藍色の溺愛〜あなたの声が好きすぎて〜
第一章 声の魔法
重い防音扉を押し開けると、夜の静寂が、私を包み込んだ。ライブハウスの熱気が遠ざかり、火照った頬を夜風が撫でていく。
私の背中を押すようにライブハウスから続々と出てくる可愛らしい女性たち。みんな『アーバンベリー』のファン。
『アーバンベリー』は人気急上昇中の三人組ロックバンド。
特にボーカルの藍沢月哉(あいざわつきや)はルックスも良く、ミントを浮かべた炭酸水のようにクールで刺激的。
その歌声は、ガラス細工のような繊細な質感と、滑らかなのに耳を心地よく刺激するシルクとリネンのようで。
ビブラートは水面に広がる波紋。心の隅にある小さな空間に、じんわりと溶け込んでいく。
感情が高ぶる瞬間の熱く伸びやかな高音が、エモーショナルで。引き止めたいけれど言えないもどかしさを際立てている。儚さを宿した響きが、凛と鳴る切なさとして記憶の中に刻まれる。
その歌声を聴いた女性は、月哉の魔法にかかってしまう。とろん、と子猫が陽溜まりで微睡むように。
私も月哉の歌声が好き。
でも、もっと好きなのは、月哉が話す時の声。蜂蜜を溶かしたような、甘くて優しい、少し低い声。
私は、『声フェチ』。
好き過ぎて、あまりにも大好きで。これからもずっとずっと⋯⋯、永遠に魔法が解けそうもない。私が『声の魔法』にかかったのは、『アーバンベリー』のラジオだった。
SNSで流れてきた『アーバンベリー』の曲がきっかけで、『アーバンベリー』のラジオを聴き始めた。毎週、金曜日の夜10時から11時までの放送。
そのエンディングで月哉の蜂蜜を溶かしたような、甘くて優しい、少し低い声がした。
「おやすみ。ゆっくり休んでね」と。
私は毎日、仕事で疲れ果てていた。体は鉛のように重いのに、疲れすぎていて眠れない。脳だけが過敏になっていて、ベッドに入って目を閉じると余計に目が冴えてしまう、そんな日々が続いていた。
でも、その日の夜は、安心して、ぐっすりと眠ることができた。月哉の声のおかげで。
ー*ー*ー*
翌週、『アーバンベリー』のラジオ番組にメールを送った。
【月哉さんの声が好きすぎて。「おやすみ。ゆっくり休んでね」の声のトーンが大好きです。最近、あまり眠れなくて。でも、月哉さんのその声を聴いて、久しぶりにゆっくり眠れました】
送信をタップした後、幼すぎる文章に恥ずかしくなった。
放送中にメールは読まれなかったけれど、それから、月哉は毎週、「おやすみ。ゆっくり休んでね」と言ってくれるようになった。
別に私のためではない。それは、よくわかってる。
ー*ー*ー*
そんな想いを抱えて、私は『アーバンベリー』のライブへ足を運んでいる。
ライブがヒートアップすればする程、ライブハウスを出た直後、虚無感に襲われる。月哉のいない外の世界は私にとって、なにもないのと同じ。テレビやネット、ポスターの中の月哉だけでは満たされない。
会う度に別れが訪れるのがライブの宿命。もうこんな寂しい気持ちになりたくない。月哉の瞳に映る景色を私の瞳に投影したい。月哉の『声』をずっと聴いていたい。
ライブハウスから出てきた女性たちが裏口へと流れていく。ほとんどの女性が高級ブランドのショッパーや女の子チックな可愛らしい袋を提げている。
『アーバンベリー』は、出待ちを禁止していないバンド。禁止どころか、時間があれば握手やハイタッチをしてくれたり。ファンを大切にしてくれる。
だから、ファンの女性たちは、自分のことを覚えていてほしくなって、プレゼントを渡したくなる。その気持ちが私にもよくわかる。
