浮気相手の子を「育てろ」と押しつけられたので、罪のない少女は丁重に育てつつ、夫だけを優雅に制裁することにしました
親友の忘れたい過去
それから一月ほどは平穏だった。
メガエリス卿からの便りはなく、スノーフレークのいる孤児院も、変わりなく春から初夏へと移ろっているようだった。
ある日、リーゼが私の部屋を訪ねてきたついでに、その話になった。
「そうでしたか。リースト伯爵家のご当主様からの、求婚を……」
茶を傾けながら、リーゼは案じ顔で呟いた。
「あの一族に狙われたら、シスターのような純朴な方は、ひとたまりもないでしょうに」
「いろいろと、事情があるのよ。でもあなた、リースト家のことを知っているの?」
私が問うと、リーゼは少し懐かしむように目を細めた。
「学園の一学年上に、分家の子爵家のご令嬢がいらしたんです。たいそう美しい方で、いつも恋人と一緒で。それは楽しそうでした」
「まあ」
「最初はご令嬢の片想いだったのに、お相手を押せ押せで落としてしまわれて……それは見事な狩りだった、と評判で」
「まあぁ」
思わず声が裏返った。
リースト家というのは、揃いも揃って、そういう血筋らしい。
一度狙いを定めた相手は、なりふり構わず、確実に仕留めるのは血筋か。
——あの、しおれた子犬のような顔で私に縋ってきたメガエリス卿にも、そんな獰猛さが眠っているのだろうか。
求婚の手回しの早さを思えば、なるほど頷ける話ではあった。
そして、きっかり一月後。
やはり前日に先触れが届き、今度は翌日の午前中に、メガエリス卿が再び私を訪ねてきた。
「エレオノーラ夫人。まずは、あなたにお詫びと、感謝を申し上げたい」
応接間に通すなり、彼はそう切り出した。
「スノーフレーク嬢の名誉を守りつつ、過不足のないヒントをくださったこと。このリースト伯爵メガエリス、心から感服いたしました」
そして彼は、深々と頭を下げた。王族を相手にしても、ここまではすまいというほど、深く。
「この一ヶ月で、辿り着かれたのですね」
私は静かに言った。
「——答え合わせを、なさいますか」
「ぜひとも。……しかし、その前に。ネズミの目と耳を、塞いでからにいたしましょう」
メガエリス卿は懐から親指ほどの大きさの透明な筒を取り出した。
何やら指先で操作すると、キィン、と一瞬だけ甲高い音が鳴り——直後、窓の外の風の音も小鳥のさえずりも、ふつりと聞こえなくなった。
魔導具だ。音を遮る大変高価な品と見た。リースト一族は魔法の大家としても知られている。彼の一族が開発しているものだろう。
「……家の者が、不躾な真似を。申し訳ございません」
私は顔から火が出る思いで頭を下げた。穴があったら入りたかった。
つまり、ドアの外か窓の外に、この応接間の中を探っていた者がいたのだ。
恐らく……いや、間違いなくあの婿だろう。私の一挙手一投足に目を光らせているあの男。前子爵夫人の私の醜聞を掴もうと必死なのだ。
惨めだった。そしてその惨めさが、私の中の「潮時」という思いをまた一歩、前へ進める。
けれど今はそれどころではない。私は気を取り直し、メガエリス卿の答え合わせに向き合った。
彼は慎重な人だった。
いきなり核心を突くのではなく、まずは本質にかすりもしない、些細なことから始めていった。
スノーフレークの学園での様子や交友関係。家族構成や貴族家としての評判。
もちろん、在学中は婚約者がいたことも含め、外堀からひとつずつ。
そして、やがて躊躇いがちに核心へと近づいた。
「スノーフレーク嬢は、学園卒業の頃からその後にかけて、伯爵家令息だった元婚約者と揉め事があった」
「イエス」
「彼女の実家の侯爵家が、事業の不振で没落したこと。それを理由とする婚約破棄だった」
「イエス」
「その際に……元婚約者に、スノーフレーク嬢は……暴行を受けた」
「……イエス」
私の声がわずかに低く、かすれた。
ぎゅっと、膝に置いた手の指を握りしめる。
「そしてそれは——性的な、暴行であった。その心の傷ゆえに、彼女は生涯未婚を選び、今、あの孤児院でシスターを務めている」
「………………イエス」
言い切るのに、少しの間が要った。
随分と直接的に言ったものだ。
しかし私も眦に涙が滲んだが、メガエリス卿も憤懣に、長い睫毛に涙の膜を張っている。
もうずっと長いこと、私の胸の奥に錘のように沈んでいた事実がこうして、他人の口から正確に並べられていく。
それは奇妙な感覚だった。痛みと、叫び出したくなる怒り。それから、……ようやくこの重荷をもうひとり、分かち合える者が現れたという、安堵にも似た何か。
「どのようにして、そこまで?」
調べ上げたのかと、私は問うた。
「あれは、彼女の家族と……私しか知らぬはずのこと。当の加害者ですら、口外などするはずもありません」
「元婚約者の男の、引退した当時の従者を見つけ出しました」
メガエリス卿の声に初めて、刃のような冷たさが混じった。
「事件当時、その場に居合わせた男です。事後の証拠の片付けのために同じ部屋に隠れさせられていたようです。——強姦の加害者は、この国の法ではその協力者とて、時に死罪を免れぬ。そう脅してやったら、洗いざらい吐きましたよ」
私は息を呑んだ。
この男は本気だ。本気で執念をもって調べ上げている。
スノーフレークのために、はるか以前の闇の底まで、自らの手を突っ込んで。
そしてそれでもなお、彼は今ここにいる。彼女の真実を知ってなお、ひとつも怯まず、ただまっすぐに。
