レディ・マーメイド
「こちらです、どうぞ」

和田をスイートルームに案内して、樹莉はドアを開ける。

「へえ、とてもいいお部屋だね。上品で華やかで」
「ありがとうございます。よろしければソファへ。今、コーヒーを淹れますね」

樹莉は和田を奥のソファへ促すと、ケトルや加湿器のスイッチを入れる。
空調も調節してから、カップにドリップコーヒーを淹れた。

和田のいるソファへ、小さな焼き菓子を添えて運ぶ。

「どうぞ」
「ありがとう。今夜の制服はスカーフではないんだね」
「あ、はい。きちんとした場ですから、黒で揃えようと」

今夜のバンケットスタッフは上下黒のスーツで、樹莉は髪もシニヨンで1つにまとめていた。

「フラワーエキスポの開催中は、花を意識してスカーフにすると思います」
「そうか、それは楽しみだな」

そう言うと和田はコーヒーをひと口飲む。

「美味しいね、ホッとするよ。それにしてもこんな豪華なお部屋を用意してもらうなんて、逆に気を遣わせて申し訳ない」
「いいえ。空室でしたから、泊まっていただいた方がこちらも嬉しいです。一人でも多くの方にパレ・ド・フローラのよさを感じていただきたいので」

すると和田は樹莉に目を細めた。

「君は本当に優しいね」
「え?」
「実際はなかなかそんなふうに思えないもんだよ。空室なら掃除の手間が省けるし」
「それは、私が今は客室係ではないからです」
「だけど私が泊まりたいと言い出さなければ、君は今頃もう帰り支度をしているところだった」

樹莉は笑って首を振る。

「そんなに急いで帰る必要もないですから。帰って寝るだけなので」
「ではもう少しだけ、私に君の時間をもらえるかな?」
「はい、いかがいたしましょう? お夜食をお持ちしましょうか? お部屋でのマッサージも手配できますが」

和田は少し苦笑いする。

「話し相手になってほしい。そこに座って。今度は私がコーヒーを淹れよう」
「え、あの」

戸惑う樹莉を尻目に、和田はカップボードに近づいて慣れた手つきでコーヒーを淹れた。

「どうぞ。はい、お砂糖とミルクも」
「ありがとうございます。すみません、お客様に、しかも社長でいらっしゃる方にこんな……」
「社長とは名ばかりだな。好きな人の前ではただの男だよ。どうしたら君にいい返事をもらえるかと、必死なんだ。さっき、君と黒木さんの会話が聞こえてきてね。亜紋くんがイギリスにいることを、君は知らなかったんだろう?」

はい、と樹莉は小さく頷く。

「卑怯にも、私はそれを喜んでしまった。私ですら亜紋くんが今夜は来られないことを知っていたのに、君には伝えていなかったなんて、君達はそこまで親密な仲ではないのだなと。私なら必ず前もって君に伝える。黒木さんから聞かされた君は、少し寂しそうに見えたよ」

樹莉は返す言葉に詰まった。
そうなのだろうか?

(亜紋さんにとって、私は大した存在ではないということ?)

でも……と樹莉は思い出す。

男に襲われた時、身を挺して守ってくれた頼もしい背中。

転びそうになると、抱き寄せてくれた大きな腕。

プールに飛び込んで救い上げてくれた時の真剣な眼差し。

肩を並べて花火を観た時に、二人の間に流れた幸せな空気感。

「樹莉」
そう名前を呼んでくれる声には、愛おしさが込められていた。

「小早川さん?」

和田に声をかけられて気づく。
自分がぽろぽろと涙をこぼしていたことを。

「大丈夫? 小早川さん」

そう言うと和田は手を伸ばし、樹莉を抱きしめる。

「私なら君を悲しませたりしない。決して泣かせたりなんかしないよ。だから……」
「違うんです」
「え?」

樹莉は涙を堪えて和田を見上げた。

「私、亜紋さんが好きなんです。離れていても、思い出すだけで涙が溢れるくらい。どうしようもないほど、私は彼が好きなんです」
「だけど、彼は今君をこんなふうに一人で泣かせている。それな彼が君を幸せにできるとは……」
「幸せにしてもらおうなんて、思っていません。私は自分で幸せになります。大好きな人と一緒に」
「小早川さん……」

しばしじっと樹莉を見つめてから、和田はそっと腕を解いた。

「君は強いね。守ってあげたい、なんて私のエゴだったんだな」

自嘲気味に小さく呟くと、和田は真っ直ぐ真剣に樹莉を見た。

「そんな君を、私は心から応援したい。幸せになるんだよ」
「はい。ありがとうございます」

頷く和田にお辞儀をしてから、樹莉は部屋をあとにした。
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