浮気相手の子を「育てろ」と押しつけられたので、罪のない少女は丁重に育てつつ、夫だけを優雅に制裁することにしました
美麗伯爵へのヒント
「困りました。これほど熱心に求めても、あの方は頑として首を縦に振ってくださらない」
翌日の午後、子爵家の応接間でメガエリス卿は、やはり麗しい顔をしおれさせていた。
もう四十になる殿方なのに、まだ学生の少年のように、報われない恋に落ち込んでいる。
彼は厳しい性格であることと、騎士団の一つを率いる団長を務めていること、何より女嫌いでまったく女性に笑顔を見せないことから、気難しい印象があった。
でもこうしてスノーフレークに振り回されているところは、案外可愛らしいものだ。
朝のうちに先触れの使者をよこし、午後にはこうして訪ねてくる。その手回しの早さに私は内心、舌を巻いていた。
女嫌いで知られた男が、ここまでなりふり構わず一人の女を追う。これはただの気の迷いではなさそう。
「閣下はスノーフレークのことを、どこまでお調べに?」
「……失礼とは思いましたが、ひととおりは。没落なさった侯爵家のご令嬢であったこと。学園を出てまもなく修道院に入られ、あの孤児院でシスターとして務めていること。婚約が、家の没落とともに解消されたこと」
そこまでは調べれば誰でもわかる。
誰でも辿り着ける、表向きの履歴だ。
「ですが」
と、彼は眉を寄せた。
「どうしても、わからんのです。なぜ、あれほどまでに頑なに拒まれるのか。条件の問題ではないはずです。私は家格も、過去も、何ひとつ問わぬと申し上げている。それが可能なだけの力があり、周囲に認めさせるだけの実績があるからです。それでも、あの方は……まるで、ご自分には幸福を受け取る資格がないとでも仰るような態度で」
ティールの瞳が、まっすぐに私を見た。
「ご友人のあなたなら、その理由をご存じなのではありませんか」
来たな、と思った。
私は膝の上で手を組み、しばし言葉を選ぶための沈黙に浸った。
話すわけにはいかない。あれはスノーフレークの傷だ。彼女が自分の口で、自分の選んだ相手にだけ打ち明けるべきもの。私が代わりに暴いてよいものでは断じてない。
たとえ、それで事が早く進むとしても。
けれど、この男の本気がもし本物ならば、試してみる価値はある。
「閣下。私にも、申せることと、申せぬことがございます」
私は静かに切り出した。
「彼女の心の鍵を、私が勝手に開けることはできません。ですが、ひとつだけ申し上げましょう」
メガエリス卿が身を乗り出してくる。
「それは、ぜひ!」
「もし、あなたが本当にスノーフレークを望まれるなら。彼女が学園を卒業し、その十日ほど後まで——その短い間の彼女の足跡を、正しく辿ってごらんなさい」
「足跡を……?」
「ええ。彼女の在学中に家が傾きました。そして婚約が婚約者から一方的に破棄されているのです。その前後のほんのわずかな日々にすべての答えがございます。あなたが本当に彼女を理解する覚悟がおありなら……きっと、辿り着けるでしょう」
私はあえて、それ以上は言わなかった。
不用意に暴くのは道義的に許されない。だから導くのだ。
私が知るのと同じ事実に、彼自身の足で辿り着けるかどうか。それができぬ男なら、しょせんその程度の本気でしかない。スノーフレークの傷に触れる資格はない。
けれど、もし正しく辿り着き、それでもなお彼女を望むというのなら——そのときは、私も力を貸そう。
「……肝に銘じます」
メガエリス卿は深く頷いた。
その目を見ると真剣なのがわかる。私に試されたことを彼は正しく理解したらしい。良い兆候だわ。
話を終え、私は彼を玄関まで送った。
麗しい背中が門の向こうへ消えるのを見届け、さて自室へ戻ろうと踵を返したところで。
廊下の角に人影が待ち構えていた。
リーゼの夫だ。婿としてこの子爵家に入った男である。
「困りますね、義母上」
開口一番、彼はそう言った。
声に隠す気もない棘がある。
「逢い引きをなさるなら、子爵家の外でお願いしたい。当家の品格に関わりますので」
私は足を止めた。怒りは湧かなかった。
ただ、うっすらとした疲れだけが襲ってきた。
「生憎だけれど」
私は淡々と返すことにした。
「今日はご本人の結婚の相談を受けていたの。お相手が私の親しい方なものだから」
婿は、ばつが悪そうに口をつぐんだ。
けれどその目に浮かぶ刺々しさは消えなかった。彼はリーゼのいないところでは、最初から私にはこの態度なのだ。
理由はわかっている。
私が子を産まなかった前子爵夫人だからだ。
家に血を残さなかった女。
リーゼという、血の繋がらぬ娘を据えただけの、役立たずの後家。
この婿の目に私はそう映っているのだ。言葉にこそ出さねど、折に触れて態度に滲み出ている。
リーゼは何も悪くない。あの子は今でも、私を実の母のように慕ってくれる。
けれど、その夫となると話は別だ。家を継いだ娘の傍らで、私という存在はもはや古い調度品のように邪魔な存在なのだろう。
私は婿に背を向け、自室へと歩き出した。
――そろそろ、潮時かしらね。
ふと、そんな思いが胸に浮かんだ。
リーゼはまだ成人したてで若いが、立派に家を継いだ。
婿も得て家は安泰だ。私がこの家にしがみつく理由は、もうどこにもない。
ならば、いつまでも居座ってこの娘夫婦に気を遣わせるより……私自身が静かに身を引いたほうが、よほど美しいのではないか。
窓の外では、春の陽が薔薇園を穏やかに照らしていた。
