硝子の鍵~season2

Key·3 待つということ

『今日は、ここまででお願いします』

灯理さんのその言葉を、俺は何度も読み返した。

拒絶ではない。

そう分かっている。

けれど、近づくことを許されたわけでもなかった。

今日は、ここまで。

その線は、やわらかく見えて、触れると冷たかった。

俺はスマホを伏せた。

返事は送った。

『言ってくれてありがとうございます』

『今日はここまでにします』

『その言葉を、大事にします』

それ以上、送ることはできない。

送らないことが、今できるいちばんの誠実なのだと思った。

思ったのに。

数分おきに、スマホへ視線が行く。

馬鹿みたいだ。

待つと決めた人間のすることではない。

待つというのは、何もしないことではない。

そう分かっている。

分かっているのに、何かをしていないと、自分だけが置いていかれる気がした。

灯理さんの痛みに触れたまま、俺だけが安全な場所に立っているような気がした。

翌朝、職員室に入ると、佐伯が机の上でプリントを揃えていた。

俺を見るなり、口元だけで笑う。

「今日も寝てない顔」

「昨日よりは寝た」

「昨日よりは、な」

「お前、本当に人の顔ばかり見るな」

「顔に出るやつが悪い」

いつもの調子だった。

けれど、佐伯は昨日より少しだけ声を落とした。

「灯理さんとは?」

「今日はここまでって言われた」

佐伯の手が止まった。

「そうか」

「それ以上は聞くなよ」

「聞かねぇよ」

佐伯は、プリントの角をそろえながら言った。

「よかったじゃん」

「よかった?」

思わず聞き返した。

よかった。

その言葉が、少し意外だった。

佐伯は顔を上げる。

「言ってくれたんだろ。ここまでって」

「うん」

「なら、よかっただろ」

俺は黙った。

確かにそうだ。

灯理さんは黙って消えたわけではない。

分からないまま距離を取ったわけでもない。

ここまで、と言ってくれた。

それは、彼女が自分の痛みを自分で守ろうとした線だった。

「その線、越えるなよ」

佐伯が言った。

「分かってる」

「分かってる顔して、頭の中では百回くらい言い訳考えてる顔だな」

「そんな顔あるのか」

「ある。今それ」

言い返せなかった。

実際、考えていた。

もう一通だけなら重くないんじゃないか。

体調を聞くだけならいいんじゃないか。

昨日のことを気にしていないか確認するだけなら。

そうやって、線の前で言い訳を並べている自分がいた。

佐伯は、そういうところだけ妙に鋭い。

「お前の待つってさ」

「何」

「待ってるふりして、頭の中で反省会してるだけなんだよ」

胸の奥に、細い針が刺さった。

「反省くらいするだろ」

「反省はしていいけど、それで灯理さんを呼び戻そうとすんな」

「呼び戻す?」

「大丈夫ですって言ってもらいたいだけなら、それは待ってるんじゃなくて、自分を慰めてもらいたいだけだろ」

言葉が詰まった。

昨日も似たようなことを言われた。

謝りたいのは、自分の不安を下ろすためじゃないのか。

佐伯は、同じ場所を何度でも刺してくる。

「お前さ」

佐伯は声を少しだけ低くした。

「優しい顔して、結構わがままだよな」

「急に何だよ」

「大事にしたいって言いながら、大事にしてる自分で安心したがる」

「……そこまで言うか」

「言うよ。同僚だから」

佐伯はそう言って、少しだけ笑った。

軽く見せているのに、言葉は軽くなかった。

「あと、男として見ても、危なっかしい」

「男としては言わない方がいいこともあるんじゃなかったのか」

「あれは言わない方がいいこと。これは言うべきこと」

「都合いいな」

「都合よくて悪かったな」

少しだけ空気が緩んだ。

その緩みが、今はありがたかった。

佐伯はプリントを持ち上げた。

「待つなら、ちゃんと待てよ」

「ちゃんとって」

「灯理さんが自分の言葉で出てくるまで」

「出てこなかったら?」

聞いた瞬間、自分の声が思ったより弱く聞こえた。

佐伯は、ほんの少しだけ目を伏せた。

「それでも、だろ」

静かな声だった。

「それでも待てないなら、最初から大事にしたいなんて言うな」

言い返せなかった。

佐伯は、時々ひどく正しい。

正しすぎて、腹が立つ。

でも、その正しさがなければ、俺は自分の都合のいい優しさに逃げていたかもしれない。

一時間目は国語だった。

職業調べの発表の続き。

子どもたちは緊張しながら、前に立つ。

手元の紙を握りしめる子。

暗記してきたのに、前に立った瞬間に全部忘れてしまう子。