でも、私が提げているのは、オーガニック専門店の紙袋。中身はジャーマンカモミールティーと蜂蜜。もっと可愛くラッピングしてもらえば良かったと、今になって思う。
私は今まで『なんとなく』で恋をしてきた。なんとなく付き合って、なんとなく別れて。まだ二十代だし、なんて自分自身に言い訳をして。そんな消化不良の恋はいつも自然消滅。
「愛してるよ、琴音」
そうやって嘘を詰め込んだ偽物の言葉で抱き締められた記憶だけがモノクロの雑踏となり胸に焼きついている。抱き締められるより、抱き寄せられたい。
時は移り変わるもの。いつの間にか、もう29歳。
仕事は残業が多くて大変だし。友達は結婚して、気軽に誘えなくなった。
私という季節は花を咲かすことがないまま移り変わっていく。今という時の流れの早さに身を任すことができない。
藍沢月哉は、24歳。私、中村琴音は、29歳。年の差は埋められないけど⋯。
だからこそ、若くて可愛い子を羨ましいと思うより、今の私を輝かせたい。だって、過ぎてしまった時はどんなに足掻いても巻き戻せないのだから。
向かいにある営業を終えた美容室の鏡に私の姿が映っている。
汗で濡れた前髪を手で撫でる。メイクは、うん。こんな感じで大丈夫かな。
私が裏口へ行こうとした瞬間、車が止まる音がして、数秒後に「きゃー」というピンク色の歓声が噴水のように上がった。
裏口から『アーバンベリー』のメンバーが出てきて車に乗り込む姿が私の目にリアルを装い浮かんだ。
スケジュールの関係で、時々、こういう日がある。でも、こういう日でも、メンバーは、車の窓を開けて、ファンに顔が見えるように手を振ってくれる。それが『アーバンベリー』の優しさなのだ。
その姿さえ、見られなかった。ライブで満足しているはずなのに、私の瞳から涙の雫がぽつりぽつりと雨粒のように落ちていく。涙を塞ぐように目を閉じかけた時、正面の出入口から誰かが出てきた。
誰か、じゃない。それは私が待っていた月哉だ。
「月哉さん! でも、どうして? 車じゃないの」
「他のメンバーは車。俺は歩き。歩きたい気分なんだ」
月哉はそう言いながらサングラスを外した。藍色を秘めたブラウン系の瞳が私を捉えている。もう吸い込まれてしまいそう。頬を伝っていた涙が乾いていく。
なに、このシチュエーション。神様がくれたご褒美?
毎日、満員電車に乗って、残業もして。ヒールの底を磨り減らしながら頑張っている姿を神様は見てくれていたんだ。そうとしか思えない。
「いつも来てくれてるよね。ありがとう」
「えっ、そ、そんな。私、月哉さんの事が。そうだ、これ、もらってください!」
緊張で声が震えている。私は思考回路の赤と黄色の線が緩く絡まったままオーガニック専門店の袋を渡した。
「ん?これ、ハーブティー?」
「喉に優しいジャーマンカモミールティーと蜂蜜です」
「嬉しい」
月哉は、ちょっと照れたように、形の良い唇の端を上げて微笑んだ。
月哉が発する言葉、その声のひとつひとつに私の体が反応して脈を打つ。
「あのっ、私」
「なぁに?」
体の芯がドクンドクンと波を打ち、それが頬まで伝ってきて、耳の中に火照りをもたらした。
「もう、その声、反則です」
「なんで?」
優しく微笑みながら、ちょっと意地悪そうに聞いてくる月哉。
「月哉さんの声が好きすぎて」
素直に答えてしまう愚かな自分に気付く。
「みんなさ、俺の歌声とかルックスが好きっていうのにな」
「歌声もルックスも好きです!」
「知ってる。好きじゃなかったら、ライブハウスまで来てくれないでしょ?」
あぁ、もう何も考えられない。
「夜風が気持ちいいなぁ。ねえ、そこの公園で一杯だけ飲まない?」
