテンダーの彼だった。
これが、恋愛経験ゼロに等しい私の、神級玉の輿・溺愛バトルの始まりだったのだ――。
(第二章へ続く)
「ああ、それならもう修正しておいたわ。そこのデータの整合性だけ確認して、夕方までに提出しておいて」
「えっ、もうですか!? ありがとうございます! さすが大塚先輩、本当に完璧です!」
後輩の羨望の眼差しを背中で受け止めながら、私はフッと優雅な笑みを浮かべてみせる。
大塚結衣(おおつかゆい)、二十六歳。中堅IT企業に入社して四年目。後輩もでき、社内では「デキる女」「公私ともに完璧」と噂されている。
――いや、完璧を装っている、と言った方が正しい。
「ふふ、みんな騙されてるわね……」
デスクに戻り、パソコンに向き合った私の脳内は、今、全く別のことで占められていた。
私には、誰にも言えない秘密がある。
そうなのだ。私は、特定のパーツに異常ともいえるほど萌えてしまう、筋金入りの【手・指先フェチ】。重度のパーツオタクなのである。
どれほど仕事でスマートに立ち回ろうとも、私の本性は、イケメンの美しい手を見るだけで理性が吹き飛ぶ限界オタクだ。
世間の女子が「顔が好み」「背が高い」と盛り上がる中、私の評価基準は常に「手」の一択。けれど、現実にはそう簡単に理想の手など転がっていない。爪の形、関節の節度、皮膚の質感、浮き出る血管のバランス――。私の高すぎる理想を満たす手に出会えないまま、恋愛経験はほぼゼロのまま二十六歳になってしまった。
そんな私が、一か月前、ついに「運命の神の手」に出会ってしまったのだ。
それは、仕事で大きなプロジェクトを終え、疲れ果ててふらりと立ち寄った、路地裏の隠れ家バーでのことだった。
スモーキーな琥珀色の照明が足元を照らす、大人のための静かな空間。その店の奥には、アンティーク調の古いアップライトピアノが置かれていた。
「いらっしゃいませ」
低く心地いい声に顔を上げると、カウンターではなく、そのピアノの前に一人の男性が座っていた。店のマスターの知人らしく、時折こうして店を手伝いつつ、趣味でピアノを弾いているのだという。
意識した時には、すでに遅かった。
彼がすっと白黒の鍵盤に置いた、その【手】に、私の目は完全に釘付けになった。
(な、何あの神の造形は……っ!?)
細く、長く、無駄な脂肪が一切ない、しなやかな指先。
爪は清潔に、けれど丸みを帯びて美しく整えられている。
彼が静かに最初の音を紡いだ瞬間、私の心臓は跳ね上がった。
流れ出したのは、どこか気だるく、胸を締め付けるようなJAZZの旋律だった。
音色そのものが、彼の感情を映し出すようにエモーショナルに波打っている。そして、それに合わせて動く彼の指先は、言葉を失うほどに雄弁で、エロティックだった。
アドリブの激しいステップを踏むように、鍵盤の上をめまぐるしく躍動するしなやかな指。
時に強く、激しい不協和音を刻む瞬間に、男らしくクッキリと浮き上がる手の甲の筋。
かと思えば、かすれるような切ない弱音(ピアニッシモ)に変わると、鍵盤を愛おしそうに、まるで恋人の肌を撫でるような滑らかなフェザータッチに変わる。
強さと優しさ、しなやかさ。そのすべてが、十本の指の動きだけで完璧に表現されていた。
(ああ、もうダメ……トドメを刺された……!)
カウンターの端でグラスを握りしめたまま、私は完全に息をするのを忘れていた。
心臓がドクドクと警報を鳴らす。奏でられるエモーショナルなJAZZの音色と、その極上の音を生み出す罪深い指の動きが、視覚と聴覚から私の脳内に直接流れ込んでくる。
私の理性のすべてが、あの指の動きによって木っ端微塵に打ち砕かれていく。
抱かれたいなんて、そんなおこがましいことは言わない。
私はあの指が奏でる、切ないブルーノートの1音になりたい。
一生、あの手のひらの上で転がされていたい――!
「……お口に合いましたか?」
演奏を終え、いつの間にかカウンターの中に戻っていた彼が、私にグラスを差し出しながら微笑んだ。
その瞬間も、私は彼の指先を見ていた。氷を操る長い指、グラスを持つ親指の角度。
「あ、は、はい! すごく、美味し、じゃなくて、素敵な演奏でした……!」
完璧な女の仮面はどこへやら、私は完全に挙動不審なオタクと化していた。
彼は少し意外そうに目を丸くした後、ふっと、底知れない大人の笑みを浮かべた。
「ありがとう。そんなに熱心に聴いてもらえると、弾いた甲斐があるよ。……また、聴きに来てくれる?」
「もちろんです!」
食い気味に答えた私を、彼は優しく、どこか楽しげに見つめていた。
それからというもの、私は毎週、彼の「手」と「JAZZ」の余韻に浸るためだけに、そのバーに通い詰めるようになった。仕事の原動力はすべて彼の指先。完全に彼の虜になっていた。
――だが。
そんな夢のような溺愛(一方的な崇拝)の日々は、ある朝、唐突に終わりを告げる。
「大塚主任、大至急、社長室へ向かってください。社長がお呼びです」
総務からの内線に、私は持っていたペンを落としそうになった。
「しゃ、社長室……ですか?」
「はい。理由は聞いていませんが、すぐにと」
受話器を置いた私の顔から、サァッと血の気が引いていく。
社長室!?
我が社の社長といえば、若くして会社を継いだ二代目で、メディア露出を一切しないことで有名な、まさに雲の上の存在だ。私のような末端の主任が、一生のうちに拝めるようなお方ではない。
(社長がなぜ私を!? もしかして、あのデカい案件でとんでもないヘマをした!? それとも、裏アカウントで手フェチの妄想を呟いているのがバレた!? クビ!? 懲戒解雇!?)
完璧な私の仮面が、内側からガタガタと音を立てて崩れていく。
最悪の事態を覚悟し、私は震える膝を必死に叱咤して、最上階へと向かった。
重厚な社長室の扉の前につく。心臓が口から飛び出そうだ。
私は引きつる笑顔を浮かべ、部署と名前を秘書に伝える。
秘書がインターホンを押した。
「社長、営業部の大塚さまがお見えになられました」
一呼吸置いて、スピーカーから低く、どこか聞き覚えのある心地いい声が響く。
「――通してください」
「失礼します……」
意を決して、重い扉を押し開ける。
広く洗練された室内の奥、大きなデスクに座る「雲の上の人」が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その顔を見た瞬間、私の脳内は、完全に真っ白になった。
「よく来てくれたね、結衣さん」
そこにいたのは、まさかの、あの夜のバーで私の理性を狂わせた、あのバーテンダーの彼だった。
これが、恋愛経験ゼロに等しい私の、神級玉の輿・溺愛バトルの始まりだったのだ――。
(第二章へ続く)