声が小さくなって、友達から「聞こえない」と言われて肩を落とす子。

俺は、そのたびに声をかけた。

「大丈夫。もう一度、最初からでいい」

「聞こえる声を探そう」

「失敗したところから、言い直せばいい」

自分で言いながら、少し苦しくなる。

言い直せばいい。

やり直せばいい。

子どもたちにはそう言える。

でも、大人の言葉は、言い直せない時がある。

一度刺さった言葉は、抜いたあとも跡が残る。

その跡を、俺は灯理さんにつけてしまったのかもしれない。

四時間目のあと、廊下で陽斗とすれ違った。

今日は本を持っていなかった。

代わりに、手の中で小さな紙片を折っている。

「陽斗」

声をかけると、彼は顔を上げた。

「先生」

「それ、何」

「しおり」

「自作?」

「うん。星座の本に使う」

紙片には、鉛筆で小さな星がいくつも描かれていた。

線でつなぐと、いびつなオリオン座のようにも見える。

「上手いな」

「適当です」

そう言いながら、少しだけ口元が緩んだ。

褒められるのが嫌いではないくせに、素直に受け取らない。

そのあたりが、やっぱり灯理さんに似ている。

「先生」

「ん?」

陽斗はしおりを見たまま言った。

「昨日の話、考えた」

「先生を辞めたら先生じゃなくなるのかって話?」

「うん」

陽斗は小さく頷く。

「お母さんのことも」

胸の奥が、少しだけ構えた。

陽斗は、それに気づいたのか、ちらりと俺を見る。

「そういう顔しなくていいよ」

「どんな顔してた?」

「大人が、また難しいこと考え始めた顔」

何も言えなかった。

陽斗は時々、本当に容赦がない。

「お母さんは、先生だったんだよね」

「うん」

「でも、今は違う」

「そうだな」

「でも、お母さんが先生だった時のことを話すと、ちょっと痛そうな顔する」

「うん」

「でも」

陽斗は、しおりの端を指で撫でた。

「たまに、嬉しそうな顔もする」

その言葉に、俺は息を止めた。

嬉しそうな顔。

灯理さんの中にあるのは、痛みだけではないのかもしれない。

戻れない場所。

それは確かに苦しい場所なのだろう。

でも、苦しいだけの場所なら、人はあんなふうに笑わない。

大事だったから、痛い。

楽しかったから、戻れないことが苦しい。

そこを俺は、見落としていたのかもしれない。

「両方あるんだな」

俺が言うと、陽斗は少しだけ目を上げた。

「たぶん」

「痛いのと、嬉しいのと」

「うん」

「陽斗は、よく見てるな」

そう言うと、陽斗は少しだけ眉を寄せた。

「見えちゃうだけ」

その言い方に、胸が痛くなった。

見ようとしているのではない。

見えてしまう。

それはきっと、陽斗にとって楽なことではない。

「見えたもの、全部持たなくていい」

自然にそう言っていた。

陽斗が俺を見る。

「先生がそれ言う?」

「俺が言うから、説得力ないか」

「ない」

即答だった。

少し笑ってしまった。

陽斗も、ほんの少しだけ笑った。

「でも」

彼は小さく言った。

「お母さんにも言ってあげれば」

「何を」

「痛いのと嬉しいの、両方あっていいって」

その言葉は、予想していない方向から胸に入ってきた。

陽斗は、何でも見えてしまう子だ。

そして、見えたものを全部言葉にするわけではない。

でも今、彼はそれを俺に渡した。

灯理さんに言ってあげれば、と。

まるで、俺がその言葉を彼女に届ける役目を持っているかのように。

「それは、陽斗が言った方がいいんじゃないか」

そう返すと、陽斗は首を振った。

「俺が言うと、お母さん泣くかも」

「俺が言っても泣くかもしれない」

「先生なら、泣いても大丈夫って言いそう」

言葉が止まった。

陽斗は、それだけ言って歩き出した。

数歩進んでから、振り返らずに続ける。

「でも、変に謝らない方がいいよ」

その背中を見ながら、俺はしばらく動けなかった。

昨日、佐伯にも似たようなことを言われた。

謝れば自分が楽になるだけだと。

陽斗まで、それを見抜くのか。

大人は、どれだけ子どもに見られているのだろう。

放課後、俺は教室で一人、職業調べの感想用紙を読んでいた。

子どもたちの字が並んでいる。

読みやすい字。

勢いだけで書いた字。

途中で力尽きた字。

何度も消しゴムで消した跡のある字。

その中に、陽斗の紙もあった。

将来なりたい職業。

恐竜研究者。

その下に、小さく書いてある。

星も見たい。

恐竜と星。

過去と遠い光。

妙に陽斗らしいと思った。