月哉の突然の誘いに、私は魔法にかかったかのように頷いていた。
私の背中を押すようにライブハウスから続々と出てくる可愛らしい女性たち。みんな『アーバンベリー』のファン。
『アーバンベリー』は人気急上昇中の三人組ロックバンド。
特にボーカルの藍沢月哉(あいざわつきや)はルックスも良く、ミントを浮かべた炭酸水のようにクールで刺激的。
その歌声は、ガラス細工のような繊細な質感と、滑らかなのに耳を心地よく刺激するシルクとリネンのようで。
ビブラートは水面に広がる波紋。心の隅にある小さな空間に、じんわりと溶け込んでいく。
感情が高ぶる瞬間の熱く伸びやかな高音が、エモーショナルで。引き止めたいけれど言えないもどかしさを際立てている。儚さを宿した響きが、凛と鳴る切なさとして記憶の中に刻まれる。
その歌声を聴いた女性は、月哉の魔法にかかってしまう。とろん、と子猫が陽溜まりで微睡むように。
私も月哉の歌声が好き。
でも、もっと好きなのは、月哉が話す時の声。蜂蜜を溶かしたような、甘くて優しい、少し低い声。
私は、『声フェチ』。
好き過ぎて、あまりにも大好きで。これからもずっとずっと⋯⋯、永遠に魔法が解けそうもない。私が『声の魔法』にかかったのは、『アーバンベリー』のラジオだった。
SNSで流れてきた『アーバンベリー』の曲がきっかけで、『アーバンベリー』のラジオを聴き始めた。毎週、金曜日の夜10時から11時までの放送。
そのエンディングで月哉の蜂蜜を溶かしたような、甘くて優しい、少し低い声がした。
「おやすみ。ゆっくり休んでね」と。
私は毎日、仕事で疲れ果てていた。体は鉛のように重いのに、疲れすぎていて眠れない。脳だけが過敏になっていて、ベッドに入って目を閉じると余計に目が冴えてしまう、そんな日々が続いていた。
でも、その日の夜は、安心して、ぐっすりと眠ることができた。月哉の声のおかげで。
ー*ー*ー*
翌週、『アーバンベリー』のラジオ番組にメールを送った。
【月哉さんの声が好きすぎて。「おやすみ。ゆっくり休んでね」の声のトーンが大好きです。最近、あまり眠れなくて。でも、月哉さんのその声を聴いて、久しぶりにゆっくり眠れました】
送信をタップした後、幼すぎる文章に恥ずかしくなった。
放送中にメールは読まれなかったけれど、それから、月哉は毎週、「おやすみ。ゆっくり休んでね」と言ってくれるようになった。
別に私のためではない。それは、よくわかってる。
ー*ー*ー*
そんな想いを抱えて、私は『アーバンベリー』のライブへ足を運んでいる。
ライブがヒートアップすればする程、ライブハウスを出た直後、虚無感に襲われる。月哉のいない外の世界は私にとって、なにもないのと同じ。テレビやネット、ポスターの中の月哉だけでは満たされない。
会う度に別れが訪れるのがライブの宿命。もうこんな寂しい気持ちになりたくない。月哉の瞳に映る景色を私の瞳に投影したい。月哉の『声』をずっと聴いていたい。
ライブハウスから出てきた女性たちが裏口へと流れていく。ほとんどの女性が高級ブランドのショッパーや女の子チックな可愛らしい袋を提げている。
『アーバンベリー』は、出待ちを禁止していないバンド。禁止どころか、時間があれば握手やハイタッチをしてくれたり。ファンを大切にしてくれる。
だから、ファンの女性たちは、自分のことを覚えていてほしくなって、プレゼントを渡したくなる。その気持ちが私にもよくわかる。
でも、私が提げているのは、オーガニック専門店の紙袋。中身はジャーマンカモミールティーと蜂蜜。もっと可愛くラッピングしてもらえば良かったと、今になって思う。
