愛とか恋とかウザいので
  ◇◇◇

 ハルモニアで働いていて蒼弥の迷いのなさに驚かされることがあるが、一度覚悟を決めれば、萌依も行動は早いほうだ。
 蒼弥の提案を受け、契約結婚すると決めた翌週には、彼のマンションに引っ越すことを決めた。
 萌依はもともと物欲が薄いので荷造りは簡単に済ませられた。

「荷物、これだけなのか?」

 業者による荷物の搬入が終わると、部屋を覗きにきた蒼弥が微かな驚きを示した。

「早瀬さんが、一通りの家具や家電があると言っていたので、古いものは処分させてもらいました」

 蒼弥が萌依の私室にとあてがってくれた部屋は、もとは使う予定もないゲストルームだったとのことで、ベッドやテレビ、備え付けのクローゼットなどはあると言われた。萌依は節約のため、使える家電や家具は、学生時代から同じものを使い続けてきたので丁度いい機会となった。
 後は使い慣れた調理器具や洋服といった身の回りのものだけなので、蒼弥が手配してくれた引越し業者にも同じように驚かれた。

「なるほど。……服や装飾品は、これから買い足していけばいいしな」

 萌依の説明に納得した蒼弥がそんなことを言う。萌依として、それは申し訳ないような気がするのだけれど、蒼弥に言わせればそれは必要経費のようなものなので、彼の妻役を引き受けるなら断られるほうが困るらしい。
 ハルモニアの社長夫人として振る舞う際には、それなりの装いでないと彼に恥をかかせることになってしまうのだろう。
 それなら彼と契約すると決めた以上、萌依としては彼の流儀に従うまでだ。

「一応聞くが、後悔しているか?」

 どこか申し訳なさを含んだ声で蒼弥が聞く。
 かなり強引に話しを進めておいて、急に弱気を見せる蒼弥が少し面白い。

「後悔していると言ったら、この契約なかったことにしますか?」

 萌依の質問に、蒼弥はまさかと肩をすくめる。

「正式に契約成立させる前に、後悔や不満があるなら、改善点を模索しようと思っただけだ」

「正式に?」

 既に引越しまで済ませたのにと、不思議に思っていると、蒼弥に婚姻届けサインがほしいと言われた。
 確かに婚姻届けを提出して、初めて自分たちは正式な夫婦になるのだ。

「そういうことだ。手が空いたら、リビングにきてくれ」

 萌依が納得すると、蒼弥はリビングへと引き返して行く。
 夫婦になるといっても、実際の関係としてはただの同居人なので、萌依が手伝いは不要だと言えば、蒼弥はその希望を尊重してくれている。

「社長と結婚か……」

 残された萌依は、改めて部屋を眺めてから立ち上がる。
 蒼弥の所有物だというこのマンションは、建物時代はバブル期に設計されたものらしいが、リノベーションがなされていて全く古さを感じない。
 話しによると、古い物件だからこそ、交通アクセスのいい都心の一等地にあり、当時の物件の方が間取りが広く天井も高い掘り出し物が多いのだとか。
 萌依としては、これからここが自宅なるなんて、未だに実感が湧かない。
 ただでさえ結婚願望がないのに、自社の社長と結婚するなんてあり得ない。そう思っていた萌依が蒼弥の提案を受けることにしたのは、彼の交渉力に負けたからではない。自分ばかり、彼に助けられていると思ったからだ。
 蒼弥の振る舞いは社会的地位のある大人としてかなり無茶苦茶ではあるが、彼なりの正義感があってのことだ。
 そのおかげで、萌依は亨介や眞希子の悪意に晒されずに済んだ。
 あれこれ文句は言っているとけど、結局のところ、萌依は彼に助けらればかりいるのだから、なにかしらの形で、その恩を返したい。
 それに、仁美たちに噓をつく形にしたくないというのもあるし、ずっと独身でいるより、祖父母が喜んでくれるだろうという思いもある。
 蒼弥が言うとおり、変に身構えずに同居の条件として考えれば、この結婚は確かにお得だ。

(とはいえ、本当にこのままサインしていいのかな……)

 揺れ動く感情を持て余しつつリビングに入った萌依は、ローテーブルの上に置かれている婚姻届けを視界に捉えて思わず尻込みする。

「どうかしたか?」

 婚姻届けを見下ろしフリーズする萌依に、蒼弥が聞く。
 彼との契約結婚は、萌依が自分の意思で決めたことなのだ。今更投げ出すつもりはない。
 だから婚姻届けを前に戸惑うこの思いを、どう言葉にすればいいのだろう。
 そんなことを考える、萌依は、なとはなしに頭に浮かんだことをそのまま口にする。

「なんでもないです。……そういえば、婚姻届けって茶色いイメージが強いですよね。離婚届は緑なのに」

「ああ」

 萌依の視線を追いかけて蒼弥が納得する。
 今は可愛いデザインの婚姻届けを用意する人も多いらしいけど、蒼弥が用意した婚姻届けは、役所に行けばもらえる一般的なものだ。
 実物を見たことはないが、離婚届の罫線や文字が緑色で印刷されていることはなんとなくの知識として知っている。
 離婚届が、爽やかな新緑の季節を連想させる緑色なのに対して、婚姻届けが、枯れ木を思わせる茶色というのはいかがなものか。
 言外に、結婚には幸せなどないと暗示されている気がする。

「本来は新郎新婦の門出を祝うために、婚姻届けは赤い字で印刷しようとしたらしいぞ。ただ当時の印刷技術では、鮮やかな赤は出せず、茶色に見えてしまったそうだ」

 萌依の素朴な疑問に、蒼弥があっさりと答えをくれた。

「そうなんですね。初めて知りました」

「今となっては確かに印象が悪いかもしれないが、その当時の人ができる、精一杯の祝福の形だったんだろうな」

 蒼弥はそう言って、床に腰を下ろす。ローテーブルの前にソファーもあるが、その方が字を書きやすいからだ。

(その当時の人ができる、精一杯の祝福……か)

 なにげないその一言が、萌依の中でふわりとこだまする。
 この結婚が正しいかどうかはわからないけど、萌依なりに、今の自分ができる精一杯の選択をしたつもりだ。
 そう納得して、萌依も床に腰を下ろした。
 蒼弥は婚姻届けの脇に置いてあったボールペンを手に取り、萌依に差し出す。それを受け取った萌依は、そこに自分の名前を書き込んでいく。

「はい。どうぞ」

 自分の情報を書き込んだ萌依は、婚姻届けとボールペンを蒼弥に返した。保証人の欄はすでに埋められているので、彼が必要事項を書き込んで役所に提出すれば、ふたりの結婚は正式なものとなる。

(この結婚は、私なりの精一杯の選択だよね)

 蒼弥が持つボールペンが、サラサラと紙の上を滑っていく。その音に耳を傾けていると、自然とそんな思いが胸に湧いてきた。
 それなら、愛のない契約結婚でも、少しでも自分の納得のいくものにしていきたい。
 蒼弥がボールペンをテーブルに置くのを待って、萌依は、彼にこの結婚に関するささやかな条件を出した。
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