俺はペンを置いて、スマホを手に取った。

灯理さんのトーク画面を開く。

今日はここまで。

その線の前に、俺はまだいる。

でも、陽斗の言葉をそのまま自分の中だけに閉じ込めておくのは違う気がした。

謝罪ではなく。

言い訳でもなく。

ただ、渡されたものを、丁寧に届ける。

俺はゆっくり文字を打った。

『今日、陽斗と少し話しました』

そこで止まる。

この書き出しが、彼女を不安にさせないだろうか。

陽斗のことを、勝手に使っているように見えないだろうか。

考えて、続けた。

『陽斗が、灯理さんは先生の話になると痛そうな顔もするけど、たまに嬉しそうな顔もすると言っていました』

これなら、陽斗の言葉に近い。

続ける。

『痛いことと、嬉しかったことは、両方あっていいのかもしれないと思いました』

そこで、また指が止まった。

重いだろうか。

でも、軽くはしたくなかった。

最後に一文を足した。

『返事は、急がなくて大丈夫です』

送った。

送ったあと、すぐにスマホを伏せた。

それでも気になる。

気になるけれど、見ない。

今度こそ、待つ。

そう思って、感想用紙に目を戻した。

けれど、文字が頭に入ってこなかった。

十分。

二十分。

三十分。

スマホは静かなままだった。

待つということは、こんなにも身体の中を空洞にする。

俺は、今までどれだけ簡単に「待ちます」と言ってきたのだろう。

その言葉の中に、どれだけ自分の期待を隠してきたのだろう。

窓の外が、少しずつ暗くなっていく。

子どもたちの声はもうない。

教室は、昼間の熱を失って、冷えていた。

その時、スマホが震えた。

灯理さんからだった。

『それ、私にも言ってますか』

短い文。

でも、その奥にいくつもの感情が見えた気がした。

俺はすぐには返せなかった。

言っている。

確かに、灯理さんにも言っている。

でも、簡単な慰めにしたいわけではない。

俺は文字を打った。

『はい』

それだけでは足りない。

続けた。

『でも、簡単な慰めにしたいわけではありません』

また少し考えて、最後に打つ。

『灯理さんの中にあるものを、俺が勝手に決めたくないです』

送信。

すぐに既読がついた。

胸が鳴る。

返事は、少し間を置いて届いた。

『分かってます』

そのあとに、もう一つ。

『でも、少し泣きました』

画面の文字を見た瞬間、息が止まった。

泣かせた。

また、そう思った。

反射的に、ごめんなさいと打ちそうになった。

でも、指を止めた。

謝ることが、今の正解ではない。

泣いたことを、悪いものにしたくない。

俺はゆっくり打った。

『言ってくれてありがとうございます』

それから続ける。

『泣いたことも、なかったことにしないでください』

送ったあと、胸の奥が苦しくなった。

灯理さんからの返事は、すぐには来なかった。

数分後、短い言葉が届いた。

『利月くんは、そういう言い方するからずるいです』

ずるい。

その言葉に、思わず目を閉じた。

怒っているのではない。

でも、甘いだけでもない。

灯理さんが、苦しさの中からこちらを見ている言葉だった。

俺は何度も読み返した。

ずるいと言われても、逃げない。

逃げずに聞く。

佐伯に言われたこと。

陽斗に言われたこと。

灯理さんが引いた線。

その全部が、今の一文の前に並んでいる気がした。

俺は短く返した。

『ずるいと言われても、聞きます』

送ってから、少しだけ笑ってしまった。

笑えるような場面ではない。

それでも、灯理さんが俺に「ずるい」と言ってくれたことが、少しだけ嬉しかった。

その夜、家に帰ってからも、俺は何度もスマホを見た。

それ以上の返事はなかった。

けれど、不思議と昨日ほど焦らなかった。

返事がないことを、不安だけで埋めなくてもいいのだと思えた。

灯理さんは、今、自分の中にあるものを抱えている。

俺も、俺の中にあるものを持っている。

痛いこと。

嬉しいこと。

欲しいと思うこと。

大事にしたいと思うこと。

待ちたいと思いながら、今すぐ会いたいと思うこと。

どれも、簡単に一つにはできない。

だから、急がない。

急がないという言葉を、今度こそ軽くしたくなかった。

翌朝、灯理さんからメッセージが届いていた。

『昨日は、ありがとうございました』

短い文だった。

それだけで十分だった。

続けて、もう一つ。

『ちゃんと寝ましたか』

その文を見て、胸の奥がゆるんだ。

気遣われている。

それが嬉しくて、少し情けなかった。

俺は返した。

『少し寝ました』

