硝子の鍵~season2

Key·2 戻れない場所

灯理さんからの返事は、夜になっても来なかった。

それは、当然だと思った。

俺が急に重い話をした。

先生を続けられるか分からなくなる時がある。

そんなことを、彼女に言った。

灯理さんは、かつて子どもに関わる仕事をしていた人だ。

詳しく聞いたわけではない。
でも、彼女がそこを大事にしていたことは分かっていた。

楽しかったです。

そう返ってきた言葉の奥に、まだ触れてはいけないものがあることも。

それなのに俺は、自分の迷いを渡してしまった。

渡したかったのだと思う。

彼女にだけは、隠したくなかった。

そう思うこと自体が、もう俺の身勝手だった。

翌朝、職員室に入ると、佐伯が机に座ってプリントを揃えていた。

「おはよう」

「おはよう」

返事だけは普通だった。

けれど、佐伯は俺を見るなり、少し眉を上げた。

「寝てない?」

「寝た」

「浅い顔してる」

「顔に深さがあるのか」

「あるある。お前、今日、水たまりくらい浅い」

「朝から失礼だな」

「親友の観察」

観察。

その言葉が、昨日の授業の続きみたいに耳に残った。

先生は見る仕事。

佐伯はその言葉を茶化しながら、俺よりずっと自然に人を見ている。

それが時々、腹立たしい。

「灯理さんに言った?」

佐伯が、プリントから目を離さずに聞いた。

「何を」

「先生続けられるか分からないってやつ」

俺は黙った。

佐伯は、それだけで察したようにため息をつく。

「言ったんだ」

「言った」

「重」

「分かってる」

「いや、悪いとは言ってない」

佐伯はプリントを揃える手を止めた。

「でも、灯理さんには刺さるだろうな」

胸が少しだけ痛んだ。

「分かってる」

「分かってるなら、なんで言ったんだよ」

「隠したくなかった」

佐伯は少しだけ目を細めた。

「それ、恋人っぽいこと言ってるつもり?」

「茶化すな」

「茶化してない」

佐伯の声が少し低くなった。

「隠さないのは大事だけど、渡された側が受け取れる状態かは別だろ」

何も言い返せなかった。

正しい。

俺は、灯理さんに隠したくないと思った。

でも、彼女が受け取れるかどうかまでは考えきれていなかった。

「……分かってる」

「そればっかりだな」

佐伯は軽く笑った。

「でもまあ、言ったなら逃げるなよ」

「逃げない」

「ほんとか?」

「逃げないようにする」

佐伯は一瞬黙って、それから少しだけ笑った。

「そこは正直だな」

逃げない、と言い切れない自分が情けない。

でも、逃げないと言い切れるほど、俺は強くなかった。

それでも、逃げないようにしたいとは思っている。

今の俺に言えるのは、それだけだった。

午前中、陽斗はいつもより少し静かだった。

授業中に手を挙げないわけではない。
友達と話さないわけでもない。
忘れ物をしたわけでもない。

ただ、ふとした時に、遠くを見る。

黒板の少し先。
窓の向こう。
ノートの端。

十一歳の子どもが、考えなくてもいいことまで考えている顔だった。

俺はそれを見て、胸の奥が重くなった。

俺と灯理さんのことが、陽斗の毎日に影を落としている。

そう思いたくなかった。

でも、思わないふりをする方がずるい。

休み時間、陽斗は図書室にいた。

棚の前で、背表紙を眺めている。

「恐竜博士、次は何を探してる」

声をかけると、陽斗は少し驚いた顔をした。

「先生」

「驚きすぎだろ」

「気配なかった」

「職業柄」

「忍者?」

「先生」

陽斗は少し笑った。

その笑い方を見て、俺は少し安心する。

「何か探してるのか」

「別に」

「別に、で図書室に来るタイプだったか」

「来るよ」

「そうか」

陽斗はしばらく背表紙を眺めていた。

やがて、小さな声で言った。

「お母さん、昨日ちょっと考えてた」

心臓が小さく鳴った。

「そうか」

「先生、何か言った?」

子どもに隠し事をするのは難しい。

けれど、全部を渡すわけにもいかない。

「少し、先生の仕事の話をした」

「辞める話?」

「辞めると決めたわけじゃない」

昨日と同じことを言う。

自分でも頼りないと思う。

陽斗は棚から一冊の本を抜きかけて、また戻した。

「お母さん、先生だった頃の話、あんまりしない」

「そうなのか」

「うん」

「陽斗は聞きたい?」

