レディ・マーメイド
「待て!」

亜紋はおもむろに振り返る。

「どうかなさいましたか?」
「なんだこれは? ただのコースターではないか! 俺が探していたのはこれじゃない。赤いワインの染みがあるコースターだ」
「ワインの染み、ですか? それになにか意味が?」
「意味があるのは染みじゃない、裏面の……」
「ああ、QWERTY(クワーティー)配列ですか?」
「お前っ、どうしてその暗号を」

須藤!と大きな声で金盛が遮る。

「それ以上口を開くな!愚か者が」

須藤はようやく自分の失態に気づいたようで、慌てて口をつぐんだ。

金盛が大きなため息をつく。

「あれほど言っておいたのに。九條亜紋はあなどれない、心して行動せよと。お前の下手な芝居など、すぐに見破られる。だから私は、お前に接触しないようにしたんだ。『パーティーでワインの染みがついたコースターを持ち帰れ』と、あらかじめそれだけを伝えておいた。それなのにお前ときたら、まんまとしくじりやがって。その上、スタッフを襲わせた手下までもが警察に捕まった。おかげで俺まで疑われたではないか」

金盛さん、なにを……と、須藤がオロオロしながら亜紋と金盛を見比べる。

「取り繕ったところでもう遅い。この男は既になにもかも知っている。なあ、九條亜紋?」

亜紋はじっと金盛を見据えた。
このふてぶてしさに、どんな思惑があるのか?

金盛はニヤリと不気味に笑う。

「答え合わせをしましょうか? お察しの通り、私は金でこの須藤を利用しましたよ。海外のロイヤルクレストの大量キャンセルと、SNSへの低評価の書き込み。たったそれだけで、800万もの金をこいつに渡すと約束したんだ。報酬額を入金した海外のプライベートバンクの口座番号と暗証番号を、コースターの裏に貼っておく。その番号さえあれば、お前は自由に口座の金を動かせる、とね」

それなのにこいつときたら、と金盛は両腕を組んで軽蔑の眼差しを須藤に向けた。

「そんな簡単なことすらできず、コースターが見つからないと私に泣きついてきた。どうやら近くにいたスタッフが新しいものに交換したらしいと。しかも手下に指示してスタッフを襲わせ、更衣室とゴミ置き場まで荒らした。まったく、つくづく馬鹿だな。コースターを持ち去られて、誰かに暗号を見られたところでどうってことはないというのに、自ら騒いで悪事を露呈させた」

それを聞いて初めて気づいたのか、須藤がハッと視線を上げる。

「まあ、そんな須藤の馬鹿さ加減も承知の上だったがな。九條亜紋、言っておくが警察は私を捕まえられんよ。誰かにコースターを持ち去られ、暗号が解かれたとしても気にしない。口座の金が他人に引き落とされても、困るのは須藤だけだ。それに私がプライベートバンクを開設し、須藤とのやり取りに使っていることが警察にバレても、痛くも痒くもない。須藤への報酬は800万円。そんな金額で、日本が海外の警察に捜査協力を要請するはずがない。国家のやり取りにしてみたら、800万などはした金だ。そうだろう?」

ゆったりした口調でそう言う金盛に、亜紋は頷いた。

「そうですね。たとえ事実を知っても警察はあなたを逮捕できない」

金盛は満足そうに胸をそらす。

「さすがは帝王と呼ばれるだけのことはある。須藤なんかより、はるかに物分りがいい」

亜紋はそんは金盛に淡々と告げた。

「ですが、世間はそれを許すでしょうか」

1拍置いて、金盛の表情が変わる。

「……なに?」
「日本に数多くあるゴールデンワールドホテル、しかもこれからマンハッタンにも新しくオープンさせる、日本を代表するホテルの社長がそんなことをしていた。それを知った人はどう思うでしょう」
「脅すつもりか? 証拠もないくせに」

亜紋はジャケットの胸ポケットに手をやると、スッと1枚のカードのようなものを取り出した。

「なんだ、それは?」
「ボイスレコーダーです」
「なに!? 許可もなく録音していたのか? お前だってやることが汚いぞ。それこそ世間はどう思うだろうな。ロイヤルクレストの帝王とも呼ばれる九條亜紋が、汚い手口でライバルを脅したと知られたら?」
「脅すつもりなどありませんが、誤解されるのは不本意ですね。わかりました、消去します」

亜紋はそう言うと、金盛に見えるように操作して、録音データを完全に消去した。

「これでよろしいですか?」
「ああ、うん、まあ……」

金盛は拍子抜けしたように頷く。
亜紋は更に言葉を重ねた。

「大変失礼しました。あなた方を追及することなど、私には不可能ですね。諦めます」
「ああ、それがいい。大人しくしていれば、今後ロイヤルクレストへの嫌がらせもやめてやろう。少しなら口止め料を渡してやってもいいぞ」

結構です、と亜紋は金盛に鋭い視線を向けた。
金盛は気圧されたように仰け反る。

「これ以上話をするのも時間の無駄です。それでは」

今度こそ亜紋は、黒木と共に部屋をあとにした。
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