もしかしたら、私は奇跡の前触れに今、触れているのかもしれない。
そんな思いがふと、胸をよぎった。
メガエリス卿からの便りはなく、スノーフレークのいる孤児院も、変わりなく春から初夏へと移ろっているようだった。
ある日、リーゼが私の部屋を訪ねてきたついでに、その話になった。
「そうでしたか。リースト伯爵家のご当主様からの、求婚を……」
茶を傾けながら、リーゼは案じ顔で呟いた。
「あの一族に狙われたら、シスターのような純朴な方は、ひとたまりもないでしょうに」
「いろいろと、事情があるのよ。でもあなた、リースト家のことを知っているの?」
私が問うと、リーゼは少し懐かしむように目を細めた。
「学園の一学年上に、分家の子爵家のご令嬢がいらしたんです。たいそう美しい方で、いつも恋人と一緒で。それは楽しそうでした」
「まあ」
「最初はご令嬢の片想いだったのに、お相手を押せ押せで落としてしまわれて……それは見事な狩りだった、と評判で」
「まあぁ」
思わず声が裏返った。
リースト家というのは、揃いも揃って、そういう血筋らしい。
一度狙いを定めた相手は、なりふり構わず、確実に仕留めるのは血筋か。
——あの、しおれた子犬のような顔で私に縋ってきたメガエリス卿にも、そんな獰猛さが眠っているのだろうか。
求婚の手回しの早さを思えば、なるほど頷ける話ではあった。
そして、きっかり一月後。
やはり前日に先触れが届き、今度は翌日の午前中に、メガエリス卿が再び私を訪ねてきた。
「エレオノーラ夫人。まずは、あなたにお詫びと、感謝を申し上げたい」
応接間に通すなり、彼はそう切り出した。
「スノーフレーク嬢の名誉を守りつつ、過不足のないヒントをくださったこと。このリースト伯爵メガエリス、心から感服いたしました」
そして彼は、深々と頭を下げた。王族を相手にしても、ここまではすまいというほど、深く。
「この一ヶ月で、辿り着かれたのですね」
私は静かに言った。
「——答え合わせを、なさいますか」
「ぜひとも。……しかし、その前に。ネズミの目と耳を、塞いでからにいたしましょう」
メガエリス卿は懐から親指ほどの大きさの透明な筒を取り出した。
何やら指先で操作すると、キィン、と一瞬だけ甲高い音が鳴り——直後、窓の外の風の音も小鳥のさえずりも、ふつりと聞こえなくなった。
魔導具だ。音を遮る大変高価な品と見た。リースト一族は魔法の大家としても知られている。彼の一族が開発しているものだろう。
「……家の者が、不躾な真似を。申し訳ございません」
私は顔から火が出る思いで頭を下げた。穴があったら入りたかった。
つまり、ドアの外か窓の外に、この応接間の中を探っていた者がいたのだ。
恐らく……いや、間違いなくあの婿だろう。私の一挙手一投足に目を光らせているあの男。前子爵夫人の私の醜聞を掴もうと必死なのだ。
惨めだった。そしてその惨めさが、私の中の「潮時」という思いをまた一歩、前へ進める。
けれど今はそれどころではない。私は気を取り直し、メガエリス卿の答え合わせに向き合った。
彼は慎重な人だった。
いきなり核心を突くのではなく、まずは本質にかすりもしない、些細なことから始めていった。
スノーフレークの学園での様子や交友関係。家族構成や貴族家としての評判。
もちろん、在学中は婚約者がいたことも含め、外堀からひとつずつ。
そして、やがて躊躇いがちに核心へと近づいた。
「スノーフレーク嬢は、学園卒業の頃からその後にかけて、伯爵家令息だった元婚約者と揉め事があった」
「イエス」
「彼女の実家の侯爵家が、事業の不振で没落したこと。それを理由とする婚約破棄だった」
「イエス」
「その際に……元婚約者に、スノーフレーク嬢は……暴行を受けた」
「……イエス」
私の声がわずかに低く、かすれた。
ぎゅっと、膝に置いた手の指を握りしめる。
「そしてそれは——性的な、暴行であった。その心の傷ゆえに、彼女は生涯未婚を選び、今、あの孤児院でシスターを務めている」
「………………イエス」
言い切るのに、少しの間が要った。
随分と直接的に言ったものだ。
しかし私も眦に涙が滲んだが、メガエリス卿も憤懣に、長い睫毛に涙の膜を張っている。
もうずっと長いこと、私の胸の奥に錘のように沈んでいた事実がこうして、他人の口から正確に並べられていく。
それは奇妙な感覚だった。痛みと、叫び出したくなる怒り。それから、……ようやくこの重荷をもうひとり、分かち合える者が現れたという、安堵にも似た何か。
「どのようにして、そこまで?」
調べ上げたのかと、私は問うた。
「あれは、彼女の家族と……私しか知らぬはずのこと。当の加害者ですら、口外などするはずもありません」
「元婚約者の男の、引退した当時の従者を見つけ出しました」
メガエリス卿の声に初めて、刃のような冷たさが混じった。
「事件当時、その場に居合わせた男です。事後の証拠の片付けのために同じ部屋に隠れさせられていたようです。——強姦の加害者は、この国の法ではその協力者とて、時に死罪を免れぬ。そう脅してやったら、洗いざらい吐きましたよ」
私は息を呑んだ。
この男は本気だ。本気で執念をもって調べ上げている。
スノーフレークのために、はるか以前の闇の底まで、自らの手を突っ込んで。
そしてそれでもなお、彼は今ここにいる。彼女の真実を知ってなお、ひとつも怯まず、ただまっすぐに。
もしかしたら、私は奇跡の前触れに今、触れているのかもしれない。
そんな思いがふと、胸をよぎった。