いつか私が、この景色に別れを告げる日のことを、私は初めて、現実のものとして思い描いた。
翌日の午後、子爵家の応接間でメガエリス卿は、やはり麗しい顔をしおれさせていた。
もう四十になる殿方なのに、まだ学生の少年のように、報われない恋に落ち込んでいる。
彼は厳しい性格であることと、騎士団の一つを率いる団長を務めていること、何より女嫌いでまったく女性に笑顔を見せないことから、気難しい印象があった。
でもこうしてスノーフレークに振り回されているところは、案外可愛らしいものだ。
朝のうちに先触れの使者をよこし、午後にはこうして訪ねてくる。その手回しの早さに私は内心、舌を巻いていた。
女嫌いで知られた男が、ここまでなりふり構わず一人の女を追う。これはただの気の迷いではなさそう。
「閣下はスノーフレークのことを、どこまでお調べに?」
「……失礼とは思いましたが、ひととおりは。没落なさった侯爵家のご令嬢であったこと。学園を出てまもなく修道院に入られ、あの孤児院でシスターとして務めていること。婚約が、家の没落とともに解消されたこと」
そこまでは調べれば誰でもわかる。
誰でも辿り着ける、表向きの履歴だ。
「ですが」
と、彼は眉を寄せた。
「どうしても、わからんのです。なぜ、あれほどまでに頑なに拒まれるのか。条件の問題ではないはずです。私は家格も、過去も、何ひとつ問わぬと申し上げている。それが可能なだけの力があり、周囲に認めさせるだけの実績があるからです。それでも、あの方は……まるで、ご自分には幸福を受け取る資格がないとでも仰るような態度で」
ティールの瞳が、まっすぐに私を見た。
「ご友人のあなたなら、その理由をご存じなのではありませんか」
来たな、と思った。
私は膝の上で手を組み、しばし言葉を選ぶための沈黙に浸った。
話すわけにはいかない。あれはスノーフレークの傷だ。彼女が自分の口で、自分の選んだ相手にだけ打ち明けるべきもの。私が代わりに暴いてよいものでは断じてない。
たとえ、それで事が早く進むとしても。
けれど、この男の本気がもし本物ならば、試してみる価値はある。
「閣下。私にも、申せることと、申せぬことがございます」
私は静かに切り出した。
「彼女の心の鍵を、私が勝手に開けることはできません。ですが、ひとつだけ申し上げましょう」
メガエリス卿が身を乗り出してくる。
「それは、ぜひ!」
「もし、あなたが本当にスノーフレークを望まれるなら。彼女が学園を卒業し、その十日ほど後まで——その短い間の彼女の足跡を、正しく辿ってごらんなさい」
「足跡を……?」
「ええ。彼女の在学中に家が傾きました。そして婚約が婚約者から一方的に破棄されているのです。その前後のほんのわずかな日々にすべての答えがございます。あなたが本当に彼女を理解する覚悟がおありなら……きっと、辿り着けるでしょう」
私はあえて、それ以上は言わなかった。
不用意に暴くのは道義的に許されない。だから導くのだ。
私が知るのと同じ事実に、彼自身の足で辿り着けるかどうか。それができぬ男なら、しょせんその程度の本気でしかない。スノーフレークの傷に触れる資格はない。
けれど、もし正しく辿り着き、それでもなお彼女を望むというのなら——そのときは、私も力を貸そう。
「……肝に銘じます」
メガエリス卿は深く頷いた。
その目を見ると真剣なのがわかる。私に試されたことを彼は正しく理解したらしい。良い兆候だわ。
話を終え、私は彼を玄関まで送った。
麗しい背中が門の向こうへ消えるのを見届け、さて自室へ戻ろうと踵を返したところで。
廊下の角に人影が待ち構えていた。
リーゼの夫だ。婿としてこの子爵家に入った男である。
「困りますね、義母上」
開口一番、彼はそう言った。
声に隠す気もない棘がある。
「逢い引きをなさるなら、子爵家の外でお願いしたい。当家の品格に関わりますので」
私は足を止めた。怒りは湧かなかった。
ただ、うっすらとした疲れだけが襲ってきた。
「生憎だけれど」
私は淡々と返すことにした。
「今日はご本人の結婚の相談を受けていたの。お相手が私の親しい方なものだから」
婿は、ばつが悪そうに口をつぐんだ。
けれどその目に浮かぶ刺々しさは消えなかった。彼はリーゼのいないところでは、最初から私にはこの態度なのだ。
理由はわかっている。
私が子を産まなかった前子爵夫人だからだ。
家に血を残さなかった女。
リーゼという、血の繋がらぬ娘を据えただけの、役立たずの後家。
この婿の目に私はそう映っているのだ。言葉にこそ出さねど、折に触れて態度に滲み出ている。
リーゼは何も悪くない。あの子は今でも、私を実の母のように慕ってくれる。
けれど、その夫となると話は別だ。家を継いだ娘の傍らで、私という存在はもはや古い調度品のように邪魔な存在なのだろう。
私は婿に背を向け、自室へと歩き出した。
――そろそろ、潮時かしらね。
ふと、そんな思いが胸に浮かんだ。
リーゼはまだ成人したてで若いが、立派に家を継いだ。
婿も得て家は安泰だ。私がこの家にしがみつく理由は、もうどこにもない。
ならば、いつまでも居座ってこの娘夫婦に気を遣わせるより……私自身が静かに身を引いたほうが、よほど美しいのではないか。
窓の外では、春の陽が薔薇園を穏やかに照らしていた。
いつか私が、この景色に別れを告げる日のことを、私は初めて、現実のものとして思い描いた。