陽斗は少し考えた。

「聞きたいけど、変な顔するから聞きにくい」

胸が痛んだ。

灯理さんは、陽斗の前でもその顔を隠しきれていないのだ。

母親でいようとしても、過去の痛みはふいにこぼれる。

そして陽斗は、それを拾ってしまう。

「お母さんが話したくなった時に、聞けばいいと思う」

俺が言うと、陽斗は少しだけ俺を見た。

「先生も?」

「俺も?」

「先生も、お母さんが話したくなった時まで待てる?」

その問いは、思っていたより深く刺さった。

待てるのか。

俺は、灯理さんの痛みを知りたいと思っている。

それは彼女を大事にしたいからだ。

でも、その奥には、自分が安心したいという気持ちもある。

知れば、正しく扱えるかもしれない。
知れば、傷つけずに済むかもしれない。
知れば、佐伯よりも近い場所に行けるかもしれない。

そんな、情けない気持ちもある。

「待ちたいと思ってる」

俺は正直に答えた。

陽斗は、じっと俺を見た。

「思ってる、か」

「今の俺には、それが一番正直な言い方だ」

陽斗は少しだけ口元をゆるめた。

「大人って、やっぱりめんどくさいね」

「そうだな」

「でも、嘘よりいい」

その言葉に、俺は何も返せなかった。

陽斗は別の棚へ歩いていく。

その小さな背中を見ながら、俺は思った。

この子に、どれだけ見られているのだろう。

そして、どれだけ背負わせてしまっているのだろう。

昼休みの終わり頃、職員室に戻ると、事務の先生から声をかけられた。

「登坂先生、陽斗くんのお母さんが書類を持って来られるそうです」

一瞬、息が止まった。

「灯理さんが」

名前を出しそうになって、飲み込む。

「午後に少し寄られるみたいです」

「分かりました」

平静を装って答えたつもりだった。

でも、佐伯がこちらを見た。

気づかれた。

まただ。

佐伯は何も言わず、ただ少しだけ眉を上げた。

その顔が腹立たしい。

午後、灯理さんは学校に来た。

俺は直接会わなかった。

会えなかった、という方が正しい。

学年の打ち合わせが入り、職員室を離れていた。

戻った時には、灯理さんはもう帰ったあとだった。

机の上に、提出された書類が置かれていた。

その字を見ただけで、胸が少しざわつく。

灯理さんの字。

丁寧で、少しだけ力が入っている。

会えなかった。

それだけのことなのに、残念に思っている自分がいた。

同時に、ほっとしている自分もいた。

昨日の今日で、どんな顔をすればいいのか分からなかったから。

「登坂」

佐伯が声をかけてきた。

「灯理さん、来たよ」

「知ってる」

「会えなかったな」

「打ち合わせだった」

「残念?」

「仕事中だ」

「答えになってない」

俺は書類に視線を落とした。

佐伯は近くの椅子に腰掛ける。

「少し話した」

手が止まった。

「陽斗のことか」

「それも」

「それ以外は」

佐伯はしばらく黙った。

その沈黙が、嫌だった。

「言っていいことと、言わない方がいいことがある」

胸の奥が冷える。

「俺に関係あることか」

「ある」

「なら言え」

「灯理さんの気持ちは、灯理さんが言うべきだろ」

正しい。

でも、腹が立った。

佐伯はいつも、俺が欲しいものを少し先に見ている。

灯理さんの言葉も。
灯理さんの表情も。
灯理さんの揺れも。

そして俺は、それを佐伯の口から聞くしかない時がある。

「灯理さん、泣いたのか」

聞いてしまった。

佐伯は少しだけ目を伏せた。

「泣いてはない」

「じゃあ、どういう顔だった」

「痛そうな顔」

胸が締めつけられた。

痛そうな顔。

昨日、俺が言った言葉のせいだ。

「先生の話が痛いって、言ってた」

佐伯が静かに言った。

息が止まった。

「先生の話が」

「うん」

「俺が、先生だからか」

「それだけじゃないと思う」

佐伯は、窓の方を見た。

「戻れないんだろうな。たぶん」

その言葉は、刃物のように静かだった。

戻れない。

俺は、その一言を頭の中で繰り返した。

灯理さんが戻れない場所。

教室。

子どもたちの声。

先生だった自分。

俺が今も立っている場所。

「俺は」

声がかすれた。

「彼女を傷つけたのか」

佐伯はすぐには答えなかった。

その沈黙が答えに近かった。

「傷ついてはいると思う」

「そうか」

