好きなのは、そこじゃない
「牧野さん」
 不意に名前を呼ばれて顔を上げる。
「はい」
 そこに立っていたのは営業部の高瀬(たかせ)(たくみ)さんだった。

 営業成績優秀。
 身長は百八十センチ以上。
 無口でちょっぴり近寄りがたい。
 社内ではそんなイメージの人。

 でも――。

「この資料、コピー頼める?」
「はい」

 差し出された書類を受け取ろうとして、私はつい視線を落として固まった。

(あーん、いいっ!)

 高瀬さんの大きな手。
 指が長くて、少しだけ節が目立つ。程よく浮いた血管が男らしい。
(あ、今日も……)
 親指の付け根に、先日まではなかった新しい小さな傷跡を発見した。
 営業職なのに、どことなく職人みたいな手の人だと思う。
(好き!)
 思わず見惚れる。

 私は昔から男性の手に弱かった。

 大きくて、節くれ立った手。
 いかにも働く男性の手といった風情で、少し傷があったりすると(何をしていて付いたのかな?)とか妄想が膨らんでしまう。
 血管が浮いていたりしたらもう、最高!

 そういうものを見ると、ときめいてしまう。
 もちろん、誰にも言ったことはない。

 二十六歳にもなって、男性の手に性的興奮を覚える手フェチです、だなんて……処女を拗らせたみたいで恥ずかし過ぎる。

「牧野さん?」
「はっ、はい!」

 慌てて顔を上げる。
 高瀬さんは少しだけ首を傾げた。

「どうした?」
「い、いえ! なんでもありません!」
「そうか」

 それ以上は何も言わない。

 高瀬さんはそのまま自席へ戻っていった。

 私は胸元を押さえる。
(危なかった……)
 また見てしまった。

 最近、本当に良くない。
 高瀬さんを見るたび、手ばかり見てしまう。

 会議中も、パソコンを打っている時も、資料をめくる時も、ペンを持つ時も。
 気が付けば、目で追ってしまっている。

 完全に不審者だ。
 そんな自覚はあるのにやめられない。
 だって堪らなく〝好みの手〟なんだもの。

 その日の午後。

 コピー用紙の補充を頼まれた私は、台車を押して倉庫へ向かった。

 棚の下に置かれた箱へ手を掛ける。
 中には、一〇〇枚束のコピー用紙が五セット。

「よいしょ……」

 重い。かなり重い。
 持てないわけじゃない。でも、楽ではない。

 なんとか抱え上げたところで、箱ごとぐらりと傾いた。

「わっ――」

 落としそうになった瞬間、横から大きな手が伸びてきて、箱を支えてくれる。

 そして、
「台車に載せればいい?」
 ひょい、っと。
 本当にひょい、っと。

 私が苦労していた箱を、高瀬さんは軽々と持ち上げてしまう。

 思わず見上げる。
 いや。正確には、見ていたのは顔じゃない。
 手だ。

(好き……)

 大きくて節くれだった手。
 指が長くて、程よく筋と血管が浮いている。
 今日も小さな、新しい傷が増えていた。

 最高だった。

「牧野さん?」
「はいっ!」

 反射的に返事をする。

「印刷室まで運ぶんだろ? A4だけ?」
「あ、えっと……B5も」
「分かった」
 高瀬さんはB5用紙が入った箱も台車へ、いとも簡単に載せてくれた。
「行くぞ」
「有難うございます」

 結局台車を押してくれているのも高瀬さんで、私はただただ彼の横を並んで歩くだけ。

 でも、全然落ち着かない。
 だって目の前に高瀬さんの手がある。
 カートの持ち手に掛けられた、高瀬さんの手。

 見たい!
 ちらちらと視線を投げかけつつも、食い入るように見るのだけは何とか堪えた。だってそんなの、怪しすぎるもの。
 でも……やっぱり見たい。

 そんな葛藤を繰り返しているうちに目的地へ着いてしまった。

「有難うございました」
「ああ」

 高瀬さんはそれだけ言って去っていく。
 その背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。

(だめだ……)

 顔が熱い。
 恋とかじゃない。
 たぶん……。きっと……。
 でも、高瀬さんの手を見ると胸が落ち着かなくなる。
 そんな私の気持ちなんて知らずに、高瀬さんはいつも通り仕事へ戻っていく。

 私はそっと自分の頬を押さえた。

(本当に、彼の手、好きだなぁ……)
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