すぐに既読がついた。

『少し、は寝たに入りません』

思わず笑った。

灯理さんらしい。

痛い話のあとでも、こうして日常に戻ろうとしてくれる。

それが、どれだけ強さを使うことなのか、今なら少しだけ分かる気がした。

『今日はちゃんと寝ます』

そう送ると、返事が来た。

『約束です』

約束。

その二文字が、手の中で温かくなる。

大げさな言葉ではない。

会いたいとも、好きとも言っていない。

でも、そこには確かに、切れずに残った糸があった。

その日、廊下で陽斗に会った。

彼は星座のしおりを本に挟んでいた。

「陽斗」

「はい」

「昨日のこと、ありがとう」

陽斗は少しだけ俺を見た。

「何が?」

「しおりの話」

「しおり?」

「星を見る恐竜博士の話」

そう言うと、陽斗は一瞬だけ考えてから、分かったように目を細めた。

「先生、大人って遠回しだね」

「そうかもな」

「お母さんも遠回し」

「似てる?」

「似てるかも」

陽斗はそう言って、少しだけ笑った。

けれど、その笑顔はすぐに消えた。

「先生」

「ん」

「お母さん、泣いた?」

胸が静かに鳴った。

答えていいのか迷った。

陽斗は子どもだ。

でも、嘘をつけばきっと分かる。

「少しだけ」

俺は答えた。

陽斗は、やっぱり、という顔をした。

「そっか」

「でも、泣いたことを悪いことにはしない」

陽斗は俺を見る。

「先生が?」

「俺が」

「お母さんも?」

「できれば、そう思ってくれたらいい」

陽斗はしばらく黙っていた。

それから、小さく言った。

「なら、いい」

その言葉に、胸の奥が締めつけられた。

なら、いい。

本当はよくないことも、たくさんあるのだろう。

陽斗の中にも、見えたものが積もっている。

それでも彼は、今はそこまでしか言わなかった。

子どもなのに、自分の言葉を選んでいる。

「陽斗」

「何」

「見えたもの、全部一人で持たなくていい」

陽斗は、またその言葉か、という顔をした。

「先生もね」

返されて、何も言えなくなった。

陽斗は本を抱えて歩き出す。

その背中を見ながら、俺は思った。

待つということは、相手だけを見ることではない。

自分の中にあるものからも、逃げずにいることだ。

灯理さんを待つ。

陽斗の言葉を待つ。

自分が先生として出す答えを待つ。

佐伯に刺された痛みが、少しずつ自分の形になるのを待つ。

待つことは、何もしないことではない。

線の前で立ち続けることだ。

その線を越えたい自分を、ちゃんと知ったまま。

放課後、俺は灯理さんにもう一度だけメッセージを送った。

迷った。

でも、これは線を越える言葉ではないと思った。

『もし無理でなければ、近いうちに少しだけ会えませんか』

そこで止めるつもりだった。

けれど、指が勝手に動いた。

『先生の話ではなく、灯理さんと普通に話したいです』

送信したあと、息を吐いた。

普通に。

その言葉が、一番難しいことは分かっている。

俺たちはもう、普通ではない。

手を繋いだ。

痛みに触れた。

泣かせた。

待つことを覚え始めた。

それでも、普通に話したいと思った。

先生としてでもなく。

母としてでもなく。

痛みの説明をする人としてでもなく。

灯理さんと。

ただ、会いたかった。

返事は、夜になってから届いた。

『普通に、って難しいですね』

その一文に、少しだけ笑った。

本当に、その通りだ。

続けて、もう一つ。

『でも、会いたいです』

その言葉を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

会いたい。

その言葉が、こんなにも強いとは思わなかった。

俺は、すぐに返した。

『俺もです』

短い。

けれど、それ以上の言葉は、今はいらなかった。

スマホを置き、窓の外を見た。

冬の夜は、相変わらず冷たい。

けれど、手の中には小さな熱が残っている。

待つことは、何もしないことではなかった。

待つことで、少しずつ見えてくるものがある。

灯理さんの痛み。

陽斗のまなざし。

佐伯の正しさ。

そして、俺自身の欲と臆病さ。

その全部を持ったまま、俺は彼女に会いに行く。

普通に会う。

そんなことができるのかは、分からない。

でも、今はそれでいい。

硝子の鍵は、まだ扉を開けない。

けれど、鍵穴の向こうにある灯りだけが、静かに見え始めていた。
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