winterlovesong 雨の中の恋歌

序章

 漆黒の闇が少しずつ紫がかってきた港。 敬子は一人、遠い海を眺めていた。
寄せては返す白波が冬の空を恋しがっているように見える岸壁で彼女はぼんやりと何かを探していた。 それが何なのかは彼女自身にも分からないようだ。

 今、林田恵子は30歳になっていた。 小さな病院の看護師として働き、夜はスナックのホステスとして浮世の男たちを見詰めてきた。
彼らは水割りを飲みながらそれが義務でもあるかのように彼女に毎晩甘ったるい口説き文句を投げ付けてきた。
 でも敬子にはそれが堪らなくうざかったんだ。 乗った振りをして後をバーテンに任せて逃げたことだって有る。
何処からどう見ても飛べない鳥にしか見えない男たちが酔いに任せて口説き文句を吐き並べるのにはほとほと嫌気も差していた。
 最初の頃はうっかり乗ってしまって怖い思いをしたことだって有る。 今、敬子は白波を見ながらそんな男たちの過去を洗い流そうとしているのかもしれない。
ママは冷たく笑っていた。 「酔っ払った男たちの話なんかまともに聞くもんじゃないわよ。 金さえ払ってくれたらそれでいいじゃない。」
敬子は最初、その意味が分からなかった。 しかし同僚だった水城真紀が紐男に孕まされて借金を残したまま蒸発したのを見て何かを感じたのだろう。
 飲むのはほどほどにして軽く相槌を打ちながら酔っ払うのを待つ。 酔っ払ったら「そろそろ帰ったら?」と耳打ちをして金を払わせる。
そんな敬子の人気はママも羨むほどに高かったんだ。 〈黙って話を聞いてくれる女だ〉って具合にね。

 敬子がスナックに現れるのは週末だけ。 平日は病院のほうが大変だから。
普段は小さな内科で走り回っている。 院長はもうすぐ70歳の小酒井利治先生だ。
 この先生、かなりの変わった医者でね、、、。 「胃の辺りがどうもおかしいんだ。」って患者が言うと「じゃあ胃薬を出すから飲んで様子を見てなさい。」って追い返してしまう。
「それでもあんたは医者か?」って患者が噛み付くと「今、胃の辺りが悪いって言ったじゃないか。 胃が悪いんなら胃薬を飲めばいいんだ。」って言い返す。
そんなヘンテコな問答を聞きながら敬子は苦笑いをする。 患者が降参すると小酒井先生はやっと聴診器を耳に当てるんだ。
 患者が帰った後、「先生も大変ですねえ。」なんて言おうものなら「あんたがしっかりしないから俺がやり込められるんだ。」って臍を曲げてしまう。
ここまで変わった岩窟医者も居ないだろう。 そんな病院で10年間敬子は働いてきた。

 「私って何なんだろう?」 白みかけた水平線を眺めながら不意にそんなことを考えてしまうんだ。
祖母からは「30までに結婚できない女は役立たずなんだ。」なんて子供の頃から言い聞かされてきた。 その30になってもなお、彼氏すら居ない自分が情けなくなってくる。
「気にするなよ。 ばあさんたちが言うことだ。 どうせ迷信に決まってる。」 友人たちはそう言って励ましてくれるんだけど飲んでいるとつい思い出して胸が苦しくなってしまう。
 だからなのか、敬子は知らない間にスナックも辞めてしまった。 その店も半年前に閉店してしまったと聞く。
そして今、山南町にも木枯らしが吹き始めていた。 水平線の彼方から白い線が伸びてくる。
それはやがて黄色い面になって水平線の上に顔を出した。 敬子はなぜか生き返ったような気がして港を離れるのである。
 今日は土曜日。 いつもなら今頃は酔った頭で布団の中を転げ回っているのに、、、。

 その静かな部屋に戻ってみても今は誰も居ない。 スナックで働いていた頃、結婚を誓った彼だって、、、。
何が有ったのかは知らないがあの店が閉店した頃に荷物をまとめて出て行ってしまったんだ。 何もかもが信じられなくなった。
 ただ、病院の仕事だけが生き甲斐のように感じられてきた。 敬子は自分を探していたんだ。
だからなのか、寄せ返す波を見ていたら奇妙にも落ち着いてくるのは?

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