好きなのは、そこじゃない
第2章:好きなんです【side:Hiyori】
 夕方。あと少しで終業という頃に電話が鳴った。
「高瀬さん、一番に東陽機工の石川様から」
 電話を受けた高瀬さんの表情が、少しずつ険しくなっていく。
「……分かりました。すぐ対応します」
 通話を終えるなり、高瀬さんが小さく息を吐いた。
「何かあったんですか?」
 電話を取り次いだ手前なんだか気になって、聞かずにはいられない。
「明日の商談なんだけど、先方の設備導入計画が急に変わったみたいで」
「えっ」
「見積もりも提案資料も作り直しだなって」
 思わず時計を見る。
 時刻は午後五時二十分。
 終業時刻まであと十分という、笑えないタイミングだった。
「ま、頑張るしかないんだけど」
 私は高瀬さんの営業事務。淡く笑う彼を放っておくなんて出来なかった。
「お手伝いできることはありますか?」
「ある。……けどもう帰る時間だろ?」
 私が残業になってしまうのを気にしてくれているらしい。私はにっこりと微笑んだ。
「お邪魔でないのなら、お手伝いしたいです」
「邪魔なわけない。むしろ手伝ってもらえると助かる。でも……」
「では、決まりですね」
 私たちは担当営業と営業事務。いつも二人三脚で仕事を進めている。こういうときだって、一緒にやるのが当たり前だった。
「じゃあ、こちらの書類のデータをこれに差し替えてもらっても?」
「もちろんです」

 東陽機工からメールで送られてきた添付資料を元に修正作業を重ね、気が付けば午後九時を過ぎていた。
 広い営業部フロアに残っているのは、私と高瀬さんだけだった。

 パソコンを打つ手。
 資料をめくる手。
 ペンを握る手。
 こんな時なのに、気が付けば高瀬さんの手を目で追ってしまっている。

(あーん、いいっ♥)

 高瀬さんの手は、私が今まで巡り合ってきたどんな手よりも理想的な造形をしていた。

 必要なデータを取りに資料棚へ向かった私は、上段のファイルへ手を伸ばした。

 背伸びしても届かない。
 あと少し。
 そう思った瞬間だった。
「これだよな?」
 ひょい、と頭上からファイルが抜き取られる。
 振り返ると、すぐ背後に高瀬さんが立っていた。
「あ、有難うございます」
「いや、俺の方こそ手伝ってもらってるんだ。礼には及ばない」
 差し出されたファイルを受け取ろうとして――また見てしまう。
 大きな手。
 長い指。
 血管の浮いた、筋張った腕。

 やっぱり好きだ!
 ついうっとりと見つめていたら、
「牧野さん?」
 一向に資料を手に取ろうとしない私に、高瀬さんが不審そうな顔をする。
「何か気になることでも?」
 心臓がドクンッと脈打った。
(……まずい)
「な、何もっ!」
「けど明らかに視線が……」
「あー、そ、それは……あのっ、趣味の延長というかっ」
「趣味?」

 終わった。
 私は観念した。

「大きくて、ちょこちょこ手に傷が増えてるの、職人さんっぽくて、すごくかっこよく見えて……」
 穴があったら入りたい。
「好きなんです」
 言ってから気が付いた。
(あっ)
 〝何が〟好きなのかを言っていない。
 高瀬さんが目を瞬いた。

「えっと……好きって、その。もしかして俺のことが?」
「ちっ、違わないけど違いますっ」

 反射的によく分からない否定(?)をしてから、内心で転げ回る。
(もっと上手く誤魔化すことも出来たじゃない!)
 何を馬鹿正直に受け答えしているんだろう。
(私の、バカ!)

 顔が熱い。
 絶対真っ赤だ。

「き、気持ち悪いこと言ってすみません! ……忘れてください!」

 私は高瀬さんの手から資料を奪い取るように受け取ると、そのまま彼に背を向けて小走りに席へ戻る。
 本当はフロアを出て帰ってしまいたかった。
 でも、まだ仕事が終わっていないのに、そんな無責任なことはできない。
 グッと拳を握りしめ、自席へ戻り、資料を握ったまま机に突っ伏した。

(終わった……)

 もう、恥ずかしくて高瀬さんの顔を見られない。
 絶対変なやつだと思われた。
 気持ち悪がられているかもしれない。
 もういっそ、会社を辞めてしまいたいっ。

 私はその後、高瀬さんの方を一度も見ることが出来なかった。

 だから気付かなかった。

 机に突っ伏したままの私を、高瀬さんがどうしたらいいか分からないみたいに困った顔をして見つめていたことに――。
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