「でも、登坂が悪いって話でもない」

「悪いだろ」

「そうやって全部自分のせいにするのやめろ」

佐伯の声が少し強くなる。

「灯理さんの痛みは、登坂が作ったものじゃない」

「でも、触れた」

「触れたな」

佐伯はあっさり認めた。

「だから、ちゃんと触れろ」

「どういう意味だ」

「触れてしまったなら、見なかったことにするなってこと」

言葉が胸に残る。

触れてしまったなら、見なかったことにするな。

「灯理さん、俺には言ったよ」

佐伯は続けた。

「ずるいって思ったって」

全身が固まった。

「何を」

聞かなくても分かっていた。

でも、聞かずにはいられなかった。

佐伯は、俺を見た。

「お前が先生を辞めたいかもしれないって言ったこと」

呼吸が浅くなる。

ずるい。

やはり、その言葉だった。

昨日、誰もいない教室で思ったこと。

いつか言われるかもしれない。

それがもう、佐伯の前では言葉になっていた。

「私は戻れないのに、って」

佐伯は静かに言った。

俺は、机の上の灯理さんの書類を見た。

文字が滲んで見えた。

「俺は」

声が出にくかった。

「何て言えばいい」

「俺に聞くな」

「佐伯」

「お前が聞けよ、本人に」

正しい。

また、正しい。

分かっている。

でも、正しいことほど難しい。

「今すぐ聞くなよ」

佐伯は釘を刺すように言った。

「灯理さん、まだ言葉にできるところまで来てない」

「じゃあ、どうすれば」

「待て」

「待つだけか」

「待つだけじゃない」

佐伯は少しだけ厳しい顔をした。

「お前が自分の先生としての迷いを、ちゃんと自分で持ってろ」

「自分で」

「灯理さんの痛みに寄りかかるな。灯理さんに許してもらおうとするな。灯理さんが苦しいって言った時に、お前が崩れたら面倒くさい」

面倒くさい。

その雑な言い方に、少しだけ救われる。

でも、内容は重かった。

灯理さんの痛みに寄りかかるな。

許してもらおうとするな。

俺は、彼女に分かってほしかった。

でも、それはもしかしたら、彼女に許してほしかったのかもしれない。

先生を続けられるか分からない俺を。
今の場所から降りたいと思う俺を。
子どもたちが好きなのに、苦しくなっている俺を。

でも灯理さんは、その場所に戻れない。

俺の苦しさを受け止める前に、彼女自身の傷が鳴る。

それを、俺は見落としていた。

「灯理さん、俺だったら楽だって分かってると思う」

佐伯が急に言った。

俺は顔を上げた。

「何の話だ」

「俺の前だと、灯理さんは言える。ずるいことも、弱いことも」

胸の奥が、嫌な音を立てた。

「それを俺に言う必要があるのか」

「ある」

佐伯はまっすぐ俺を見た。

「お前がそこから目を逸らすなら、俺は引かない」

言葉が止まった。

佐伯は、いつもの軽さをほとんど消していた。

「灯理さんは、お前に言いたいんだと思う」

「俺に?」

「うん」

「でも、佐伯に言ってる」

「俺が安全だからだよ」

安全。

その言葉が、鋭く胸に刺さる。

灯理さんにとって、佐伯は安全なのだ。

笑える相手。
目を見て話せる相手。
弱さをこぼせる相手。

俺の前では、息を止める。

それを、俺は嬉しいと思ったことがある。

緊張されることすら、譲りたくないと。

でも今は、その緊張の奥に痛みがあることを思い知らされていた。

「灯理さんが、本当に見てほしい相手が俺ならよかったんだけどな」

佐伯が、軽く笑う。

その笑いは、軽くなかった。

「でも、たぶん違う」

「佐伯」

「勘違いすんなよ。俺、まだ完全に引いたわけじゃない」

その言葉は、昨日も聞いた。

でも今日は、もっと重く聞こえた。

「ただ、今は陽斗優先」

「分かってる」

「それと、灯理さんが壊れそうなら、俺は助ける」

「それも分かってる」

「お前が嫌でも」

「……分かってる」

佐伯は少しだけ笑った。

「分かってるばっかりだな」

「それしか言えない」

「じゃあ、ちゃんとしろ」

またそれだ。

ちゃんとしろ。

簡単に言うなと思う。

でも、たぶん、今の俺に必要な言葉だった。

放課後、陽斗が帰ったあと、俺は一人で教室に残った。

窓の外では、校庭に残った子どもたちがボールを追いかけている。

笑い声が聞こえる。

子どもたちの声は、やはり好きだった。

好きだ。

間違いなく。