私は今まで『なんとなく』で恋をしてきた。なんとなく付き合って、なんとなく別れて。まだ二十代だし、なんて自分自身に言い訳をして。そんな消化不良の恋はいつも自然消滅。
「愛してるよ、琴音」
そうやって嘘を詰め込んだ偽物の言葉で抱き締められた記憶だけがモノクロの雑踏となり胸に焼きついている。抱き締められるより、抱き寄せられたい。
時は移り変わるもの。いつの間にか、もう29歳。
仕事は残業が多くて大変だし。友達は結婚して、気軽に誘えなくなった。
私という季節は花を咲かすことがないまま移り変わっていく。今という時の流れの早さに身を任すことができない。
藍沢月哉は、24歳。私、中村琴音は、29歳。年の差は埋められないけど⋯。
だからこそ、若くて可愛い子を羨ましいと思うより、今の私を輝かせたい。だって、過ぎてしまった時はどんなに足掻いても巻き戻せないのだから。
向かいにある営業を終えた美容室の鏡に私の姿が映っている。
汗で濡れた前髪を手で撫でる。メイクは、うん。こんな感じで大丈夫かな。
私が裏口へ行こうとした瞬間、車が止まる音がして、数秒後に「きゃー」というピンク色の歓声が噴水のように上がった。
裏口から『アーバンベリー』のメンバーが出てきて車に乗り込む姿が私の目にリアルを装い浮かんだ。
スケジュールの関係で、時々、こういう日がある。でも、こういう日でも、メンバーは、車の窓を開けて、ファンに顔が見えるように手を振ってくれる。それが『アーバンベリー』の優しさなのだ。
その姿さえ、見られなかった。ライブで満足しているはずなのに、私の瞳から涙の雫がぽつりぽつりと雨粒のように落ちていく。涙を塞ぐように目を閉じかけた時、正面の出入口から誰かが出てきた。
誰か、じゃない。それは私が待っていた月哉だ。
「月哉さん! でも、どうして? 車じゃないの」
「他のメンバーは車。俺は歩き。歩きたい気分なんだ」
月哉はそう言いながらサングラスを外した。藍色を秘めたブラウン系の瞳が私を捉えている。もう吸い込まれてしまいそう。頬を伝っていた涙が乾いていく。
なに、このシチュエーション。神様がくれたご褒美?
毎日、満員電車に乗って、残業もして。ヒールの底を磨り減らしながら頑張っている姿を神様は見てくれていたんだ。そうとしか思えない。
「いつも来てくれてるよね。ありがとう」
「えっ、そ、そんな。私、月哉さんの事が。そうだ、これ、もらってください!」
緊張で声が震えている。私は思考回路の赤と黄色の線が緩く絡まったままオーガニック専門店の袋を渡した。
「ん?これ、ハーブティー?」
「喉に優しいジャーマンカモミールティーと蜂蜜です」
「嬉しい」
月哉は、ちょっと照れたように、形の良い唇の端を上げて微笑んだ。
月哉が発する言葉、その声のひとつひとつに私の体が反応して脈を打つ。
「あのっ、私」
「なぁに?」
体の芯がドクンドクンと波を打ち、それが頬まで伝ってきて、耳の中に火照りをもたらした。
「もう、その声、反則です」
「なんで?」
優しく微笑みながら、ちょっと意地悪そうに聞いてくる月哉。
「月哉さんの声が好きすぎて」
素直に答えてしまう愚かな自分に気付く。
「みんなさ、俺の歌声とかルックスが好きっていうのにな」
「歌声もルックスも好きです!」
「知ってる。好きじゃなかったら、ライブハウスまで来てくれないでしょ?」
あぁ、もう何も考えられない。
「夜風が気持ちいいなぁ。ねえ、そこの公園で一杯だけ飲まない?」
月哉の突然の誘いに、私は魔法にかかったかのように頷いていた。
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