けれど、その声が遠くなる日がある。

書類。
会議。
保護者対応。
行事。
調整。
責任。

子どもたちに返したいものがあるのに、返す前に削られていく。

自分の中から、余白がなくなる。

笑顔で教室に立っていても、心の奥では息が切れている。

それでも、灯理さんから見れば、俺はそこに立っている人だ。

彼女が戻れない場所に。

俺は、立っている。

その事実だけで、彼女を傷つけることがあるのだと、ようやく知った。

スマホを開いた。

灯理さんとのトーク画面。

最後のやりとりは、昨日のままだ。

今は、うまく返せないです。
でも、聞きたいです。ちゃんと。

その言葉の奥に、彼女はどれだけのものを飲み込んでいたのだろう。

先生の話が痛い。

佐伯から聞いたその言葉を、俺は彼女に直接聞いたわけではない。

だから、今すぐ触れてはいけない。

それでも、何も送らないことが正しいのか分からなかった。

俺はしばらく画面を見つめた。

打っては消す。

昨日はすみません。

違う。

謝れば、彼女はまた気をつかう。

先生の話、無理に聞かなくていいです。

違う。

それは、こちらから距離を取っているように見える。

話したくなったら聞かせてください。

これも、少し違う。

彼女は、話したいのかもしれない。
でも、話したくないのかもしれない。
話したいけど、話したら崩れるのかもしれない。

俺は言葉を選び直した。

そして、短く送った。

昨日の話、受け取ってくれてありがとうございました。
うまく返せなくても大丈夫です。
俺も、自分の言葉をちゃんと持っておきます。

送信。

既読は、すぐにはつかなかった。

それでよかった。

すぐ読まれたら、また返事を急がせてしまう気がした。

俺はスマホを伏せた。

教室の机を整える。

一つずつ、椅子を入れる。

陽斗の席の横で、少しだけ手が止まった。

辞めたら、図書室の本、誰が選ぶの。

その言葉を思い出す。

子どもにとっての俺は、そんな些細な場所にいる。

返却日を覚えている人。
廊下で注意する人。
本を選ぶ人。
少し面倒なことを言う人。

そんなふうに、日常の中にいる。

俺はそれを捨てたいのだろうか。

分からない。

辞めたいのか。
休みたいのか。
逃げたいのか。
続けたいのに、続け方が分からないだけなのか。

まだ、分からない。

けれど、灯理さんの痛みに触れた今、その分からなさを軽く扱うことだけはできなかった。

夕方、職員室へ戻ると、スマホが震えた。

灯理さんからだった。

胸が強く鳴る。

ありがとうございます。
先生の話、少し痛いです。
でも、聞きたい気持ちもあります。
今日はここまででお願いします。

俺は、その文章を何度も読んだ。

先生の話、少し痛いです。

彼女が、初めて直接言ってくれた。

佐伯からではなく。

灯理さん自身の言葉で。

痛い。

そのたった二文字に、俺は何も返せなくなった。

彼女を傷つけたくない。

でも、彼女が痛いと言ってくれたことを、なかったことにしたくない。

俺は、ゆっくり返事を打った。

言ってくれてありがとうございます。
今日はここまでにします。
その言葉を、大事にします。

送ったあと、しばらく画面を見ていた。

返事はなかった。

それでいい。

今日はここまで。

彼女がそう言ったのだから。

俺は、初めて少しだけ分かった気がした。

待つというのは、何もしないことではない。

相手の言葉を、勝手に進めないことだ。

相手の沈黙を、自分の不安で埋めないことだ。

痛いと言われて、すぐに謝って終わらせないことだ。

教室の窓の外は、もう暗くなり始めていた。

冬の空は、暮れるのが早い。

その暗さの中で、校舎の窓だけが明るく浮かんでいる。

俺はその光を見ながら思った。

ここは、灯理さんが戻れない場所なのかもしれない。

そして俺にとっても、いつか戻れなくなる場所なのかもしれない。

だからこそ、今ここにいる自分を、適当に扱ってはいけない。

硝子の鍵は、また手の中で鳴った。

今度の鍵は、戻れない場所の形をしていた。

灯理さんの痛みを開ける鍵であり、
俺自身の迷いを閉じ込めていた鍵でもある。

その鍵を回すには、まだ早い。

でも、手放すことだけは、もうできなかった。
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